黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
32.マファルダスト①
耳辺りで切り揃えた赤毛が少しだけ伸びて、鬱陶しいのか乱暴に指先で掻き上げた。その時袖が捲れて見えた上腕は筋肉質で力強い印象を与える。だが、再び組んだ両腕に載せられた二つの柔らかな膨らみは、その人が男性ではない事を嫌でも意識させる。
歳の頃は30位だろうか、凛とした立姿は姐御や姐さんと呼ばれるのが相応しい出で立ちだ。
服装は男性が着るような濃い緑の上着とパンツだが、それが反対にその美しさを際立たせているように見える。
その女性が持つ黄金色の瞳が見詰めるのは、多くの木樽だろうか。それぞれが焼き締められていて分厚く、頑丈であるのが触らなくても分かる樽達だ。
幾人かの男達が底の縁周りを地面で転がしながら、視線の更に先の馬車に持ち上げて次々と載せていく。空とはいえ、かなりの重量であろう樽を簡単に載せていく様は、男達の身体が如何に鍛えられたものなのかを物語る。
「よく間に合ったね。流石だよ」
「ははは、ロザリー様の頼みとあらば魔獣にも打ち勝って見せましょうぞ!」
「はあ……ちょっと褒めたらこれだよ。なら代金は要らないね?」
「おっと、これはやられましたな! 代金は頂かないと家族が路頭に迷ってしまいますから、心苦しいですが受け取りましょう」
禿げ上がった頭をペチペチと叩きながら、商人の男は大声を張り上げて笑った。
「ロザリー様、今夜一杯どうですか? お互い更に親密になる時かと……いかがでしょう?」
「あんたも懲りないね……商売相手を口説いてんじゃないよ、死んだ奥さんに申し訳なくないのかい?」
何時もの冗談と冷めた流し目で冷やかすロザリーだが、商人の男は内心本気なんだけど……とツルッとした頭頂を撫でるしかない。
「残念ですなぁ……出発は明日ですかな?」
「いや、今夜立つよ。最初に西に行くからね、今夜は夜通し進むのさ」
「そうですか……マファルダストの御武運と御無事を白神に祈っておきましょう」
「ありがとさん! 最近噂の聖女様がお守り下さるさ……ははは! じゃあまた頼むよ!」
そう言うとロザリーは、馬車に乗り込み男達に指示しながらゆっくりと去って行った。
リンスフィアを支えるロザリーの一行を見送った商人は、心から無事を祈った。聖女など只の迷信だろうが、片思いの女性を守ってくれるなら何でもいい。
馬車が角を曲がって見えなくなるまで商人はその場から動かなかった。
樽を手に入れたロザリーは馬車を操りながら隣に座る男に声を掛けた。
「フェイ、他に用立てる物はなかったかい?」
「そうですね……姐さん、南部へ行くならククの葉が手に入るかもしれません。革袋は余計に持って行きますか?」
「ああ、南部なら確かにそうだね……イオアンの爺様がいたから任せっきりだったね……」
ロザリーより小柄なフェイと呼ばれた男は、マファルダストの副隊長で40を超えるベテランの森人だ。粗野な男が多い森人の中では珍しい理知的なフェイは、隊商でも頭脳労働を請け負っていた。
「イオアンさん程の方でも森にのまれるとは、残念でなりません」
「爺様はいつも言ってたよ、森で死ぬってね。私達も死ぬなら森がお似合いだよ」
「姐さんは森で死んではいけません。ルーやフィオナちゃんとヴァルハラで会えませんよ」
「……はいはい、わかったよ。アンタが居ると調子が狂っちまうね」
「先代に頼まれましたから、嫌でも側にいますよ」
溜息をついたロザリーをフェイは優しく見守っている。ロザリーの父から頼まれた事ではあるが、フェイにとってロザリーはリーダーであると同時に妹や娘みたいなものだ。
家族のいないフェイを鍛えてくれたロザリーの一家には返しきれない恩がある。小さな頃から見てきたロザリーを無残に死なせたりはさせない……森人にとって死は身近なものだが、それは心の中でいつも思う事だった。
