ぼくの初恋は、始まらない。第3章
第14話
妖女バージョンの榛原ミミコとの決戦にあたって、神使きつこはぼく窓居圭太に無茶振りをしてきた。
きつこによれば、ミミコを説得して大人への変身願望を捨てさせるだけではダメで、再度の変身を完全に防ぐには、ぼくがミミコにキスして彼女の承認欲求を認めてやらないといけないらしい。
きつこの熱心な説得工作に負けるかたちで、ぼくはその奇策の実行を、しぶしぶ受け入れる。
それって本当に人助けになるの?
悩む間もなく「決戦」はすぐそこに迫っていた。
⌘       ⌘       ⌘
きつこや高橋と別れた後自宅に帰り、夕食を済ませたぼくは、いつもならお姉ちゃんや従妹の明里たちと一緒にテレビを観てのんびり過ごすところだったが、思うところあってすぐに自室に引き上げた。
ぼくはしばらくの間、深夜の決戦に備えてのシミュレーションとして、妖女版ミミコ、すなわちウサコとの想定問答集を考えて過ごしたのだった。
想定問答集というのは、ウサコがああ言ってきたらこう返す、むこうがそれに返しをしてきたらさらにこう返す、そんなふうに事前に思いつく限りのやりとりを考えておくってヤツだ。
数時間をかけてそんなケースを五十通りほど考えたあたりで、ふと、先ほどきつこがウサコを評して言った「はすっぱで、馴れ馴れしい、圭太を翻弄し続けたあのビッチキャラ」という言葉を思い出した。
イメージトレーニングをいくらしたところで、あの自由奔放な女が予想斜め上の行動を仕掛けてきたら……と考えると、どれだけ沢山やってもあまり意味がないことのように思えてきた。
だから、それ以上戦法を考えるのはやめにした。
結局相手の出かたを見て、臨機応変に対応するしかないと、腹をくくったのだ。
それよりむしろ心配すべきなのは、夜おそくなので疲労感や眠気に襲われ、的確な判断や行動が出来なくなることのほうだろう。
そう考えてぼくは、いつもより早めに床について仮眠をとることにした。午前一時に鳴るよう、携帯のアラームを設定して。
⌘       ⌘       ⌘
深夜一時、携帯のピピピッという音でぼくは目を覚ました。
決戦までは、あと一時間ほどある。
エナジーチャージのほうは、仮眠のおかげでバッチリだ。
ぼくは深呼吸をして集中力を高め、暗闇の中で〈念〉を飛ばした。
“きつこ、ぼくだ。圭太だ。わかるか?“
〈念〉を送った相手は、ただちに応答してきた。
“ああ、しっかり聞こえるよ、圭太“
よかった。これまで遠距離ではきつこの〈念〉は受信できても、先にぼくのほうから〈念〉を送ったことがなかったんだが、これでぼくにも遠距離送信ができることがわかった。
ぼくは、心持ちふるえる声で、こう続けた。
“きつこ、いよいよ本番間近だな。ちょっと緊張していないか?
ぼくは、なんだか落ち着かない気分なんだ”
きつこからは、
”気持ちはわかるよ、圭太。
でも、この正念場に、緊張や焦りは禁物だぜ。
とにかく、リラックスして平常心で臨むしかない。
〈対決〉とか考えず、ミミコっちとより親密になることだけ考えたほうがいい。いちゃいちゃラブラブ、いい感じになってくれよ”
じゃあ、また現地でね“
そこで、交信は切れてしまった。
まったく他人事だと思って、好き勝手言ってくれるよな、きつこのヤツ。
でも、彼女の言っていることも、しごく真っ当ではある。
ここ一番の時だからこそ緊張は禁物、あくまでもリラックス、リラックスでいかないと。
ぼくはもう一度、大きく深呼吸をした。
⌘       ⌘       ⌘
榛原の連絡が来ると予想される時刻、午前二時までには十分以上あるが、ぼくは昨日と同じ黒いジャージに着替えて早めに家を出た。
今回も、昨夜行った本町公園方向に進路をとった。
出来るかぎり早くウサコのいる場所へたどり着き、その後の展開をなるべくこちらに有利にするためだ。
二時少し前に、携帯に榛原からのメールが入った。
「圭太、ミミコはいま、家を出たところだ」
「オーケー。公園にはあと一分ぐらいで着く。安心してぼくらに任せてくれ」
「了解。よろしく頼む」
それからすぐ、ぼくは相方きつこに〈念〉を飛ばし、出動を要請した。
“これから本町公園に来てくれ。気配は消してな“
“らじゃあ”
準備は完了。あとは、心を整えて本番のステージに臨むだけだった。
⌘       ⌘       ⌘
本町公園の中に進んで行くと、そこにはまだウサコの姿は見えなかった。
