猟犬たちの黙示録

谷崎カナタ

4 見えない檻

「先程は本当にありがとうございました。私はイレイズ・パーハップと申します。大学に通う傍、この街の孤児院で教鞭を執っております。」

 宿の食堂で遅めの昼飯を注文した後、その娘はおずおずと名乗った。見る限り極普通の街娘の彼女は、顔を俯かせて固く握り締めた両手を見つめていた。
 よく見るとその両手がかたかたと小刻みに震えている。先程の出来事が大きなショックとなっているのは想像に難くなかったし、それに加えて彼女の首には微かに赤黒く扼痕が残ってしまっていた。それほど長時間締められたのでなければ、数日も経てば痕も消えるだろうが、一般人である彼女はそもそもその手の非日常に免疫がない。小さな背中が、その肩が落ちていた。

「失礼しますね。少し診せて頂けますか?」

ミジャンカが、イレイズの元へと駆け寄り、膝をついて首に手を当てる。音もなしに己の元へと駆け寄った人影にイレイズは一瞬肩を震わせながらも、栗色の髪をひとまとめにして邪魔にならないよう後ろへ避けた。

「うん、冷やしましょうか。それほど濃い痕ではないですし、冷やして練薬を塗って多少揉めば、治りも早いでしょうから。」

柔和な笑みを浮かべ、ミジャンカはイレイズの首に手を添えたまま両手の親指を巡らせる。「大丈夫ですからね、」と念押しするように言うミジャンカを前に、イレイズはやっと強張っていた体から力を抜いたように見えた。

「すみません…。」

「いいえ。気になるなら薬を塗布した上から繃帯で隠隠すことも出来ますから、言ってくださいね。」

「はい、ありがとうございます。」

 言葉を選び、ゆっくりとした落ち着いたミジャンカの語調はイレイズの怯えを少しずつ溶かしているようだった。多少は落ち着いたようで、胸に手を当てて大きくゆっくり呼吸していた。その様子を見て、刺激しないよう出来るだけ声のトーンを抑えて彼女に問いかけた。

「この街では、過去外人兵による襲撃事件は起きていなかったのか。」

「はい…。十年近く住んでおりますが、そのような話は全く聞き及んでおりませんでした。」

「前寄った村ではこの辺り…トールケイプ地方は比較的治安が安定している地域だって聞いてたよなァ。」

 カースティが腕を組んで頭を擡げる。

「地方都市と比べると比較的難民も少ない地域ですから、特に物騒な話は何も。ジャイレンからの物資がよく届くので、内陸部と比べると生活水準は安定しているんです。」

 当然のことだろう。物騒な日常とは粗無縁の生活を送ってきたとなれば、妙齢の女性が武器を持ち歩くこと自体が一大事。常に武装している自分達と同じ水準で考えるのは其れこそ的外れなことかもしれない。

「先ほどの話だと、十年程この街に住んでいるということだったが、君は他国からの移民かい?」

 俺を一瞥したのちにイレイズの目の色を見たハワードが、確認するかのようにイレイズに尋ねると、彼女は少し考え込んだように間を置いて静かに口を開いた。
心なしか声から更に覇気が消えている気がした。

「確かに私はカストピア人ですが、移民…とはまた違います。戦争で両親を亡くして孤児となったのち、流れ着いたのがこの街だったんです。」

 そう言って彼女は静かに小さな冊子を見せた。それは、彼女がカストピア国籍の難民であることを証明するものだった。

「私は、難民です。」
 
 我ながら条件反射なのか、その瞬間時が止まる。

奴らも思うことは同じなのか、ミジャンカが「それはさぞご苦労が多かったことでしょう。」と声をかける以外は誰も何も言わなかった。同情されたとでも思ったのか、イレイズは居心地悪く首を垂れていたが、俺たちが彼女に対して向けていたのはそんなセンチな物ではない。


 リスベニア兵の残党によって襲われた理由に、ただ合点がいったのだ。


「そうか。」


 一瞬空気が冷えたことをイレイズは感じたのか、推し量るように口を開いた。

「あの…大変失礼ですが、あなた方は流れの賞金稼ぎの方々なのでしょうか…?」

 その言葉で、俺たちは誰一人名乗っていなかったことを今更ながら気付いた。どこまで話したものかと一瞬口を開き倦るが、「ジャイレンに拠点を置いている武装集団だ。」とだけ話した。まあ街娘相手ならここまで話せば十分だろう。

