黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

3.アスト=エル=リンディア

 






 街道を走っているとはいえ、馬車は揺れるものだ。

 アスト自身は気にならないが、目の前で横たわって眠る少女には辛いのではないか……

 何か清潔な枕や敷物でもあれば良いのだが、軍備品を運ぶこの馬車にはそんな気の利いたものはない。せめてもの慰めに包帯をまとめて枕の代わりにしたり、予備のマント類を床に敷き詰めるくらい出来ない。

 アストを守るために犠牲となった騎士は、悲しい事だが遺族に見せられる状態ではなかった。いくつかの遺品を拾い集め、火の清めでヴァルハラに送り白神に抱かれる事を祈った。

 ……この少女は自分を死の淵から救ってくれた。だがあの騎士は王都には戻る事が出来ない。何かの歯車が噛み合えばもっと上手くやれたのだろうか?あの時油断などしなければ、トドメをしっかりとさしていれば、いや指揮していたのがケーヒルだったなら……

 現れては消える種々の想いは現実を少し忘れさせたが、ふとアストは少女の顔や手足が血や泥で汚れている事に気が付いた。左手の手から手首に関しては止血帯を巻いたが、それ以外はそのままだ。

「これだから男はダメか……アスティアの言う通りだな」

 訓練の後、鎧と木剣を片付けたその足で疲れに任せて寝ていたところを、妹のアスティアに見つかった時だった。しょうがないじゃないかと思ったものだが……

 次の休息地で綺麗な布でも探して拭いてあげよう……水もまだ余裕があるはずだ。流石に子供とはいえ女性の肌をみだりに触る訳にはいかないが、せめて顔周りだけでも綺麗にしなければ、またアスティアに怒られてしまうだろう。

 そんな事を思い、アストは苦笑した。










 森の周辺部の調査を中止としたアスト達一行は、王都への帰還の途についていた。調査も重要だが、戦死者が出た以上一度帰還し、部隊の再編を急ぐ必要もある。森から離れた場所で魔獣に遭遇した事も周知し注意を促さなければならない。調査しているのはアスト達だけではないのだから。何より命を救ってくれた少女をあのまま連れ回る訳にもいかないし、帰還は当然の判断だった。

 リンディア王国の王都リンスフィアまでは馬車でも明日には到着する距離だ。早馬ならより早く着く事も出来るが、少女への負担を考えゆっくりとした行程にしている。先触れの騎士を2人先行させ、調査団一行は休息予定地に到着した。












「成る程、それが良いですな。言われてみれば当たり前の話しです」

 薪を火にくべつつ、ケーヒルは頭を掻いて答えた。

「アスティアに怒られる前に気付いて良かったよ。ああ見えてあいつは怒らせると怖いからな」

「はっは、アスティア様を怒らせるなど、殿下くらいでしょうな。あの方はリンディアの花……いつも微笑みを絶やさず王都に咲き誇る王女殿下。なぁ、ジョシュもそう思うだろう?」

「はっ。アスティア様は王都に咲く大輪の花です」

「……相変わらず硬すぎるわ、お主は」

「わかったから話を戻そう。水はともかくとして、清潔な布が残っていればいいが……」

「殿下、治療箱にまだ幾らかの止血帯が残っておりますぞ。あれを使えば宜しいかと明日には帰還出来るでしょうし構わないでしょう、後でお持ちします」

「そうか……良かったよ。 暗くなる前に終わらよう」

「しかし、あの娘は何者なのでしょうな?  あの様な超常の力など見た事もありません。殿下のお命を救った事には感謝しかありませんが、まるで太古の神々のようではありませんか。しかもまだ眠ったままなのでしょう?」

