黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

26.妄執の行き着く先⑤

 


















 リンディア王国の王都リンスフィアは、夜となれば静かなものだ。


 ランプの油や燃やす薪も有限で、集めるには文字通り命を懸けなければならない。 森人達は誇りを持っているが、だからと言って無意味に消費されれば気分を害すだろう。 しかし、一部ではあるが酒場や食堂、遊戯施設などは夜も営業している。


 これらはリンディア王室からも推奨されている事だ。


 魔獣や森の侵略に抗う中で、ただ無為に過ごすことは誰にも出来ない事なのだろう。 魔獣が猛威を振るい始める前には到底及ばないが、それでも人々は働き、食べ、そして生きている。


 そんな一部を除き静かなリンスフィアに騎士達の足音が各所で響いていた。


 僅かに灯る手持ちのランプが街路を照らし、路地や空き家まで足を運んでいる。 リンディア王カーディルから直々の命令が下されていた。


 黒髪で翡翠色の瞳の少女を探し出すように、と。


 大変珍しい姿形だが、一部の騎士達の中では知られた少女だった。 噂にも色々とあるが、リンディア王国の王子アストの想い人とされるものが有力だ。 しかも眉唾ではあるが、命の恩人でもあるらしい。 次期王妃となる可能性すらあると思っている。


 カズキ本人がもし聞いたら、出もしない悲鳴を上げて走り去るかもしれない。 だが当の本人の姿はなく、それを理解する事もない。 そんなカズキを騎士達は使命感に駆られるままに探し回っていた。








「門の閉鎖は確認はしました。 今のところ外部に出た形跡はないようです」


「ケーヒル、念の為リンスフィア内にある全ての治癒院や孤児院などに報せを出してくれ。 カズキらしき人が現れたら必ず城まで知らせるように」


「……よろしいのですか? カズキの存在を隠すのは難しくなりますぞ? しかも今回は彼女の意思で動いているわけではないのですから」


 アストは迷いながらも答えた。


「……構わない、今は一刻も早くカズキを見つけたい。 打てる手は全部打つんだ。 出来れば癒しの力は衆目には晒したくないが、そんな事で万が一を起こす訳にいかない」


 先程から浮かんで来る嫌な想像を何度も打ち消しながら、この手で抱きしめたいとアストは拳を強く握りしめる。


 …………許す事など出来ない


 刻印の力など関係はない……一人の優しい少女なのだ。 少女を拐かし、無理矢理に癒しを行使させるなどあってはならないことだ。 


 もしカズキが誰かに傷つけられたら……泣いていたら、自分は正気でいられるのだろうか……


 アストに今まで感じた事の無かった強い憎悪が宿り、その胸をジリジリと焦がしていった。






























 痛みが胸の辺りを掠めた。


 先程切った唇や、硬い床に叩きつけられた肩とは違う種類の痛みだ。 奥にいる白仮面の男が持っている紙束が目に入った時、否定と諦観が同時に襲って来たからだった。


 ……あれは……あの時見た……?


 カズキの目には、自身に刻まれた刻印の詳細が書かれている筈の紙束だとはっきりと分かった。最近過ごしている部屋で銀髪王子とお姫様、金髪と赤毛の侍女達が手にしていたものだ。






 ーーまるで家族のようだと思い始めていた


 ーー追いかけっこだって何回もしたんだ


 ーージンワリとした人の暖かさを感じていたのに






 ……こいつらは仲間なのか? 家族のようだと思い始めた人達が仕組んだのか?


 理性は否定を繰り返していた。 盗んだかもしれないし、敵対した連中とも考えられるだろう?……カズキは必死になって頭の中に浮かぶ嫌な思いを消そうとする。


 そう……あの温もりの全てが嘘で、作られたものだなんて信じたくない。


 普通なら単純に仲間などとは思わなかっただろう。 そしてそれは事実正解でもあった。


 ……しかし、カズキ本人すら自覚出来ない力が邪魔をする。刻印が……癒しの力を高める筈の刻印は、カズキの心を癒したりはしない。




 ーー憎しみの鎖[1階位]


 ーー自己欺瞞[2階位]




 二つの刻印は互いが影響し合って、カズキから思考を、強い意志を奪っていく。 リンディア城で少しずつ形成されていた自己肯定感も、自己の否定へと塗り変わっていった。


 声が聞こえる……


 ーーお前は本当にそう思っているのか? 知っていたはずじゃないか……異常な治癒の力は利用価値があると。 そうでないなら、たかが一人の餓鬼にあれ程過剰とも言える保護をすると、本当に思っているのか? 


 おめでたい奴だよ、何度も裏切られたじゃないか……


 母親にすら捨てられた癖に!






