黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
29.クイン=アーシケル
「カズキを街に連れ出すわ」
ベランダから街を眺めているカズキを見ていたアスティアが呟いた。
「街にですか? 許可が出ますかねー?」
随分前に思える星空をあしらった濃紺のワンピース姿、そんな可愛らしいカズキをエリも見ていた。それはカズキの黒髪と相まって優しい夜を幻想させるのだ。最近思い立って手に入れなおした一品である。ちなみに色違いがもう一着あるらしい。
「馬車はアレにするわ、ほら、周りがよく見えて天井だけ付いてる……」
「あー、パレードの時に使った馬車ですね? 名前は……なんでしたっけ?」
「名前なんていいの。 馬車からは降りない様にして警護も付けるし、私も行くんだから滅多なことは起きないでしょう? 兄様が連れ出した時、カズキは凄く楽しんでいたらしいし、先ずは気分を変えた方が良いと思う」
「たしかにそれなら周りの目もあるし、悪い奴等がいても手出しは出来ないですかね?」
エリは疑問符の付いたセリフばかりで、何時にも増して子供っぽい。 悪い奴等と言う言葉選びがそれを加速させて、アスティアにも微笑が溢れてきた。
「買いたいものや食べたいものは、エリに手伝って貰うわ。 それと特別にお酒を少しだけ飲ませてあげるのも良いと思っているから」
「可愛い聖女様はお酒が大好きみたいですもんね? あの幻のお酒はまだ手に入るのか!?」
エリは可愛らしく拳を握って天を見上げる仕草をする。
ちなみに、幻のお酒とは以前カズキが隠れて飲んだ赤ワインだ。
葡萄畑も醸造所も森にのまれた為に、今では生み出す事の出来ない文字通りの幻の酒。 貴重なワインを僅かに飲んだだけで酔ったカズキは床に転がり、ついでにワインボトルも転がってふかふかの絨毯に飲ませた。
アストと歩いた街でもお酒を飲もうと周りを困らせたらしい。エリの言う通り、ベランダに佇む聖女は酒好きと判明している。
帰り道で少しだけ飲ませて、眠るカズキを膝枕する事まで予定に組んだ。勿論優しく髪を撫でるのだ。全く癖のない黒髪を最近は撫でていない。スルスルと指通りの良いカズキの髪はアスティアのお気に入りなのだから。
「先ずはクインに相談しましょう。 きっと助けてくれるわ!」
大きな声にも反応しないカズキに寂しさを覚えたが、少しずつでも出来る事をしてお転婆な妹に戻って貰うと決めたアスティアは行動を開始した。
用事を済まし黒の間に帰って来たクインは、あっさりと答えた。
「駄目です」
「なんでよ!」
隠す事すらしない溜息を零したクインにアスティアは喰い下った。
「殿下の時とは状況が違います。 今王都にカズキを連れ出すのは賛成出来ません」
「私も着いて行くし、街を歩くつもりもないのよ? 馬車から眺めるだけでも気分転換になるし、早くカズキを助けたいの」
アスティアの心からの健気な思いはクインを少しだけ動揺させたが、彼女の明晰な頭脳は否を唱えた。
「アスティア様のお気持ちはわかります。 それでも賛成出来ません」
「それでカズキを黒の間に閉じ込め続けるの? そんなの可哀想じゃない!」
カズキの事になると急に聞き分けが悪くなる王女に、クインは頭をひねって説き伏せるしかない。
「アスティア様もご存知の筈です。 街にはカズキの噂が流れていますから、見つかったらどんな騒ぎになるか……カズキだって恐ろしい思いをするかもしれないですよ?」
卑怯とは思うが、カズキを引き合いに出してアスティアの優しさに訴えかける。 予想通りにアスティアの意気は消沈し、カズキの横顔を見て黙ってしまう。