 会ったばかりの一般人に、自分たちの身分を具に明かす必要もないと思ったからだ。だから朝酒場でこいつらが飲んでいる時も街人には話さなかったし、当たり障りのないところで止めようと思ったが、俺のその思惑はイレイズの隣に座るベルーメルによって早くも脆く崩れ去った。

「私達は通称『ハウンズ』。周りが勝手にそう呼んでいるわ。依頼されたことは基本何でもやるけど、主に引き受けているのはあなたのような一般市民に危害を加える残党相手の仕事よ。私は、ベルーメル・サルベレット。よろしくね。」

「おい、ベルーメル…。」

「ハウンズ…『猟犬』、ですか?」

 俺の呟きが耳に入らない様子のイレイズは、そうね、とベルーメルが笑いながら差し出す手を恐る恐る握り返した。それと同時に、この辺では見ないベルーメルの黒髪をじっと見たかと思うと、思い出したように俺たちの顔をまじまじと眺め始める。

「出自はみんな違うよ。ベルーメルはリスベニア出身なんだ。」

 ハワードが人当たりのいい温厚な顔で、イレイズが抱えているであろう疑問の答えをそのまま口にした。

 俺は先程のこともあったので、イレイズがリスベニアという言葉には過剰反応するだろうと思っていたが、予想に反してイレイズは冷静だった。

「何も思わないのね?」

 ベルーメルが静かに問う。イレイズが困ったように眉を下げたがそれは一瞬で、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「もう、終戦から10年経ちますもの。それに、ベルーメルさんは何も悪くありませんから。蟠りを持つ必要なんてないでしょう?私自身、民族の分け隔てのない孤児院で育ってきましたから、平気です。」

 ベルーメルはそれには答えなかったが、目の前の少女が自分に対して恐怖も憎しみも持っていないと察知したようで、少しばかり表情が柔らかくなった。


 カストピアとリスベニア。
 先の大戦で世界を巻き込んだ二つの国。

 オガールの孤児院で育ったということはイレイズ自身も戦争孤児なのだろう。そんな彼女がリスベニアについて何も思っていない訳はないだろうが、自分の中の葛藤の結果が今の言葉なのだろうと思った。そんな空気を温めるように、ハワードが名乗る。

「自己紹介が遅れて失礼したね。私はハワード・ルイージア。ワヴィンテ出身だよ。この辺だと群青色の目はあまり見ないだろうから、珍しいかな。ほら、カースティもちゃんとご婦人に挨拶挨拶。」

「肩に手乗せるなァ。カースティ・グリフィスだ。ハワードの奴とはこのメンツで仕事をする前からの腐れ縁ってとこだァ。セレメンデ人だが、俺も姉ちゃんと同じように人生の半分はオガールで暮らしてるぜェ。」

「え、ひどい。カースティ私のことそんな風に思ってたのかい?」

 ハワードが心外とでもいう顔でカースティの顔をじとっと見るが、それをカースティは物臭そうにしっしと手で払う。ミジャンカがいい歳して、とため息をつくと、イレイズに向き直った。

「自分はミジャンカ・コラケムと申します。あと、先ほどからあなたを凄んでいたのはセラウド・ゲーティアス。すみませんね、愛想が悪くて。」

「やかましい。」

「よろしくお願いします…。あの、ミジャンカさんのその綺麗な刺繍の外套…。もしかしてデイルですか?」

「イレイズさんよくご存知ですね。ジョゼル族が伝統的に身につける織物ですよ。」

「やっぱり!よろしければ触ってもいいですか?」

 イレイズはミジャンカの外套に興味津々のようだった。俺は結局全部話す羽目になるなと悟ったが、彼女は俺が同郷の人間であることはすぐに分かったのだろう、俺自身についてはこれ以上触れることはなかった。

「何て素敵なの…。こんな精緻な刺繍見るのは生まれて初めてです。でも、何故異民族同士の皆さんが一緒に…?」

 自然に出てくるであろう疑問。

 彼女は、世界を取り巻く状況をどこまで理解しているのかわからなかったが、確かに俺たちのようにこのご時世に異民族が集団行動をするのは珍しいと言われることが多い。それは、今の世界を取り巻く状況と逆行しているからだ。


