旦那様は魔王様

狭山ひびき

4

温泉。

その響きに、沙良は瞳を輝かせた。

なぜなら、沙良は温泉に入るのは生まれてはじめてなのだ。

(温泉! 洋館っぽいのに、温泉! すてきです!)

沙良は着替えを持って、案内してくれるというゼノのうしろについて行った。

古びた洋館のような離宮に、お化けが出そうで怖いと思っていたことは、すっかりと頭から抜け落ちた。今は目の前の「温泉」という楽しみでいっぱいだ。

ゼノに案内されるままに離宮の一階の西の端に到着した沙良は、扉をくぐって感動した。

脱衣所を兼ねた部屋の奥のガラス戸をくぐれば、そこは全面ガラス張りの部屋で、中は露天風呂のような作りになっていた。

大きな岩を積み重ねて作られた、丸くて広い温泉の端には、高いところから落ちる、細い滝のようなかけ流しの湯がある。

硝子戸の外に見えるのは鬱蒼とした森だが、ゼノ曰く、外からは中の様子が一切見えない作りになっているらしい。

「すごいです……!」

「お気に召していただけたのならよかったです。服は先ほどの部屋でお脱ぎになって、どうぞおくつろぎください」

「ありがとうございます!」

ゼノが一礼して出ていくと、沙良はさっそく服を脱いで温泉の中に入った。

やや熱めだが熱すぎるということはない、とろりとした乳白色のお湯だ。

(気持ちいい!)

沙良は温泉の中で大きく伸びをした。

離宮に来て早々、その不気味な様子に早くも城に帰りたいと思っていた沙良だが、この温泉のおかげで離宮の印象ががらりと変わった。この温泉があるなら、もう少しいてもいい。

かけ流しの小さな滝があるからか、湯に波が立っているのも面白い。

「お城にも温泉、あればいいのになー」

すっかり温泉が気に入った沙良が、ぽつんとつぶやいた時だった。

背後から聞こえてきた微かな物音に気づいて沙良が振り返ったのと、入り口のガラス戸が開いたのはほぼ同時であった。

「―――え?」

沙良は目を見開いで硬直した。

そこにはシヴァが立っていた。しかも――裸だ。

「き、きゃああああああっ!」

一時停止していた脳の回路が状況把握をした瞬間、沙良は悲鳴を上げて温泉の中に頭から潜った。

ザバン、と湯があふれる。

「沙良!?」

シヴァが驚いた声を上げて、湯の中に手を入れた。

しかし、シヴァが温泉から沙良を引きずり出そうとするが、沙良はパニック状態でバタバタと暴れる。

「いや! だめです! はだか! はだかぁ!」

沙良はシヴァの腕から逃れると、温泉の中で膝を抱えて丸くなり、ぷるぷると震えた。

「な、なんでシヴァ様がここにいるんですかぁ……」

シヴァの方を見ないようにぎゅっと目を閉じで訴える。

「何故って、あとから行くと言っただろう」

――俺は少し用事があるから、あとから行く。

言われてみれば、シヴァはそんなことを言っていた。

だが、まさか混浴だとは思っていないので、沙良が温泉に入っているところへ、裸のシヴァが後からやってくるとは想像だにしていない。

シヴァは沙良が裸でも混浴でも全く気にならないのか、当然のような顔をして温泉に入ってきた。近くにシヴァの気配を感じて、沙良はますます瞼に力を入れる。

「シヴァ様こっち見ちゃダメですからね!」

「風呂が白いんだ、はっきりと見えやしないから、そう硬くなるな」

「それでも恥ずかしいんです!」

「……以前、透けた夜着を着ていなかっ……」

「それを思い出したらダメなんですーっ!」

沙良はパッと顔を上げて、シヴァの裸の鎖骨が視界に入ると、ボッと顔を真っ赤に染めた。

「いやぁ……」

沙良は両手で顔を覆った。

(混浴なんて聞いてないですー)

シヴァもシヴァだ。「入っていいか」の一言もなかった。もちろん、訊かれても「だめです!」以外の答えはなかったが。

沙良や顔を覆っている指の隙間からチラリとシヴァに視線を投げた。

シヴァの長めの黒髪の毛先から水滴が滴って、肌を伝って流れていく。緊張して丸まっている沙良とは違い、シヴァは片腕を岩の上に投げだして、ずいぶんとくつろいだ様子だった。

せめてもう少し距離を取ってくれたら沙良も落ち着いて入浴できるのだが、今、沙良とシヴァの間は人一人分の距離もない。少し動けば腕が当たるだろう。

沙良は顔を覆っていた手を下ろすと、再び膝を抱えて丸まった。

緊張は解けないが、じっとしていると徐々に脈拍が落ち着いてくる。

沙良が少し落ち着いてきたことに気づいたのか、シヴァが小さく笑った。

「温泉は気に入ったか?」

沙良は小さく頷いた。

「……はい」

「ここにいる間は好きな時に使っていいぞ」

沙良は少し顔を上げた。

「どうして温泉があるんですか?」

「ああ、ここは昔、俺の親父が作らせたんだ。地下に水脈が通っていて、試しに掘ったら湯が湧いたらしく、そのままこうして温泉にしたらしい」

「へぇー」

シヴァが父親のことを話すのははじめてで、沙良は少し興味を持った。

「お父さん、今はどうされてるんですか?」

「隠居して田舎に引っ込んでいる」

「お父さんも魔王様だったんですか?」

「元、な」

「シヴァ様に似てますか?」

「いや、俺よりも見た目はセリウスの方に近いと思うぞ」

「セリウス様ですか」

沙良はシヴァの弟だというセリウスの顔を思い浮かべた。青みがかった銀髪の、華やかな顔立ちの青年だ。シヴァもとても整った顔立ちだが、シヴァとは真反対の印象を受ける。

「セリウス様、面白い人でしたねー」

人懐っこくて、いろいろぶっ飛んでいて、ちょっと変な人――、沙良がセリウスに抱いた印象はこんな感じだ。

沙良がシヴァの父親に似ているというセリウスの顔を思い出していると、シヴァがムッとしたように眉を寄せた。

「なんだ、セリウスが気に入ったのか」

「え? 気に入った、というか……、優しい人でしたね」

シヴァはますますムッとした。

「あれのどこが優しいんだ。傍迷惑なだけだろう」

「そうなんですか?」

沙良はどうしてシヴァが不機嫌なのかわからずに、目をぱちぱちさせた。

「そうだ。あれに安易に近づくな」

「わかりました……?」

沙良からセリウスに近づいた覚えはないが、ここは頷いておいた方が賢明そうだ。

沙良が素直に首を縦に振ると、シヴァの機嫌は直ったようだった。

そのあとはほぼ無言で二人して温泉を楽しんでいたのだが、ややして、沙良の頭が徐々にぼーっとしはじめた。

のぼせそうだな、と感じた沙良は、ちらっとシヴァを見る。

「あのぅ……、わたし、そろそろ上がります」

「そうか」

「……」

返事はされたが、それだけだった。

湯から上がりたいが、このまま立ち上がったらすべて見えてしまう。

せめて背を向けてくれるとありがたいのだが、シヴァは沙良の気持には気づいてくれない。

「あのー、シヴァ様、うしろを……」

向いてください、と言いかけた沙良は、ふと視界の端に何かの影を捕えて、途中で言葉を呑んだ。

(ん……?)

この温泉には、沙良とシヴァしかいない。

沙良はふとガラス張りの壁に視線を投げ――、くわっと目を見開いた。

ガラスの壁の外に、何やら真っ白い影が――

「き、きやあああああああ!」

沙良は絶叫した。

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