隊商マファルダストは30人程の森人の集団だ。
昔は隊商を、街から街へ移動しつつ物を売り買いする商売人の事を指した。しかし森に囲まれた国々ではその様な商売は自殺行為でしかなく、時代と共にその意味が変化していった。大国であるリンスフィアも例外ではなく、多くの隊商が活動している。
隊商とは森人が寄り集まり、採集や狩猟を行う集団と集めた物資を運搬する集団で組織される。マファルダストは中規模ながらリンスフィア最高の隊商として知られていた。
革袋を多めに用意したロザリー達は、外円部大門の側にある宿営地に馬車を止めた。宿営地と言ってもまだ城壁内の街中で、隊商相手の商売人や出店で賑わっている。一括で借り上げている元宿屋にロザリー達が入ると、そこはガヤガヤと騒がしい食堂の様だった。
「姐さんおかえりなさい!」
「フェイ! これを見てくれ!」
皆が思い思いに食事をしたりしているが、誰一人として酒を飲む者はいない。今夜一月ぶりにリンスフィアを出て森へ向かうのだ。程よい緊張感が熱を持ち、笑顔の中にも確固たる決意が見える。
フェイはロザリーから離れて渡された資料に目を通している様だ。
皆に挨拶しながら奥の部屋に向かうロザリーに若い男が声を掛けてきた。
「ロザリーの姐さん! 今夜の隊商には俺を連れてってくれますよね?」
20歳にも満たないだろう若い男は、自分が全能であるかの様な自信に溢れて眩しいくらいだった。小さな器では支えられない力がこぼれるように、キラキラと輝いている。
艶のある長めの金髪と白い歯までもがキラッとしたのを見たロザリーはうんざりしてこめかみを指で押さえた。
「リンド、アンタは運送の手伝いだと言ってるだろう。ナマ言ってないで馬車に食糧を運びな」
「姐さん、俺なら大丈夫ですから! 俺の剣の腕を知ってるでしょう? 狼程度なら一撫でしたら終わりですよ!?」
そんな事聞いてないし、何が大丈夫なのかさっぱりわからない……ロザリーは目の前のキラキラしている物体から目を離そうとしたら回り込んで来たので思わずぶん殴りそうになった。
「姐さん、落ち着いて」
すぐ後ろにいたジャービエルが珍しく口を開いた。
「……アンタが喋るなんて何かあったのかい?」
女性にしては背の高いロザリーも流石にジャービエルを見上げるしかない。普段から無口な男だが、今回は何かあったのだろうか?
疑問符を浮かべたロザリーにジャービエルの珍しい二言目が耳に届いた。
「リンドは中々頑張ってる。連れて行ってみよう」
「……ジャービエル……アンタ負けたね?」
「カード、リンド強かった」
つまり賭け事に負けて、リンドの味方をしているという事だ。
「……はぁ……もう好きにしな! 面倒はアンタが見るんだよ!」
大きな顔に指を突き付けたロザリーは、溜息をついて自室に向かうしかない。
「よっしゃー!! 姐さん、俺なら一人でも大丈夫ですから!」
だから何が大丈夫なんだ……頭痛がしてきたロザリーはぐったりして部屋の扉をパタンと閉めた。心なしか扉も元気のない音しか立ててくれないのが虚しい。
部屋の鍵を閉めたロザリーはもう一度だけ溜息をつき、仮眠を取る為にベッドへ腰掛けた。
「まあ、いつかは連れて行かなきゃならないからね……」
無理矢理自分を納得させたロザリーは、厚手のジャケットを脱いで近くにある椅子に放り投げる。さっきまで五月蝿かったキラキラ光る物体のせいか、手元が狂って机にあったペンダント立てにジャケットが当たった。
パタンと倒れたそれに掛けてあったペンダントが机に転がり、カチャンと音を立てる。 ロザリーは慌ててペンダントが壊れてないか確かめ、傷も付いてない事にホッとした。
そのペンダントは酷く不格好で、土を塗り固めた様な粘土で人の顔を形どっている。塗料で頭の部分を赤く塗られた顔はおそらくロザリーだろう。それを優しく指で撫でたロザリーはジャケットを脱いだ事で大きく迫り出した胸に抱きしめた。
「フィオナ……ママを許してね……」