 ケーヒルはその巨軀に乗った首を器用に傾けながら話を続けた。

「おお……そういえば、殿下お加減いかがですか?」

「おいっ……ついでのように言うんじゃない、全く」

 ケーヒルの戯けた態度には、何時も苦笑しかない。

「身体は問題ない。多少キズが引き攣るくらいだし、すぐに治るさ。それと彼女が何者なのかは起きてから聞けばいいだろう。陛下への報告もあるし憶測で話す事じゃない」

 薪が燃える炎を見ながら、アストは自らに言い聞かせるよう言葉を並べた。そして天を見上げる。

「もうじき暗くなるな……その前に済ましてしまおう。ケーヒル、止血帯を持って来てくれ。ジョシュは水桶を頼む」

「はっ……そういえば殿下、重要な事を忘れておりました」

 さっきまでの態度と一変したケーヒルの言葉に、アストは顔を上げて姿勢を正した。

「どうした?」

「彼女の事ですが……」

「勿体ぶるな、早く言ってくれ」

「私めは気付いたのです。泥を落とせば、いや落とさなくても美しい娘だと。 殿下……相手が眠っているからと言って、懸想してはなりませんぞ? やるなら起きてからです」

「!? っバカな事を言うな! ジョシュ!こいつを早く連れて行け!」

「はっ」

 顔を真っ赤にしながらドスドスと馬車に向かうアストにケーヒルは笑いを隠さなかった。

「はっはっは!」

 紅く染まり始めた空にケーヒルの声が木霊して、空間に消えて行った。












 桶の中は真っ黒だが、少しは綺麗になっただろうか。手頃な大きさに切り離した止血帯はまだ余りがあるし、手足など出来るところを拭おう。アストはジョシュに代わりの桶を頼んで、少女の方へ向き直った。

「しかし……これ程とは……」

 ケーヒルに言われるまでもなく、その造形が素晴らしい事はわかっていたが、予想をいろいろな意味で裏切られたようだ。




 汚れだと思っていた黒髪は、その通りの色だった。リンディアだけでなく今もあるはずの他の国でも聞いたことがない。肌身も不思議な色合いだった。少し黄色がかっていると言えばいいのか、これも初めて見るものだ。それが汚いという事ではない、むしろ暖かさを感じる優しい色だろう。それに12,3歳位の子供だと思っていたが、年齢が分かりづらい。子供にも見えるが、どこか妖しい色気も感じる。今は目を閉じているが、少女の眼は美しい深い緑で……まるで昔一度だけ見た森の泉の底を見るような幻想的な輝きだった。 

 眠っているからそう感じるのか……視線を外せなくなったアストは無意識の内に口を開けてしまう。

「綺麗だ……あっ……!」

 思わず呟いた言葉に慌てて馬車の外を見る。ちょうどジョシュが桶を持ってきたところだった。

「……ありがとう」

 ジョシュは無言で頷き、去っていった。

 アストは首を振り、先の事は無理矢理頭から追い出した。肌に直接触れないように気を付けながら首周りを拭っていると、すぐに気付く。肌が見えてきた首には黒い模様とおそらく神代文字であろう記号が複雑に絡み合っている。

「これは…まさか刻印か?」

 考えてみれば当然か……あれ程の力もつ者が常人であるはずがない。どんな神々の加護かわからないが、王都に帰れば詳しく判るだろう。刻印は彼女の細い首をぐるっと回り、左の耳の後ろに延びている様だ。 アストも髪に隠れて気付かなかったのだ。

 更に傷付けないよう何枚かの止血帯の切れ端を使い終えた頃、刻印の全体像が見えてきた。

「……だが……まるで鎖が首を締めているような……耳までの繋がりは蛇が頭をもたげているようにも見える……」

 加護であるはずの刻印が何故か不吉なものに見えてくる。

「いや、憶測で語るなと言ったのは自分じゃないか……王都にはクインもコヒンも居る。それからでも遅くはない」

 アストは無心で少女の手足に取り掛かった。
















 太古の昔、神々は一柱それぞれが地に降り立ち人々に直接加護を与えていた。人間が加護という恩恵に預かり、世界にその覇権を唱えた時代。神々は少しずつ姿を消し、その加護は刻印という形で残った。

 刻印は加護を受けた者の身体に刻まれ、模様や神代文字を用いて表される。外見は一部を除いて入れ墨の様に見えるものが多い。

 お伽話や童話に描かれる魔法使いのように、何も無いところから火が出たり、水を出したりなどは出来ない。しかし僅かながらに力が増し、時には洞察力が高まり、人を癒す力が増す事で薬の効果が上がったりもする。また、心に作用する刻印なら優しさや忍耐に影響が出る。