 アストに芽生え向けられた愛も、アスティアの姉妹愛も、クイン達からの暖かな親愛も、全てが蝕まれていった。


 クインが見たら驚いただろう、嘆き悲しんだだろう。


 聖女の刻印にかけられた封印がより強固になっていく様を知ったなら……


 アストは正しかったのだ。








 そうして、カズキの身体から力が抜けた。






























「お? さっきまでの強気はどうしたんだ? こいつ泣いてやがるぜ!」


 嗜虐的興奮を隠さないボイチェフは、乱れた髪の影から涙が零れたのを見逃さなかった。 はだけた胸元も膝上までめくれ上がったスカートの裾から見える足も、ボイチェフを喜ばせる材料にしからならない。


「本当に言葉がわからないのか? 今から何をされるか理解したんだよな? ハハハッ……今更怖くなっても遅いぜ、お嬢ちゃん!」


 抜き出したナイフをカズキの前でちらつかせたボイチェフは、ディオゲネスに気色悪い顔を向けて言う。


「ディオゲネスさんよ! 早いとこ始めようぜ」


「……ふん」


 ディオゲネスは奥の扉に向かい、その先の暗闇に消えていった。


 ーーーーズル、ズル、ズザッ


 ディオゲネスは暗闇から何かを引き摺り戻ってくる。 硬い筋肉に覆われた腕に掴まれたそれは、全身を縛られ猿轡をされた男だった。


 頭垢だらけの頭に、薄汚れた薄手の衣服、爪は何かで真っ黒なその男はウーウーと唸りながら涙を流し目を見開いている。 何より目立つのは右足首があらぬ方向に曲がり、骨らしきものが皮膚から飛び出している事だろう。 ディオゲネスによって取られた包帯も赤く染まった右足も、怪我をしたばかりだと物語っていた。






 下に俯いままのカズキは身動きもしていない。 それを見たディオゲネスはカズキの背に回り、腕を後ろから絞める様に首にかけて上を向かせた。 続いて刻印が隠れた首の横の肩に自身の顔を置いて、耳元に口を寄せる。


「おい、見ろ……奴はこのままでは死ぬんだ。 いいのか?」


 カズキは特に逆らう事もなく、ディオゲネスに顔を上げられて力の無い眼を正面に向ける。 その涙の流した跡の見える翡翠色の眼には暗い諦観が感じられた。


 だがディオゲネスは直接触れていたから分かった。 聖女の体が震えた事、そして男から目線が動かなくなった事を。


 暫くするとギシギシと椅子が鳴り始める。 縛られた両腕が立ち上がるのを邪魔しているからだろう。 力がそこまで入っているわけではない。 まるで自分の置かれた状況が理解出来ていないような動きにディオゲネスは小さく呟いた。


「まるで黒神エントーの祝福を受けられない死人の様だな……」


 エントーは死と眠りの神で、その祝福がなければ死した後も彷徨い歩くと言われている。 実際に見た事などは勿論ないが、物語で描かれた様を読んでいたディオゲネスには馴染みの感覚だった。


「ボイチェフ、縄を切れ。 ついでにナイフも聖女に渡すんだ」


「……ナイフを? おいおい大丈夫なのか?」


 二度も痛い目にあっていたボイチェフが躊躇するのも当然だろう。 ボイチェフも目の前にいる少女が只者ではないと認めている。


「怖いなら鎖の届かないところまで下がってろ。 ナイフを寄越すんだ」


「分かった分かった! 切るから捕まえておいてくれ」


 そう言いながらカズキの腕を固定していた縄を右、左と切っていった。 今なら聖女の肌も、女性らしく膨らんだ双丘も好きなだけ見ることが出来たが、緊張の為かそんな余裕はないようだ。


 そうしてナイフの持ち手を手元に向けても、聖女は握ろうともしない。


 舌打ちをしたボイチェフは立ち上がったカズキの手を開き、強引に握らせて数歩ほど離れた。


 まるで夢遊病患者の様にフラフラと怪我をした男の側まで歩き始めたカズキだったが、あと少しと言うところで鎖が張り、つんのめって進めなくなった。 ジャラジャラと鎖を鳴らして外そうとするが、モタモタとするだけで何も変化は起きない。


「……おい」


「へいへい」


 嘆息しながらボイチェフはカズキの方に男を蹴り出した。


「ウグゥ……」


 猿轡の奥から呻き声が聞こえたが、ディオゲネスもボイチェフもユーニードさえも気にはしない。


 カズキは足元に転がって来た男の側に跪いて、不潔に汚れて血で真っ赤な足に右手を戸惑う事なく置いた。 独特の据えた匂い漂う男は、痛みが走ったのか酷く怯えて更に呻き声が強くなる。


 その悲痛な声を聞いたからか、カズキはノロノロとナイフを左掌に押し当てる。 プッと赤い玉が浮き上がったと思った時には音もなくナイフを引いた。 近くで見ていたディオゲネスは、カズキの顔が僅かに歪むのが見えた。


