夢の中でも愛してる

狭山ひびき

6

「あの男は何なんだ!?」

部屋に戻った弘貴は、我慢していたらしい怒りを爆発させた。

イライラしながら机の上を指で叩く弘貴を見て、遥香はどうしたらいいのかわからなくなる。

とりあえず落ち着いてもらおうと備え付けのポットでお茶を煎れた。

お茶を差し出すと、「ありがとう」と言ってすぐに口に運ぶから、遥香は慌てて止めようとしたが、その前に口に入れてしまった弘貴が「熱っ」と言って湯飲みをおいた。

「大丈夫ですか?」

口の中を火傷しなかっただろうかと、あわあわしながら遥香が近寄れば、そのまま弘貴の腕に捕えられて抱きしめられる。

「あれが遥香の元彼? こう言ったら悪いけど、あの男は最低だぞ?」

遥香もそう思う。だが、つき合っているときは、裕也のことが好きすぎて、ただ嫌われたくなくて一生懸命だったのだ。そんな自分に驚くと同時に情けなくなる。

「遥香は、あんなのが好きだったの? 確かに顔はカッコいいのかもしれないけど、それだけだろう」

遥香はどう答えたらいいのかわからなくて、弘貴の背中に腕を回すと、ぽんぽんと叩いた。そうしていると、怒りが収まってきたのか、弘貴が遥香の髪に頬ずりをして息を吐きだす。

遥香も弘貴の腕の中にいると落ち着くので、仲居が夕食を運んでくる時間まで、二人はそうして抱きしめあっていた。

――しかし、問題は夜だった。

魚介がメインの夕食に舌鼓を打ったあと、食後のお茶を飲みながら少し会話を楽しみ、それでは寝ようかと言われた遥香は緊張で体を強張らせた。

それでも、ぴったりと二つがくっつけられて敷かれた布団の上で、弘貴に抱きしめられてキスをされるまではまだよかった。

だが、キスがだんだんと首筋に降りて、布団の上に押し倒されたとき、遥香を組み敷いている弘貴の顔を見上げた遥香は、急に怖くなった。

――そのうち、捨てられるよ。簡単にさ。

裕也の声が、言葉が、頭の中に蘇って、手足が急速に冷えていく。

弘貴は違うと、心の中で必死に否定しようとするのに、思い出してしまうのは裕也とつき合っていた時のことだった。

裕也とつき合いはじめて、少しして遥香は彼と体の関係を持った。だが、裕也はその後すぐに豹変した。裕也の気分で呼び出され、ただ、体の関係だけを求められる。一か月ほとんど連絡もなく放置されることもあれば、夜中にいきなり呼びつけられることもあった。

心が苦しかったけれど裕也が好きだったので耐えて、数か月がすぎたとき、裕也に本命の彼女がいることを知ったのだ。

あのとき遥香は、泣きながら自ら裕也のそばから去ったけれど、もしも、弘貴と同じことになったら、彼のそばから離れられる自信がない。弘貴に「いらない」と言われたら、立っていられる自信がなかった。

――捨てられるよ。

その言葉が、頭から離れない。

頭の中でぐるぐる回って、気がつけば遥香はの体は小刻みに震えだしていた。

「遥香?」

表情を強張らせて震えはじめた遥香を不審に思ったのか、弘貴が遥香の頬を撫でながら顔を覗き込む。

「どうした?」

「なんでも、ないです……」

震える手をおさえて、何とか落ち着こうとするが、いっこうに震えは止まらない。

弘貴が遥香を抱き起こして、そっと抱きしめた。

「……俺が怖い?」

遥香はぎこちなく首を横に振る。

違う。弘貴が怖いのではない。怖いのは弘貴ではなく、このあと「いらない」と言われるかもしれないことが怖いのだ。

弘貴は震える遥香を抱きしめる腕に力をこめた。

「じゃあ、どうして震えてるんだ?」

部屋の電気は消していたが、障子越しに入り込む月光のほのかな明りでも、遥香の顔が泣きそうに歪んでいるのが弘貴にはわかったようだ。

「なんでそんなに泣きそうな顔をしてるの?」

眼鏡をはずした弘貴の双眸が、少しだけ不機嫌そうに細められている。

震えを止めて、大丈夫だって笑わないと、きっと面倒な女だと思われてしまう――、と遥香は必死に笑顔を作ろうとするが、口元が引きつっただけで笑顔は作れなかった。

弘貴は遥香を抱きしめる腕を解いて、彼女の肩に手をおいた。

「まさかとは思うけど、さっきの遥香が昔つき合っていた男の言葉を気にしているの?」

言い当てられて、遥香はびくっと肩を揺らした。その反応で正解だと判断した弘貴が眉を寄せる。

「俺が、遥香を捨てるって、そう思ってるの?」

弘貴の声のトーンが低くなった。

遥香がハッとして顔をあげると、眉間に皺を寄せた弘貴が怒ったような顔をしていた。

「遥香は、俺じゃなくて、別れたあの男の言葉を信じるんだ?」

低くなった弘貴の声が、彼が怒りを押し殺していることを伝えてくる。

(怒らせた……)

遥香は急に怖くなって、慌てて首を横に振った。

だが、頭に血が上っているらしい弘貴は、そんなことでは許してくれなかった。

つかんだ肩をそのまま布団に押し付けるようにして押し倒されると、乱暴に唇が塞がれる。

呼吸すら奪うような深い口づけに、遥香はすぐに苦しくなり、大きく口を開けて空気を吸いこもうとすると、さらにキスを深められた。

力で押さえつけられて、息すらまともにできない状況で、遥香の目から涙が零れ落ちる。

(怖い……!)

このまま息が止まりそうで、遥香は必死に首を振って弘貴の口づけから逃れようとした。

「いやぁ……!」

唇が離れた一瞬のすきにそう叫ぶと、弘貴がハッとしたように動きを止める。

肩で息をして、ぽろぽろと涙をこぼしながら弘貴の顔を見つめると、ショックを受けたような顔をした弘貴が、のろのろと遥香の上から起き上がった。

部屋には沈黙が落ち、呼吸が乱れた息遣いだけが響く。

やがて――

「……悪かった」

弘貴は立ち上がると、枕元においていた眼鏡をかけて、そのまま部屋を出て行った。

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