        ***


 ヘレアン戦争終結後、各国の国内復興を急ぐ為に世界的に敷かれた政策として「越境規制」がある。それは終戦協定に盛り込まれていた鎖国政策であり、必要物資の行き来、政府要人以外の許可無き越境を禁じるものだった。

 一般人は『ビザ』の発給を受けなければ如何なる事情があろうとも越境は許されず、発給には複雑な手続きと高額な手数料が必要となった。それにより国間での人々の往来が激減し、未だ燻る異民族同士の衝突を最小限に抑え、国内情勢の安定化を早める狙いがあった筈だった。

 
 しかし、各政府の思惑は余にも楽観的過ぎた。 


 一般人の合法的な出入国が制限され、それは皮肉にも他国へ派遣されていた兵士達の帰国を困難にする愚策と成り下がったのだ。

世界一頑強な国境封鎖を行なったリスベニアはその最たるものである。


強制収容所の存在や捕虜の拷問等、国の暗部を外界の目から隠し通そうと当時の政府高官達は躍起になっていたのだろう。

 リスベニアは10年前に終結したヘレアン戦争唯一の戦勝国にしてシルベスト教団の総本山を擁する強大な軍事国家だ。人口も教育水準も世界屈指。そして戦前から徴兵制が敷かれており、成人男性は兵役義務がある。それ故戦火の中に投入された兵士達は数も質も他国のそれとは段違いだった。


 ただ、それが彼ら兵士にとっての悲劇だったのだ。世界中にリスベニアの残兵が割れた硝子の破片の様に散っていたことから、リスベニア政府は彼らの「回収」を先延ばしにし、終ぞ救済措置が取られることはなかった。身分を証明するものを全く持たない兵士達は帰国を認められず、国内情勢の安定化を第一とする各国は、在ろう事か彼らを「見殺し」にした。

 それだけでは終わらない。悲劇はさらに新たな悲劇を惹起する。
 
 武装している彼らの存在を無かったことにして生まれたのは新たな混沌だ。犯罪組織を形成した者、ビザの発給に必要な金を手に入れる為に盗みに手を染める元少年兵など、枚挙に遑がない。

 公にはされていないが、戦後になってから、一部のリスベニア兵達が恐怖心を打ち砕く為に非合法の『カプセル』が軍部より強制的に投与されていたことがわかった。理性を無くし、自我の暴走のままに殺人を繰り返す人形に成り果てた者も大勢いる。そして、リスベニア政府はその無数のカプセルの回収も当然のことながら涼やかな顔で拒否したままだ。それは暗部より伸び出た手に渡り、複製され高値で取引されるまでになっている。挙げ句の果てには不純物を詰めた粗悪品まで出回っている始末だ。


 恐ろしく厄介なのは、一度そのカプセルを口にすると、効果が切れた後でも衝動性が抑えられず、暴力的な人格から戻ることが困難であることだ。薬の副作用でもある中毒性は自分の意思ではどうにもならない。脳に障害が残り、効果が最高潮だった際の記憶に絡め取られることになる。


そして、国のために戦ったという使命感の表れなのか、当時の軍服を纏ったままであることが多い。組織を形成しているのであれば、その紋章を身につけていることもあるが、各国の軍警達はそれを頼りに、凶暴化したリスベニア兵の中毒者を「駆除」するのに必死だ。


 俺たちは奴らを『中毒者(フィンド)』と呼ぶ。


 カプセルと共に「国の為に尽くした」筈のフィンド達は結果的に世間から消された存在として、世界中の異国の地でひっそりと闇の中に沈まざるを得なくなった。
 戦場の英雄達は、結果として重すぎる十字架を背負うことになってしまったのだ。

 非人道的なリスベニア政府の所業をシルベスト教団は重く受け止め、リスベニアに対する戦勝国としての全ての権利を剥奪したことは記憶に新しい。
 
 だが懸念すべきはフィンドたちばかりではない。

 イレイズと同じ類の不幸は地方都市ほど溢れている。つまりは戦争によって母国を追われた難民たちだ。首都から離れた他国と国境を接する辺境の街など、仕事を求めてやってくる難民で路上は埋め尽くされている。
 
