夢の中でも愛してる

狭山ひびき

2

おろしたてのハンカチに刺繍ししゅうを刺しはじめた遥香だったが、二針刺したところで手を止めて、はあ、とため息をついた。

「どうかなさいました? ため息ばかりつかれているようですが」

ティータイムにフィナンシェを用意してくれていた侍女のアンヌが、物憂げな主人が気になったのか、手を止めてこちらを見やる。

遥香は針をおいて、頬杖をついた。

「婚約式、ですって」

遥香がため息とともに吐き出せば、アンヌがぱっと顔を輝かせる。

「ようやくですか! おめでとうございます」

「ありがとう」

「……リリー様。もしかして、婚約式がお嫌なんですか?」

アンヌが表情の冴えない遥香に、一転顔を曇らせると、遥香は首を振って否定した。

「嫌ってほどじゃないのよ。ただ……」

「ただ?」

遥香は窓外に視線を向けた。雨が降るほどではないが、空は薄灰色に曇っている。時折、雲の隙間から差し込む日差しは明るいが、またすぐに曇ってしまい、朝からすっきりとしない天気だった。

「婚約式が終われば、次は結婚式でしょう? ……あっという間に王太子妃。そしてきっと、何年かしたら王妃……、よね。普通に考えると。わたしに務まると思う?」

「まあ姫様。今からそんなに自信がなくてどうするんですか」

「だって……、わたしはすぐに緊張してしまって、きっとクロード王子に迷惑ばっかりかけることになるんだわ」

そして、あきれたクロード王子に意地悪を言われるのだ。それを想像すると、今日の空模様のように、どんよりと重たい気持ちになってしまう。

「リリー様。夫婦は支えあってこその夫婦ですよ。いいではありませんか。慣れるまではクロード王子に甘えても。クロード王子も、こちらへ滞在している間に姫様の性格はおわかりでしょうから、それを承知の上で婚約式をするとおっしゃっているはずですよ」

「そう……、かしら」

ことあるごとに意地悪なクロード王子。確かに彼は、遥香に対してあまりオブラートに包んだ言い方をしないから、嫌なら嫌だとはっきり言いそうだ。

(でも……、どうして、嫌だと言わないのかしら)

内向的で、とてもではないが王妃には向かない性格の遥香に、彼はイライラしているはずなのだ。「どうしてこんな女を」と思われても仕方がない。「仕方がないから遥香でいい」と妥協される対象ですらないこともわかっている。

クロードは、遥香が気に入らないから意地悪をしているはずなのだ。

(……あれ?)

そこまで考えて、遥香はふと違和感を持った。

別荘に行ったころからだろうか、少し前からだろうか、はっきりといつからかはわからないが、クロードにあまり意地悪を言われていない。

たまに、にやりと笑みを浮かべながら「チクリ」と言われることはあっても、泣きそうになるほどひどいことは言われていなかった。

それどころか、別荘では――ダンスの練習は除いて――優しくされたことも多い。

「不思議ね……」

「なにがですか?」

「あ……、いえ、なんでもないわ」

うっかり心の声が口に出ていて、遥香は曖昧あいまいに笑ってごまかした。

アンヌの煎れてくれた紅茶を飲みながら、フィナンシェに手を伸ばす。口の中に広がるバターの風味に頬を緩めていると、リリックがやってきたと教えられた。アンヌにリリックの分の紅茶を頼み、遥香が立って出迎えると、心持ちやつれたような顔をしたリリックが、ぐったりとソファに体を沈めた。

「どうしたの、リリック兄様。大丈夫?」

体調が悪いのかと心配した遥香に、リリックが小さく笑う。

「大丈夫だよ」

およそ大丈夫でなさそうな顔で大丈夫というリリックに、遥香はもっと心配になる。

リリックはアンヌの煎れた紅茶に口をつけて、はあ、と息を吐きだした。

「アリスだよ。よくわからないけど、ここのところ、ずっとついて回るんだ。……さすがに、少し疲れたよ」

「……まあ」

遥香は心の中でリリックに合掌した。

リリックに恋をしているアリスが必死になって追いかけまわしている姿が目に浮かぶ。それでもアリスの気持ちに気づかないリリックもどうかと思うのだが、疲弊ひへいしているリリックの様子を見ると可哀そうになるので、遥香はあとでそれとなくアリスに注意をしておこうと思った。

しばらくソファの上でぐったりしていたリリックだが、アンヌら侍女たちが部屋を出て行くと、おもむろに口を開いた。

「近いうちに婚約式をするんだって?」

「あら、リリック兄様、情報が早いのね。わたしも今朝、お父様からお聞きしたばかりなのに」

「アリスが嬉々として知らせに来たんだよ」

「……あの子も、どこから仕入れたのかしら」

恐るべし、アリスの情報網。別荘行きを嗅ぎつけたことといい、昔から変に情報通な妹だが、いまだに、どうやってその情報を仕入れているのかは遥香にはわからない。

リリックは真顔になって、膝の上に手を組んだ。

「それで、するの? 婚約式」

「それは、もちろんよ。どうして?」

「婚約式をしたら、もう逃げられないよ」

「え……?」

遥香は瞠目した。逃げる、とリリックは言った。それは、婚約から、クロードから逃げるということだろうか。

「婚約式の前ならば、まだ相手は変えられる。けれど、婚約式をすませたら、逃げられない。正式にリリーはクロード王子の婚約者となる。これを覆す場合、よほど理由がないと無理だ。もし婚約をなかったことにするのなら今しかないんだよ」

「何を言っているの兄様。そんなことができるはずないじゃない」

「できるよ。最初はアリスに来ていた話だった。王女でないといけないと言うならば、最初の話通りアリスがクロード王子と婚約するべきだよ。単に王族やそれに準ずる女性でいいと言うのなら―――僕の妹や、叔父上の娘がいる。隣国に嫁ぐのは、君じゃなくてもいい」

淡々と諭すように語られて、遥香は頭の中が真っ白になった。

(どうして今になって、そんなことを言うの……)

いや、今だからこそ、なのだろう。

確かに、アリスや、従妹たちの方が、将来の王妃としての資質はあるかもしれない。ただ笑って手を振るだけでいいという時ですら笑顔が引きつる遥香では、嫁がせるのに不安が残るだろう。――けれど。

(クロード王子は……、断らなかった)

真っ先に断られてもおかしくなかったのに、クロードは断らなかった。相手を変えろとは言わなかった。言われてもおかしくなかったのに、だ。

遥香はカラカラに乾いた口の中を潤すために紅茶を口に含んだ。ゆっくり飲み込んで、深呼吸して、口を開く。

「リリック兄様……。確かに、わたしでは頼りないかもしれないけど、もう決まったことだから、婚約式はこのまま進めるつもりよ」

「リリー……」

「心配してくれて、ありがとう。でも、こちらの都合で、また相手が変わりましたなんて、クロード王子に失礼すぎると思わない? それに、わたし、すっごく不安で怖いと思ってしまったけど、お父様から婚約式の話を聞かされたとき、嫌だとは思わなかったの。だから、がんばってみるつもりよ」

本当はまだまだ不安でどうしようもないけれど、誰かにかわってほしいとは思わなかったのは事実だった。

リリックは盛大にため息をつくと、少し寂しそうに笑った。

「わかったよ。でも、考えが変わったら教えて。僕はいつでも君の味方だからね。それだけは忘れないで、リリー」

「ええ。ありがとう、兄様」

遥香は心の中に残る不安に背を向けて、にっこりと微笑んだ。

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