 ーー痛みは感じるのか……掌からはポタポタと赤い糸が垂れていくのを見て、血もちゃんと赤いんだなと思いもした。


「……な、なんだと!?」


 冷静に観察していたディオゲネスでも、次に起きた現象には驚きを隠せなくなり思わず声が漏れ出た。 添えた左手が僅かに白く光ったと思ったら、目に見える速さで傷口が再生していくのを見れば誰もがそうなるだろう。


「く、くくく、素晴らしい……」


 近くに来ていたユーニードからも感嘆の呟きが溢れる。


「嘘だろう……? こんな事が有り得るのか……」


「ああ、想像を超える速さと正確性だ。 で開放骨折を治癒出来るとはな。 これは使えるぞ……」


 見るとスカートの裾を使って男の傷口に残った血を拭き取っている。 自身の血を拭く事もせずに、汚れすら気にしていないようだ。 自らの出血など無かった様な振る舞いに、感情など魔獣に喰われたと思っていたディオゲネスですら心が揺れてしまう。


「これが聖女か……恐ろしいものだ……」


 刻印に操られる少女は、酷く歪で惨いいびつでむごい存在に見えた。


 縄に縛られたまま怪我が完治した男は、陶然と聖女を見て口を開けている。 いや、そこに居るカズキ以外の全員が神の奇跡に動けなくなっていた。




「……ディオゲネス、次だ。 他の怪我人を出せ」


「……ああ」














 聖女は火傷、打撲、切り傷の全てを完治に至らしめた。 男も女もなく、強制する必要も無かった。奥の部屋から連れ出しては戻しを繰り返して、治癒の力のデタラメさを確認していったユーニード達は最後の用意を始めた。


「もう一度動かなくさせろ。 ナイフも取り上げるんだ」


「おう」


 椅子の後ろの石床から繋がった鎖を、ボイチェフは嬉しそうに引き始めた。


 跪いていたカズキは後ろに倒れて尻餅をつく。 それでも鎖には逆らえず左手からは血が滴り、ボイチェフのいる場所まで赤い道を作っていった。 


 後ろからカズキの左脇に腕を差し入れて少女らしい膨らみを乱暴に触り、もう一方の腕は股から腿を抱えて椅子に座らせた。 ボイチェフはその柔らかい感触を楽しんだが、全く反応が無いことに鼻白む。


 カズキを椅子に再び縛り付けたボイチェフは、それでも飽きもせずに肌に手を這わし続けた。


「くくく……どうだ聖女様よぅ……気持ち良いだろう」


 嫌そうに身動ぎを始めたカズキに、ボイチェフは益々興奮していった。 


「ほれ……見えてしまうぞ……どうするんだ? さっきまでの生意気な態度はどうし……グ、グギャッッ!!」


 前に回り込み両肩から破れた服を下ろそうとしていたボイチェフの腹から剣が生えた。


「グアアアッーー! ヒッ……な、なんで……」


「最後の確認だ。 聖女の意思とは関係なく治癒出来るのかをな」


 ディオゲネスは剣を引き抜きながら、血だらけなってカズキの足元に倒れたボイチェフを見下ろす。 それを気にもせず口から血の泡を吐き出し始めたボイチェフの背中からナイフを取りカズキを見た。


「済まないな、ちょっと痛いぞ」


 カズキの力のない翡翠色の眼を見ながら、露出している左ももにナイフを勢いよく突き刺し抉る。 全く躊躇ないその動きにカズキも何が起きたか一瞬分からないようだった。


 しかし直ぐに体が強張って歯を食いしばったカズキは、痛みに耐えられないのか声無き悲鳴が。 喉は何一つ声を紡がないのに、ナイフで抉った時にディオゲネスは聞こえた気がしたのだ。


「……さあ、死んでしまうぞ? お前に散々酷いことをした男だ。 血肉すらこの俺が無理矢理捧げた。 治したりなぞしたく……っないだろう!」


 ボイチェフを引きずり上げて座っているカズキの手の辺りに腹を当てた時……今までと変わらない光が溢れて、傷口は癒されていった。 










 ……ここにユーニードの目的は達し、カズキの心は身体同様に傷付いたのだろう。 


 カズキの眼から再び一筋の雫が落ちたが、赤い血を洗い流す事は出来なかった。


























 蝋燭は短くなり、地下室を照らす灯りは弱い。


 ディオゲネスは無言で佇み、ユーニードはカズキを見ている。






「……やはり治癒するのか……これなら、これなら魔獣に対抗出来る……奴等を何度でも殺せる、殺せるのだ……」




 ユーニードが狂った様な呟きは、冷たい石に囲まれた地下に反射する事なく消えていった。




































 

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