しめた、これでこちらに有利になる。これでこそ、早めに出動した甲斐があったというものだ。
ぼくは心を躍らせた。
なにしろ、昨夜のロケーションは最悪だった。ひとつのブランコに二人乗りとか。
あんな状況じゃあ、気持ちにゆとりをもって交渉ごとが出来るわけがない。
今夜はもう少しましな場所、たぶんどこでもブランコよりは間違いなくましだろうが、それを見つけて先に陣取ってやる。
それが狙いの早めの出発だったが、見事に図に当たったのである。
ぼくはしばらく公園内のいくつかの遊具を物色していたが、そのうちのひとつ、すべり台を選んでのぼり、一番てっぺんに腰をおろして座り、スロープに両足を伸ばした。
ここなら、まさか昨日のような危険な状況にはならないだろうと考えての選択だった。
すべり台の最上部はぼくのような十代の人間が座るにはぎりぎりの広さだ。
もうひとりは一緒に座れないから、ウサコとは確実に距離がとれる、そう思ったのだ。
他にもスプリング遊具っていうのかな、ウマとかパンダとかの動物の形をした乗り物もあったのでこいつでどうだろうかと考えたが、これは下手すると昨夜のように、ウサコに上に乗っかられかねないなと思い、やめにした。
そうしてすべり台の上で待つこと一、二分、ふと気がつくと、ひとりの女がふらふらとした足取りで近くまで歩み寄ってきていた。
ほかならぬ闇の女王、ウサコ陛下のご光臨である。
⌘       ⌘       ⌘
ぼくはウサコを、斜め下に見おろす格好となった。
本日の陛下のお召しものは、昨日と同じキュープリラビット柄のパジャマ……かと見るや、昨日のとは色違いのやつだった。
昨日はイエロー、今日はピンクだ。
当然だがそのサイズは子供用のためパッツンパッツンで、胸元からは見事な形の白い双丘がのぞいている。
しかも上から見おろすかたちなので、昨日よりもその大きさがさらに強調されて見える。
ぼくは、心ならずも眼福を味わってしまった。
髪はやはり昨日のようにポニーテールをほどいたロングで、前髪には果たして小さな髪留めをしていた。濃い茶色のやつだ。
まずは、ぼくのほうから声をかけた。
「やあ、こんばんは、ウサコ。
今夜も会えたね」
ウサコはそれを聞いて、一瞬怪訝な表情になった。数秒間、沈黙があった。
が、すぐに昨日の出来事を思い出したようでこう答えた。
「ああそうだね、こんばんは、おにいさん。
昨日もあんたに会ったんだったね。いま思い出したよ。
ウサコって、あたしの名前だったっけ?
そういえば、昨日あんたがつけてくれたんだったね、おにいさん」
ウサコは、これまでもたいていそうだったが、変身が解けて元のミミコに戻ってしまうと、夜の出来事の記憶は大半が消えてしまう。けれど、一部の目立った出来事の記憶は、かすかに残っているらしい。
「ぼくのこと、きみの名前のこと、思い出してくれてよかったよ。
じゃあ、しばらく話でもしようか、ウサコ」
ウサコのやつ、こんな感じだと昨日の会話の詳細まで覚えているようには思えなかったので、昨日の話題の続きではなく、新たに話題を見つければいい、ぼくはそう思って提案した。
「そうね、いつもの習慣であたし、きょうもまたこの公園に来てしまったけど、なにかしなきゃいけないことがあるわけでもないしね。
ここでは、とりあえず誰かが来るのを待って、誰かがやって来たら話しかけて、まともに返事をしてくれたら話をする。そういうことの繰り返しだよ。
で、たいていの場合は、その最後までたどり着かない。いつも、逃げられてばかり。
だから、おにいさん、あんたが最初から話し相手になるって言ってくれるのは、本当にうれしいわ」
そう言って、ウサコは一国を傾けかねないぐらいの値千金の笑みを婉然とたたえたのだった。
⌘       ⌘       ⌘
ウサコは、すべり台のスロープの先端までやって来て、ぼくと向かいあうようにしてそこに座った。
いわゆる「体育座り」とよばれる体勢で。
それだと、ウサコの豊かな胸元を常に見下ろすかたちになるのは、いいんだか悪いんだか。
まずはウサコから、口を開いた。
「昨日はあんたと、けっこういろんな話をしたんじゃなかったっけ。あらかたは忘れちまったけど」
そう言って、ウサコはペロリと舌を出した。
「まあな。昨日はぼくのちょっと恥ずかしいプライベートな話までしてしまったから、忘れてくれたほうがありがたいぐらいだよ」