ロザリーは仮眠を取るのも忘れ暫くはペンダントを抱き締めて、身動きすらせずに愛した娘を思う。
遮光性の高いカーテンは、ロザリーに光を届けずに流れた涙を光らせたりはしなかった。
階段を上がり扉を閉めたロザリーを見送ったリンドは、喜びを噛み締めながら軽口を叩き始めた。
「よしっ、やっと森へ行けるな! 剣も新調したし、俺も一人の森人の男だ!」
周りのベテラン達は、俺も若い時はそうだったとか、あまり調子に乗ると怪我するぞ、などやはり自分が若い時に言われた言葉をリンドに届けた。しかし届けると同時にこの頃はどうせまともには聞かないと分かってもいる。
ところが若さは時に予想を覆す喜びや驚きをもたらすが、それとは逆に間違いを犯すものだ。
「姐さんてあんなに美人なのに、男はいないんですかねー?」
悪気は無くとも、言葉には時に人を傷付ける力が働く。話を終えたフェイがそれを耳にしてリンドの頭を平手で引っ叩いた。
「痛えっ、なんだよ! あっ……フェイさん」
「くだらん事を言うんじゃない、リンド」
「なんだよ! 只の軽い冗談ですよ!?」
フェイは冗談では済まない軽口もある事を自分が伝えるべきが悩んだが、周りを見渡しても自らが言うしかないと切り出した。
「リンド、そこに座れ」
普段はどちらかと言えば穏やかなフェイの厳しい声に慌てて席に着く。
「いいか、これから一緒に回るならお前も餓鬼じゃ済まない。一人の男として教えておいてやる」
「森人は騎士と並び死ぬ事が多い。それはお前もわかるだろう。森人達は身近な人の死を、時に泣き、笑い、悼む。だがそれは本人しか許されない事で、周りはただ見守って肩を貸すぐらいしか出来ない。恋や愛、男女や家族の話はおいそれとするな。わかったか?」
フェイの淡々とした言葉は重く、リンドにも何となく理解は出来た。
「……姐さんには昔、夫と娘がいた。いたんだ、わかるだろう? 旦那さんの名はルー、優しい良い男だったよ。娘はフィオナ、姐さんと同じ赤毛でお転婆な子だった。フィオナが4歳の時に二人とも死んだ、たった8年前の事だ。もし生きてたらフィオナは12歳、可愛い盛りだろう。姐さんはそれから直ぐに森人となった。若い女が森人になる事がどれ程大変か想像はつくか? そして今俺たちマファルダストを率いている。俺たちは姐さんに惚れてここにいるが、それは愛や恋じゃない」
わかるか? ……フェイの真剣な眼差しはリンドの心臓を煩くさせたが、頷く以外に出来る事などなかった。
リンスフィアの夜を誘う夕焼けが街を紅く染め始めて、夕暮れの薄闇が静かに降りて来た。
宿営地にも同じ薄闇が訪れて、ポツポツと松明やランプに火が灯り始める。ロザリー達は眠りに落ち、マファルダストの皆は一部を除いて森への旅立ちを静かに待っている。
樽をギッシリと載せた馬車の側に、小さな人影が見える。薄闇に隠れる装いは、濃い群青色か。松明に一瞬照らされたその装いは、あちこちが裂けたり破けたりしている。時折覗く素肌は妙に白く見えて、艶かしい。女性、いや少女だろうか? 起伏のある身体は大人を感じさせるが、どこか幼さを見せる動きに見たものがいれば視線を奪われるかもしれない。
殆どの暗闇に覆われた宿営地の黒に溶け込むような漆黒は肩まで届く髪で、大して強くもない風にも揺られるそれはまるでシルクの細糸のようだ。
髪を揺らしながらキョロキョロと周辺を警戒した人影は、まるで獣の様に軽やかに馬車に乗り込み、体を隠した後再び外を警戒して小さな顔をわずかに覗かせた。
離れたところを歩く男が持ったランプの光が一瞬だけ顔を照らして、翡翠色の瞳を光らせたが誰も気付くことは無かった。
スッと馬車の奥に消えた小さな影は、もう人の目には映らないだろう。
緩やかな夜の時間が流れている。
マファルダストの旅はまだ始まらない。
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