「でも……この数日もカズキの様子は変わらないわ。 なんとなくこのままでは駄目な気がするの」
愛する妹を見る姉の瞳は、愁いを帯びて大人の女性を感じさせた。クインはアスティアの思いが痛い程にわかるが、同時に別の危険がある事を知っている為に協力は出来ないのだ。
アスティアやエリに伝えてはいない新しい事実が判明し、予想以上に不穏な状況を知るクインには酷な話かもしれない。
"主戦派"と呼ばれる者達がいる。
明確な組織ではないし、ある意味ではこの世界に生きる全ての人がそうだと言える。 魔獣とは不倶戴天の敵であり、誰しもが差異はあれども憎しみを持っている。 目の前に魔獣を打ち倒せる武器があれば、皆が手に取り立ち上がるだろう。
だが、ここで言う主戦派は違う。
憎しみに囚われて逃げる事も出来ない者達の一部は、自らが死する事も厭わず一匹でも多くの魔獣を道連れにする事だけを考えている。多少の犠牲やほかの人への配慮などはない。
街に蔓延しているカズキの噂は、詳細に過ぎる上に決戦を煽る性質が強い。明らかにカズキを利用するつもりで、その哀しみや痛みなど気にもしていないだろう。
今はまだ噂の段階だが、街に噂通りの容姿を持つ少女がアスティアと現れたらどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
上手い手だ……直接的ではなく搦め手を使い、こちらが逃げる事も出来ない様に計算されているのだろう。悔しいが、時間の問題だとクインは判断している。
頭の良い誰かが指揮している……そう考えるクインにふと一人の男の名前が浮かんだ。
その男は魔獣を強く憎み、それを指揮出来る能力を持ち、その頭脳が凡人の域を超えている事もクインは知っている。 だが、冷酷と見られる性質も律した自我の生み出す結果でしかなく、何より高い忠誠心と王家への献身は疑う余地すらない。 だからクイン達の想定するリストに浮かぶ事はあっても直ぐに除外されたのだ。
でも……彼なら筋書きを書ける。
黒の間へ不審な人間を導く事など造作も無いことだ。
ユーニード=シャルべ
彼ならやってのけるだろう。 だがそれは彼の忠誠が変容してしまったと認める事になる。
ほんの一瞬でそこまで思考したクインの耳に、アスティアの声が響いた。
「本当に人形みたい……どんなに美しいアンティークドールもいつかは壊れてしまう。 磁器製の顔や手足が割れる様に、私達の元からいなくなったらどうしたらいいの……?」
「アスティア様……」
静かにしていたエリも思わず声を上げる。
もしユーニードが手引きしたなら、この黒の間すら安全とは言えない。 クインの心にヒタヒタと怖気が近づいてくる。 陛下に相談しましょう……そう結論付けたクインは口を開いた。
「陛下にご相談してみましょう。 アスティア様のお話も大事な事ですから」
「クイン! ありがとう、大好きよ!」
相談の中身にすれ違いはあっても、カズキを思う気持ちに違いはない。 身動きすらせずに景色を眺めるカズキがそれを知らなくても、ここに居る三人には関係はないのだろう。
「殿下、こちらです」
ジョシュの案内で地下に降りたアストに血臭が届く。
黒の間の半分にも満たない石造りの地下室には、真ん中に置かれた木製の椅子がある。足元には血溜まりの痕跡があり、そこから椅子の辺りまで血の道が出来ていた。あの椅子に縛り付けていたなら、この道はそうなんだろう。
椅子の直ぐ後ろには床に固定された鎖と皮ベルトが打ち捨てられている。アストの太ももを縛りつける程の長さしかないベルトだが、小さな少女の腰回りには丁度良かったのだろうか?