「そうかい。ならいいけど、あたしはどうやら夜にしか活動できないらしく、その後の昼間の風景は見たことがない。その時間には休眠しているようなんだ。
一度も昼間を見たことがないのに、昼間という概念だけは知っているというのも妙な話だけど、これはあたしの脳髄になぜだか残っているんだから、しかたない。
昼間のうちにおおかたの記憶は飛んじまうが、強い特徴のあるひと、印象に残ったことは、輪郭のように残っているのさ。
昨日のあんたの顔、そしてあんたがあたしに名前をつけてくれたことなどだね。
もっとも、その記憶は消えないうちに再度上書きされないと、数日後には跡形もなく消えてしまう。
事実、おととい以前に顔を合わせた男たちのことは、完全に忘れてしまったよ。
それにウサコという名前も、あんたが先によんでくれたから、それが自分のものだなとわかったんで、そうでなかったら、果たして思い出せていたかどうか。
とんだ健忘症だね」
そう言うと、ウサコはとびきり綺麗な歯並びを見せて笑った。
ミミコに特徴的だった八重歯は、そこになかった。
ウサコは、こう続けた。
「でも、それがあたしという存在なんだという気がする。
夜の間だけ意識があり、夜の間だけこうやってうごめき、ときにあんたのような奇特なひととめぐり合い、語らって過ごす、そんな生き物なのさ。
何か生きる目的があるわけでもない、ただ存在しているだけのちっぽけな生き物。
そんなあたしに、つける価値があるかもわからない名前を、ちゃんとつけてくれたのがあんただ。
礼を言うよ」
そう言ってウサコは立ち上がり、ぼくにぺこりとお辞儀をした。
そのひとり語りに込められたウサコの、そしてミミコの心の寂寥が胸にしみていたぼくは、返す言葉もなく彼女を見つめていた。(続く)
きつこによれば、ミミコを説得して大人への変身願望を捨てさせるだけではダメで、再度の変身を完全に防ぐには、ぼくがミミコにキスして彼女の承認欲求を認めてやらないといけないらしい。
きつこの熱心な説得工作に負けるかたちで、ぼくはその奇策の実行を、しぶしぶ受け入れる。
それって本当に人助けになるの?
悩む間もなく「決戦」はすぐそこに迫っていた。
⌘       ⌘       ⌘
きつこや高橋と別れた後自宅に帰り、夕食を済ませたぼくは、いつもならお姉ちゃんや従妹の明里たちと一緒にテレビを観てのんびり過ごすところだったが、思うところあってすぐに自室に引き上げた。
ぼくはしばらくの間、深夜の決戦に備えてのシミュレーションとして、妖女版ミミコ、すなわちウサコとの想定問答集を考えて過ごしたのだった。
想定問答集というのは、ウサコがああ言ってきたらこう返す、むこうがそれに返しをしてきたらさらにこう返す、そんなふうに事前に思いつく限りのやりとりを考えておくってヤツだ。
数時間をかけてそんなケースを五十通りほど考えたあたりで、ふと、先ほどきつこがウサコを評して言った「はすっぱで、馴れ馴れしい、圭太を翻弄し続けたあのビッチキャラ」という言葉を思い出した。
イメージトレーニングをいくらしたところで、あの自由奔放な女が予想斜め上の行動を仕掛けてきたら……と考えると、どれだけ沢山やってもあまり意味がないことのように思えてきた。
だから、それ以上戦法を考えるのはやめにした。
結局相手の出かたを見て、臨機応変に対応するしかないと、腹をくくったのだ。
それよりむしろ心配すべきなのは、夜おそくなので疲労感や眠気に襲われ、的確な判断や行動が出来なくなることのほうだろう。
そう考えてぼくは、いつもより早めに床について仮眠をとることにした。午前一時に鳴るよう、携帯のアラームを設定して。
⌘       ⌘       ⌘
深夜一時、携帯のピピピッという音でぼくは目を覚ました。
決戦までは、あと一時間ほどある。
エナジーチャージのほうは、仮眠のおかげでバッチリだ。
ぼくは深呼吸をして集中力を高め、暗闇の中で〈念〉を飛ばした。
“きつこ、ぼくだ。圭太だ。わかるか?“
〈念〉を送った相手は、ただちに応答してきた。
“ああ、しっかり聞こえるよ、圭太“
よかった。これまで遠距離ではきつこの〈念〉は受信できても、先にぼくのほうから〈念〉を送ったことがなかったんだが、これでぼくにも遠距離送信ができることがわかった。
ぼくは、心持ちふるえる声で、こう続けた。
“きつこ、いよいよ本番間近だな。ちょっと緊張していないか?