 人々に刻印を授ける神々は白神しろかみと呼ばれ姿は見えなくとも、いつも人に寄り添っていたのだろう。

 魔獣が姿を見せ始めた300年前も刻印の力は大いに人々の助けとなり、救いの手は差し伸べられていた。

 だが魔獣と森に土地を奪われ世界の覇権を失いつつある現在では、刻印をもつ者は万人に一人と言われ更にその数を減じつつあった。

 人々に斜陽の時代が訪れたのだ。

 人々は白神に祈りを捧げ、救いが訪れることをただ待つしかなかった。
















 アストは必死で吹き出してくる汗を拭っていた。

 先程まで静かに横たわっていた少女が突然腕を上げて、身じろぎを始めたのだ。

 それだけではない。

 声や寝言はないが、苦痛を見て取れるほどその美しい顔を歪め何かから逃れようとしている。突き出した手は何もない中空に恐ろしい者がいるのか、必死で押し返そうとする。

 もしその恐ろしい者を打ち倒せるなら、きっと誰もが今すぐに剣を取り戦うだろう。それ程の叫びを彼女から感じるのだ。

 少女の額からは流れるように汗が吹き出し、アストがいくら拭っても止まる事はない。

 悲鳴を上げているのか……?

  声は出ていない、しかし何かを叫んでいる。声の無い悲鳴は見る者にこれ程までの恐怖を呼び起こすのか、アストは思わず少女が突き出した手を握った。

「ケーヒル!ジョシュ!! 来てくれ……早く!」

 アストの声は思ったより大きく震えていた。

 ガシャガシャと鎧の打ち鳴らす音をさせながら二人は馬車に駆け寄って来る。

「いかがしました!? 殿下!」

 中を覗き込んだケーヒルは息を飲んだ。

「彼女の様子がおかしい……さっきまでは普通だっんだ!」

「これは……!」

 手を握り焦燥を募らせたアストのすぐ隣には、その握られた手すら恐ろしいのか、声なき悲鳴を上げている少女がいる。

「まさか、あの時のキズが何か……!」

 普段静かなジョシュも落ち着いてはいられないのだろう。治療箱を取りに体を投げ出すように駆け出した。他の騎士達も只ならない様子に馬車に集まり始めていた。

 自分達の敬愛する主君たるカーディル陛下の、そしてリンディアの宝である王子、アスト=エル=リンディアを救った少女が苦しんでいる。全員の心は一つだった。

「ここでは満足な治療も出来ません。我らが先に出ましょう」

 先程集まっていた騎士達から声が上がる。

「いや、私が行く。ケーヒル、それと3名程でいい、付いてきてくれ。 急げば明日の朝には着けるだろう。魔獣の生息域も遠いし、数は必要ないはずだ」

「はっ!」
「ははっ!」

「皆は悪いが……ジョシュの指示の元、折を見て撤収しこの馬車を引いて帰ってくれ」

 アストは休息地に予め立ててある杭から自身の馬を引き飛び乗った。

「彼女はわたくしが運びましょう」

 少女の首の刻印に気付き息を飲んだケーヒルは、その事に触れず進言してきたが、アストは少しだけ考えて答えた。

「……私が運ぶ。彼女を馬に上げてくれ」

 アストは何故か少女を離したくなかった。

 ケーヒルが抱え上げた彼女の身体を受け取り、落ちないように自分と革紐で強く結びんだ。そうして懐に抱え込む。さっき程は暴れていないが、顔色は悪く唇を強く噛み締めている。舌を噛まないよう余った止血帯を口に押し込み、少女にアストは語りかけた。

「ひどく揺れるが我慢してくれ……済まない」

 思っていた以上に少女の体は軽く、小さかった。それでも……アストの懐に暖かい体温を感じて、少しだけ安堵する。










 薄闇の中、遠くに王都リンスフィアが見えて来た。さすがに全速力で走る訳にはいかず、焦る気持ちばかりが募ったがあと少しで着く。

 先程追従していた騎士を先行させ、典医や薬、何でも良いから準備させるよう言付けた。

 クインに任せよう。クインは侍女でありながら、多才を誇る才女だ。薬学も明るく何より刻印などの神代文字に詳しい。もし刻印絡みの症状なら典医だけでは心許ない。

 城には今癒しの刻印持ちがいないのが不安だが、典医もクインもいる。

 きっと大丈夫だ……

「大丈夫、もうすぐ着くよ。大丈夫だ……」

 そう呟き、アストは力を入れて抱き締めた。

 王都は朝日の光を浴び、そしてアスト達を照らす。

 それはまるで新たなる時代を迎えるように……王都リンスフィアを輝かせていた。








 聖女は今、眠りにつき目覚めの時を待っている。人々は黒神の救いがすぐそこに在ることを未だ知らない。





































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