怒りは頂点を通り越すと冷たい氷の様になると知ったアストの目には、黒い細い糸が幾本か落ちているのを捉えていた。
「黒髪……」
少しだけ震えている手に収まったその糸は間違いなく髪の毛だ。 髪を掴んで無理矢理に引き上げたのか、きっと痛かっただろう……
もはやアストには、怒りなのか嘆きなのかが分からなくなっている。ただ冷たい氷の塊が、胸の内に積み重なっていくだけだ。
「あちらの扉の先に6名の死体を発見しています。男が5名、女が1名、全員が喉を切り裂かれていました」
「……身元はわかったのか?」
「いえ……一名しか分かっておりません。その界隈では知られた盗人で、名をボイチェフと聞いています」
「そうか……」
勿論許せはしないが、誰かを治療したいが為に行った悪事だと思っていた。
だが、違う。
これは実験だったのだろう。聖女の力を試す、その為だけにこれだけの人を死に至らしめたのだ。正常な精神を持つ者ではない、狂った妄執を嫌でも感じられる。
「ここの所有者はわかるのか?」
「いえ……長い間空き家だったようです」
これ以上ここに居ても何も分かりはしない。 城に戻って次の対策を練ろう……それにカズキの顔を見たい……微笑んで貰えなくてもいい。
そんな事を思いながら、アストの足は階段を踏みしめて自身を外へと導いていった。
持ち帰ったいくつかの紙束を自室の机に置いて、先ずは着替えるべくクローゼットに向かった。
着慣れた侍女服は皺一つなく、今日一日着た痕跡は見えない。動作の一つ一つに気を配り、歩き方すら厳しく訓練されたバトラーの様に律している。
開いたクローゼットの扉には鏡があり、肩で切り揃えた金髪が少しだけクルンと癖毛になっているのが見えて眉が歪む。直ぐに視線を外してスルスルと侍女服を脱ぎ、見当たりもしない皺を伸ばしてハンガーに掛けた。僅かにデザインと色合いの違う侍女服があと五着あるのが興味深い点だろうか。
下着姿で浴室に消え、一日の汚れを落として薄墨色のナイトウェアに着替えて部屋に戻って来た。そうしてさっぱりしたクインは化粧台の前に座り櫛で髪を梳かしてから、ラズベリーのシードルとグラスを持って机につく。
注いだグラスを耳に近づけてシュワシュワと泡が弾ける音を暫し聞いてほんの少しだけ口を付けた。
「フゥ……さてと」
カーディルの許可を得て持ち帰ったその紙束の表紙の全てに「ユーニード=シャルべ」のサインがしてある。それらはユーニードよりカーディルに報告或いは提案された物資、輸送、配置、そして対魔獣の作戦計画だった。
過去3年分を読み解くのは大変な作業のはずだが、クインは臆する事なく手に取ると丁寧に素早く目を通し始める。暫くは紙をめくり、ノートに筆を走らせる音だけが部屋に響いた。
注いだシードルの泡が消える前に少しずつ喉に通し、三度グラスに薄紅の液体が満たされた時にはクインの目的は達せられた。本当に読み解いたなら驚異的な速さだが、本人には当たり前なのだろう。それを誇る風もなくジッとまとめたノートを見直している。
「変わっている……残念だけれど……」
クインにとってユーニードは身近な人ではない。軍務長はその名の通り軍務、ひいては戦争に関わる全てを内務で支える専門の人間だ。魔獣に剣を向けるのは騎士だが、彼は頭脳とペンで戦っている。冷酷と揶揄されるユーニードだが、クインは改めて尊敬の念を抱いた。
目を通したそれぞれは、理論的に正しくまた美しかった。被害に遭った民の支援や物資の供給、騎士達や家族の補償、国土防衛の施策。限られた資源を如何に効率良く配置するかの苦心が見えて、リンディアと民を思う強い忠誠が透けて見える様だ。
だが、時系列にまとめて読み進めればその変化は明らかだった。
如何に被害を少なくして国を守るかの術を探していた筈が、魔獣を如何に効率的に殺すかへと変貌していく。どれも間違っているわけではない、しかし3年前と現在では同一人物かと疑いたくなる程だ。
最も最近にカーディルに届けられた作戦計画書には、北部の街マリギの奪還が掲げられている。
だがクインには違って見える。
魔獣を出来るだけ多く殺すために、それだけの為に考えた作戦に後からマリギを付け加えたのだろう。騎士達の犠牲は元より、奪還した後の脅威は考慮されているのか疑わしい。カーディルは騎士の損耗率と未来を憂いて却下しているが、カズキの存在が全てを覆す事になる。
王家としてカズキの存在は伏せてある。もし聖女の力を知り、利用したくてもカーディルが了承しないならどうするだろうか……?
世論を誘導してカズキの存在を知らしめ、決断を迫る。勝てるなら、ほぼ全ての国民は決戦を支持するだろう。いや、厭戦すら許されない空気が醸成されていくのは間違いない。
クインは足元から冷水を浴びせられた様に寒気と怖気が全身に這い上がってくるのを自覚した。
ユーニードにとってはある意味で目的は達せられているのだ。ここに至って自身の命など歯牙にもかけないのは想像がつく。あれ程の忠誠を尽くしていたリンディアを投げ捨てでも進むユーニードには魔獣の断末魔しか見えていないのではないか。
その妄執の行き着く先は、破滅だとしても憎しみの鎖は解けはしない。
カズキを愛し憂いているリンディア王家は、もう既に負けてしまったのかもしれない。街に蔓延する噂は止まる事はなく、いずれ大きな波となり城を襲うだろう。
ベランダに佇む哀しげな聖女が頭に浮かび、クインの胸を締め付けた。
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