ぼくは、なんだか落ち着かない気分なんだ”
きつこからは、
”気持ちはわかるよ、圭太。
でも、この正念場に、緊張や焦りは禁物だぜ。
とにかく、リラックスして平常心で臨むしかない。
〈対決〉とか考えず、ミミコっちとより親密になることだけ考えたほうがいい。いちゃいちゃラブラブ、いい感じになってくれよ”
じゃあ、また現地でね“
そこで、交信は切れてしまった。
まったく他人事だと思って、好き勝手言ってくれるよな、きつこのヤツ。
でも、彼女の言っていることも、しごく真っ当ではある。
ここ一番の時だからこそ緊張は禁物、あくまでもリラックス、リラックスでいかないと。
ぼくはもう一度、大きく深呼吸をした。
⌘       ⌘       ⌘
榛原の連絡が来ると予想される時刻、午前二時までには十分以上あるが、ぼくは昨日と同じ黒いジャージに着替えて早めに家を出た。
今回も、昨夜行った本町公園方向に進路をとった。
出来るかぎり早くウサコのいる場所へたどり着き、その後の展開をなるべくこちらに有利にするためだ。
二時少し前に、携帯に榛原からのメールが入った。
「圭太、ミミコはいま、家を出たところだ」
「オーケー。公園にはあと一分ぐらいで着く。安心してぼくらに任せてくれ」
「了解。よろしく頼む」
それからすぐ、ぼくは相方きつこに〈念〉を飛ばし、出動を要請した。
“これから本町公園に来てくれ。気配は消してな“
“らじゃあ”
準備は完了。あとは、心を整えて本番のステージに臨むだけだった。
⌘       ⌘       ⌘
本町公園の中に進んで行くと、そこにはまだウサコの姿は見えなかった。
しめた、これでこちらに有利になる。これでこそ、早めに出動した甲斐があったというものだ。
ぼくは心を躍らせた。
なにしろ、昨夜のロケーションは最悪だった。ひとつのブランコに二人乗りとか。
あんな状況じゃあ、気持ちにゆとりをもって交渉ごとが出来るわけがない。
今夜はもう少しましな場所、たぶんどこでもブランコよりは間違いなくましだろうが、それを見つけて先に陣取ってやる。
それが狙いの早めの出発だったが、見事に図に当たったのである。
ぼくはしばらく公園内のいくつかの遊具を物色していたが、そのうちのひとつ、すべり台を選んでのぼり、一番てっぺんに腰をおろして座り、スロープに両足を伸ばした。
ここなら、まさか昨日のような危険な状況にはならないだろうと考えての選択だった。
すべり台の最上部はぼくのような十代の人間が座るにはぎりぎりの広さだ。
もうひとりは一緒に座れないから、ウサコとは確実に距離がとれる、そう思ったのだ。
他にもスプリング遊具っていうのかな、ウマとかパンダとかの動物の形をした乗り物もあったのでこいつでどうだろうかと考えたが、これは下手すると昨夜のように、ウサコに上に乗っかられかねないなと思い、やめにした。
そうしてすべり台の上で待つこと一、二分、ふと気がつくと、ひとりの女がふらふらとした足取りで近くまで歩み寄ってきていた。
ほかならぬ闇の女王、ウサコ陛下のご光臨である。
⌘       ⌘       ⌘
ぼくはウサコを、斜め下に見おろす格好となった。
本日の陛下のお召しものは、昨日と同じキュープリラビット柄のパジャマ……かと見るや、昨日のとは色違いのやつだった。
昨日はイエロー、今日はピンクだ。
当然だがそのサイズは子供用のためパッツンパッツンで、胸元からは見事な形の白い双丘がのぞいている。
しかも上から見おろすかたちなので、昨日よりもその大きさがさらに強調されて見える。
ぼくは、心ならずも眼福を味わってしまった。
髪はやはり昨日のようにポニーテールをほどいたロングで、前髪には果たして小さな髪留めをしていた。濃い茶色のやつだ。
まずは、ぼくのほうから声をかけた。
「やあ、こんばんは、ウサコ。
今夜も会えたね」
ウサコはそれを聞いて、一瞬怪訝な表情になった。数秒間、沈黙があった。
が、すぐに昨日の出来事を思い出したようでこう答えた。
「ああそうだね、こんばんは、おにいさん。
昨日もあんたに会ったんだったね。いま思い出したよ。
ウサコって、あたしの名前だったっけ?
