夢の中でも愛してる

狭山ひびき

2

温泉街から戻った遥香は、まだ時計の針が二時前なのを確認すると、荷物をおいて散歩に行くことにした。

昨日、弘貴と歩いた散歩コースだ。

昼下がりで暑いせいか、遥香以外の人の姿はなく、遥香は小川沿いのゆるい傾斜の散歩道をゆっくりと登っていく。

頭上には、伸びた木の枝が覆いかぶさるように伸びているため、足元の道には木漏れ日が差し込んで、いびつな水玉模様のようになっていた。暑いには暑いが、吹き抜ける風と、木々が落とす影で、我慢できないほどの暑さではない。

歩を進めながら、どうせなら昨日見つけた教会のあたりまで歩いてみようと考えていると、前方に人影を見つけて足を止めた。

(なんで……)

後姿でも裕也だとわかる。昔、ずっと見つめ続けていた姿だから。彼までは距離があるのに、それでも気づいてしまう自分が少し嫌になって、遥香は視線を落とした。

なぜ、これほどまでに人の姿がない散歩道なのに、よりにもよって裕也がいるのだろう。見つかる前に引き返そうと身を翻した遥香だったが、来た道を戻るよりも早く、遥香に気がついた裕也が遠くから声をかけてきた。

「あれ、遥香じゃん」

無視したくてたまらなかったが、どうせ無視したところで彼には通用しないのだろうなと、遥香は肩越しに小さく振り返った。

裕也は早足で遥香の方へ降りてくると、馴れ馴れしく肩に腕を回してきた。

昔は、裕也に距離を詰められると苦しいくらいにドキドキしていたのに、今では何も感じない自分に少しだけ驚く。それほど過去のことでもないのに、自分の中では彼の存在は触れられても何も感じないほど、遠く昔のことになってしまっているのだろう。

(……なんで、昨日はあんなに動揺したのかな?)

不思議に思うほど、冷静でいられる自分がいた。

「今日はあいつと一緒じゃないの? あのイケメン彼氏」

「……そっちこそ、彼女と一緒じゃないの?」

遥香が質問に質問を返せば、裕也は小さく肩をすくめた。

「あいつは買い物に行きたいっていうから別行動。なんで女っておみやげ物を買いあさるのが好きなんだろうな、俺には意味不明」

「そう……」

そう言えば、裕也はこういう男だった。自分の都合で遥香を振り回す癖に、遥香が見たいと言ったり行きたいと言ったものにはほとんど関心を見せず、「勝手にすれば?」と一人で放り出す。

(弘貴さんなら……、一緒に来てくれる)

弘貴の顔を思い浮かべて、遥香は少し悲しくなった。やり直せるなら昨夜をやり直したい。弘貴と裕也はこんなにも違うのに、どうして同じように都合のいい女にされて挙句捨てられると思ってしまったのだろうか。

「で、あいつはどこ?」

裕也がきょろきょろと弘貴の姿を探すように視線を彷徨わせる。

何がそんなに気になるのだろうかと思いながら、遥香は答えた。

「弘貴さんは、急用があって一時的に会社に戻っているの」

すると、裕也は途端にやにやしはじめた。

「へえ、さっそくこじれたの?」

「な……っ」

「これでわかっただろ? お前とあの男は釣り合ってないって」

遥香の肩を引き寄せて、裕也は耳元でささやく。

「うまくいくはずがない。別れろって。別れるなら、俺がもう一度つき合ってあげてもいいぜ? なんなら、今度はちゃんとお前を本命にしてやってもいい」

「なに……、言ってるの?」

遥香は愕然として裕也を見上げた。相変わらず端正な顔立ちをしている。だが、遥香を見下ろして微笑む裕也の顔を、遥香は素敵だと思えなかった。

自信にあふれていると言えば聞こえはいいが、どこまでも自分勝手な微笑み。

裕也は、こんな笑い方をする人だっただろうか。

自信家なのは昔からだ。自分に自信があって、営業として貪欲に仕事を取りに行く姿に憧れた。強気な態度を素敵だと思った。身勝手で自己陶酔的な笑顔を浮かべることも確かにあった。だが、遥香はそれに嫌悪感を抱いたことは一度もなかったはずだ。

それなのに、今は顔を近づけてほしくないほどこの笑顔が嫌だと思う。強気で身勝手な発言に、どうしようもなく腹が立ってしまう。

遥香は感情のまま、肩におかれた裕也の手を払いのけた。

「ふざけないで!」

すると、遥香が怒ると思っていなかったのか、裕也の目が丸くなった。

「なに? 怒ってるの? ああ、さっきの冗談で言ったわけじゃないよ。今度はちゃんと本気で言ってる。今つき合ってる女、気が強くてさ。美人なんだけど一緒にいて疲れるんだわ。お前は美人じゃないけど、癒されるっていうか、ぼんやりしてるし自己主張が少ないから疲れないし、俺にはお前みたいなのがちょうどいいって思ったんだよ」