 中立国であり、開かれた多民族国家のオガールは、困ったことに哀れな兵士達、そして難民の保護に追われることとなった。この国は、戦争の脅威から逃れた代償として、結果的に二つの面倒事に直面している。

 各国の定める越境規制では一般人の越境を固く禁じているが、ただ一つだけビザの発給が免除される条件がある。

 各国政府発行の証明書を持つ『難民』であることだ。
 
 しかし、おかしなことにリスベニアをはじめとしてカストピア、ワヴィンテ、セレメンデの4つの国は、想定を大幅に上回る難民の数に恐れをなしたのか、証明書を持っていても毎年入国できる難民数に制限が掛けられている。
そして一部の軍幹部クラスを除き、軍役経験のあるリスベニア人には原則難民証明書の発行を認めていない。大方夥しいリスベニアの残党を国内に入れない為だろうが、其れ故難民に残されている帰趨先は、現在規制を敷いていないオガールとガジャルウインドしかない。

 そもそも保守的で古くから続く遊牧民ジョゼル族と沿岸部に住まうブラジット族の2つの民族の対立により、内紛の可能性を秘めているガジャルウインドを亡命先として選択する難民は少ない。余所者が移住したところで住みにくいからだ。

その点受け入れる難民に制限を設けていないオガールへ流れ込む難民はこの数年で急増している。各地に残されたフィンドが暴徒化し、街を襲ったことによって更なる難民が生まれると云う悪循環が生まれた為だ。言葉の不自由がなく安い賃金で雇える彼等は、当然オガール人よりも優先されて雇用されやすい。それが国内の雇用を圧迫し、自国民の不利益になるようなことがあれば、国境規制どころの話ではないだろう。

温厚なオガール人であってもいつ難民相手に立ち上がるやも知れぬ。それにオガール政府は先手を打った。

 オガール政府は無用な内紛を引き起こさない為、難民帰国政策としてオガール外務省が発行する『旅券』を持つ者については無条件での入国を認めるよう、越境規制を敷く4カ国へ要請したのだ。

これによってオガール市民に加え、故郷に戻る意思のある他国の難民にはなんとか融通が利くようにはなったものの、当然のことながら旅券の発行は審査が厳しく、いつ発券されるかは不明だ。

乱発したその瞬間、制度自体が崩壊することを慮ると致し方ないことなのかもしれない。

片一方で違法に難民を手引きし、危険な方法で越境させることを生業としているものもいるが、強力な引き締めの産物と思うとそれも当然の結果だと思う。

オガールに逃れてきても、祖国に帰還するすべのない者が大勢いるのだ。『見えない檻』に阻まれ、生きて祖国の土を踏めぬ者たちが。

そんな行き過ぎた引き締めが、果たして戦後の復興に拍車をかけるものたり得るのか。答えは明白だろう。


 結局のところ、良かれと敷かれた鎖国政策が本当に支援を必要している難民達を追い詰めているこの現実を知っている者は少ない。

いや、本当に「良かれと敷かれた」ものと思っている者はいないだろう。

襤褸を纏い、明日をも知れぬ生活に怯える人々に差し伸べられる手は圧倒的に足りていない。

支援の手から零れ落ち、絶望に打ち拉がれる人々の中では、結局のところ「戦争」は続いている。それはまさに生きる為の戦いであり、いつ来るやも知れぬ支援を宛にしてぼつねんと立ち尽くしている余裕など彼らにはない。

今日を生き延びた達成感。
明日を迎える焦燥感。

同じサイクルで押し寄せる感情に振り回される「不幸な人々」を、俺は毎日のように見てきた。終戦から10年経った今、世界を取り巻く状況は確実に悪化の一途を辿っている。


「ハルトの街に流れ着いたのは幸運だと思った方がいい。衣食住を保証されている難民は、難民とは言わん。」


 イレイズにとっては冷たい物言いかも知れなかった。しかしながら学を持ち、仕事を持つ者はいわば難民といっても「成功者」である。彼女は、まさに其れだった。


「今や犯罪組織の半数以上がフィンド達だ。襲われたのは気の毒だが、奴等がお前に対して恨みを抱くのも決して不自然じゃない。其れが例え理不尽な言いがかりだとしてもな。」