そういえば、昨日あんたがつけてくれたんだったね、おにいさん」
ウサコは、これまでもたいていそうだったが、変身が解けて元のミミコに戻ってしまうと、夜の出来事の記憶は大半が消えてしまう。けれど、一部の目立った出来事の記憶は、かすかに残っているらしい。
「ぼくのこと、きみの名前のこと、思い出してくれてよかったよ。
じゃあ、しばらく話でもしようか、ウサコ」
ウサコのやつ、こんな感じだと昨日の会話の詳細まで覚えているようには思えなかったので、昨日の話題の続きではなく、新たに話題を見つければいい、ぼくはそう思って提案した。
「そうね、いつもの習慣であたし、きょうもまたこの公園に来てしまったけど、なにかしなきゃいけないことがあるわけでもないしね。
ここでは、とりあえず誰かが来るのを待って、誰かがやって来たら話しかけて、まともに返事をしてくれたら話をする。そういうことの繰り返しだよ。
で、たいていの場合は、その最後までたどり着かない。いつも、逃げられてばかり。
だから、おにいさん、あんたが最初から話し相手になるって言ってくれるのは、本当にうれしいわ」
そう言って、ウサコは一国を傾けかねないぐらいの値千金の笑みを婉然とたたえたのだった。
⌘       ⌘       ⌘
ウサコは、すべり台のスロープの先端までやって来て、ぼくと向かいあうようにしてそこに座った。
いわゆる「体育座り」とよばれる体勢で。
それだと、ウサコの豊かな胸元を常に見下ろすかたちになるのは、いいんだか悪いんだか。
まずはウサコから、口を開いた。
「昨日はあんたと、けっこういろんな話をしたんじゃなかったっけ。あらかたは忘れちまったけど」
そう言って、ウサコはペロリと舌を出した。
「まあな。昨日はぼくのちょっと恥ずかしいプライベートな話までしてしまったから、忘れてくれたほうがありがたいぐらいだよ」
「そうかい。ならいいけど、あたしはどうやら夜にしか活動できないらしく、その後の昼間の風景は見たことがない。その時間には休眠しているようなんだ。
一度も昼間を見たことがないのに、昼間という概念だけは知っているというのも妙な話だけど、これはあたしの脳髄になぜだか残っているんだから、しかたない。
昼間のうちにおおかたの記憶は飛んじまうが、強い特徴のあるひと、印象に残ったことは、輪郭のように残っているのさ。
昨日のあんたの顔、そしてあんたがあたしに名前をつけてくれたことなどだね。
もっとも、その記憶は消えないうちに再度上書きされないと、数日後には跡形もなく消えてしまう。
事実、おととい以前に顔を合わせた男たちのことは、完全に忘れてしまったよ。
それにウサコという名前も、あんたが先によんでくれたから、それが自分のものだなとわかったんで、そうでなかったら、果たして思い出せていたかどうか。
とんだ健忘症だね」
そう言うと、ウサコはとびきり綺麗な歯並びを見せて笑った。
ミミコに特徴的だった八重歯は、そこになかった。
ウサコは、こう続けた。
「でも、それがあたしという存在なんだという気がする。
夜の間だけ意識があり、夜の間だけこうやってうごめき、ときにあんたのような奇特なひととめぐり合い、語らって過ごす、そんな生き物なのさ。
何か生きる目的があるわけでもない、ただ存在しているだけのちっぽけな生き物。
そんなあたしに、つける価値があるかもわからない名前を、ちゃんとつけてくれたのがあんただ。
礼を言うよ」
そう言ってウサコは立ち上がり、ぼくにぺこりとお辞儀をした。
そのひとり語りに込められたウサコの、そしてミミコの心の寂寥が胸にしみていたぼくは、返す言葉もなく彼女を見つめていた。(続く)
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