昔のことを根に持っているのなら水に流せと、裕也は勝手なことを言う。

遥香は首を振って後ろに一歩下がった。

「昔のことなんてもう根に持ってなんかない! そうじゃなくて……、わたしは、弘貴さんがいいの。弘貴さんとつき合ってるの。別れるつもりなんかない!」

「だから、釣り合ってないって。そのうちどうせ捨てられることになるって言ってるだろ?」

裕也が苛立った表情を浮かべて、遥香の腕をつかんで引き寄せる。

遥香は前のめりになりながらも、裕也と腕一本分の距離は保ったまま、彼をキッと睨みつけた。

「それでもいいもの。もしも捨てられることになったとしても、今がとても幸せなの。そばにいられて嬉しいの。裕也のことは確かに好きだったけど、今は弘貴さん以外考えられないの……!」

遥香は裕也の腕を振りほどこうと体をよじる。けれど裕也はなおも強い力で腕をつかんで、力任せに遥香をその場に引き倒した。

「きゃっ」

遥香が硬い地面にたたきつけられると、裕也が覆いかぶさって遥香の身動きを封じる。

「お前、ふざけてるの?」

裕也の声は憤っていた。

「お前、自分のこといい女だって勘違いしてない? 自分が選ぶ立場だと思ってるの? 言っとくけど、こんな屈辱はじめてだ。遥香のくせに、生意気なこと言うな……!」

「やっ、離して……っ」

硬い地面に押さえつけられて、遥香は足をばたつかせて暴れた。だが裕也の力は強く、上に乗った彼はびくともしない。両腕は一くくりにされて頭上で押さえつけられているし、馬なりになった裕也は重たいしで、遥香は蒼白になった。

裕也の手が、スカートの裾から入り込んで太ももを撫でる。

「やだ……!」

ぞっとして、遥香は力の限り暴れながら、「やめて」と裕也に訴えた。けれど、裕也は薄く笑う。

「もともと俺のものだっただろ。初めてだったお前に、いろいろ教えてやったのも俺だ。それなのに我儘言って俺のそばから離れて行った挙句に、ほかの男がいいとか、冗談がすぎる。もう一度俺のものにしてやるから、血迷ってないで戻って来いよ」

言っていることが滅茶苦茶だった。遥香はものではない。裕也の所有物ではない。嫌だと首を振って身をよじると、Tシャツをまくり上げられて、膝で閉じていた足を割られた。

(いや……!)

遥香の頭が真っ白になる。力では勝てないし、言葉も通じない。肌を撫でる裕也の手のひらが気持ち悪くて、このままここで乱暴される恐怖に遥香の体が震えはじめる。

「弘貴さん……!」

気づけば、遥香は頭が真っ白なまま弘貴の名前を呼んでいた。

「弘貴さん、弘貴さん、弘貴さん……!」

声の限り弘貴の名前を叫ぶ。

「うるさい!」

裕也に手のひらで口を塞がれたが、遥香は泣きながら首を振った。

(弘貴さん―――!)

弘貴以外は絶対に嫌だった。

スカートをまくり上げられて、下着越しに触れられる指の感触だけで吐き気すらしてくる。裕也に触れられるくらいなら、このまま硬い地面の上で暴れて、傷だらけになった方がましだった。

塞がれた口の中で、しゃくりあげながら弘貴の名前を呼び続けていたとき、遠くで遥香の名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、遥香はハッとした。

(弘貴さん……!?)

弘貴の声だった。それはだんだんと近くなり、遥香は渾身の力で口を塞ぐ裕也の手をはねのけると、大声で叫んだ。

「弘貴さん―――っ」

「黙れっ」

再び裕也に口が塞がれたが、弘貴に声は届いたのだろう。すぐに「遥香?」という声がして、パタパタと足音が聞こえてきた。

「遥……、なっ!」

緩いカーブを抜けて弘貴が姿を現すと、裕也に組み敷かれて押さえつけられているあられもない遥香の姿に、弘貴が目を見張った。

「チッ」

裕也が舌打ちして遥香の上から体を起こすのと、我に返った弘貴が裕也につかみかかるのはほぼ同時だった。

「遥香に何をしているんだ……!」

裕也の襟首をつかみ上げた弘貴が、近くの木の幹に裕也の体を押しつける。首が閉まっているのか、苦しそうな表情を浮かべる裕也の顔を見て、遥香はハッとして体を起こした。

Tシャツだけを元に戻して、乱れた衣服のまま弘貴に駆け寄る。

「弘貴さん! 息が止まっちゃう……!」

弘貴の腕に抱きつくようにして裕也から引き離せば、弘貴の力が緩んだすきに裕也が腕から抜け出して、そのまま身を翻して駆けていく。

頭に血が上っている様子の弘貴が、肩で息をしながら遥香に向きなおる。途端に、顔や髪に土をつけ、服を汚して、スカートの裾もところどころやぶれている遥香の様子に、弘貴は顔をしかめて、彼女を強く抱きしめた。

「遥香……、一人にしてごめん。大丈夫……、じゃないよな」

力強い腕と弘貴の体温に、遥香の体から力が抜けていく。安心して、遥香は弘貴の胸に縋りつくと、ぼろぼろと涙をこぼした。

「弘貴さん、弘貴さん……!」

小さく震える遥香の背中を、弘貴があやすように叩いてくれる。

「怖かった……、怖かったの……っ」

「うん」

「来てくれて、嬉しかっ……」

遥香を抱きしめる弘貴の腕に力がこもる。

遥香はそのまま、涙が枯れてでなくなるまで、弘貴の腕の中で泣いていた。

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