 祖国に見限られ、国で待っている家族とは引き離されたまま。

 真っ当な生き方が出来なくなった兵士達の心は歪だ。

国の為に戦ったと云う栄誉も、名声も摘み取られ、国にとっては単なる厄介者に成り下がったと悟った時、奴らは道を踏み外すのだろう。其れも自分の意思で。


 そんな奴らが祖国に帰れない「同じ立場の人間」にも関わらず、ただの小娘が一般的な日常を送っているのを見たその時、どのような感情が芽生えるのかを想像するのは容易いことだった。

「あの…何を仰りたいのでしょうか。」

 イレイズは目を見開いて俺に向き直った。その目は、明らかにこれから俺の口から出てくるであろう言葉をわかっているようだった。

「お前は自分が不幸だと思ってるんだろうが…。奴らから見れば単なる甘えだって言ってるんだよ。」

「セラウド!」
 ミジャンカの制する声。イレイズの体は小刻みに震えているように見えた。


「安定した生活をしている難民は、悪ですか…?」


 小さな喉から絞り出された低い声が食堂に響く。ベルーメルが俺を睨んでいるのが横目でも分かった。

「人間らしい生活をしている難民は、万死に値する存在なのでしょうか…?」

 膝に置かれた手が震えている。彼女が俺に求めている言葉は明白だった。



「己の求める答えしか期待しない問いは単なる自己満足だ。」



その刹那だった。
目の前が冷たい壁によって覆われ、濡れた前髪が額にへばりついた。瞬間コップの水が自分の顔面に浴びせられたことに気づく。顔を振って水滴を飛ばせば、荒い息遣いで片手にからのコップを持って立ち尽くしたイレイズと目が合った。

「あなたに、何がわかるんです。」

「…。」

「私の父は、戦場カメラマンでした。最期までカメラを離さず、母と共に仕事に殉じて私は独りになってしまった。その父のカメラだって…どうせ最後のシャッターを押した瞬間に爆弾の熱線でダメになって…その写真が世に公開されることはなかったでしょう。結局は、無駄だったんです…っ。」

 低い声はそのままに、目の前の娘は体を震わせながら俺に言葉をぶつけ続ける。

「父と母が亡くなったことで、私は孤児になりました。難民証明書を取得するのだって、どれだけの時間がかかったか…。証明書がなければ、公営の孤児院にすら入れません。暗く、不衛生な難民船の順番が来るのを数ヶ月待って…ようやくオガールへ辿り着きました。生きるのに必死でした。その思いが私を生かしてきたんです!なんの取り柄もない小娘がこの平凡な生活を手に入れるのにどれだけのものを犠牲にしてきたか、あなたなんかに分かりません!」

 止め処なく頰を伝う涙は、心の叫びが形となったものなのだろう。日常生活の中で意識的に埋没させてきた、自分を置いていった両親への複雑な思いさえも抑えきれなくなっているようだった。

「あなた方は特別な人間なんでしょう。難民証明書の重みも、命が常に危険にさらされる恐怖も分かるはずないわ。」

そう、難民でないということはどういうことになるか。それは必然的に俺達がオガールの市民権を持つことを意味する。それを悟ったイレイズはより苛立ちが増したのだろう、唇を噛み締め、涙を拭うことなく俺を睨みつけていた。


 今まで自分が築き上げてきた平穏な生活を否定されたことで、押し込んでいたものが堰を切ったように流れ出しているようだった。彼女からすれば俺達はお気楽な余所者にしか見えていないのだ。そんな他人に何故此処まで言われなければならないのかと、自分を守るのに精一杯になっているように見えた。

「結果的に無駄になった父の死も、私を庇った母の死も、死ぬまで背負わなれけばならないんです。せめて、せめて人間らしい生活がしたい…。孤児院の子供達にも、戦争の悲惨さを伝え続けて、平穏な人生を歩ませてあげたい。私が望むのはこれだけです!そんなわけのわからないリスベニアの残党なんかに邪魔される謂れはありません!」


渾身の叫びだったのだろう。
とっくに運ばれてきていた昼飯には目もくれず、イレイズは食堂から走り去っていった。




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