夢の中でも愛してる

狭山ひびき

6

螺旋階段を下りて、舞踏会の会場である伯爵家の大広間に降り立った遥香は、予想外の活気に早くも足がすくんでしまった。

城で催される舞踏会は、招待する貴族を選別してあるので、活気があるとはいえ、どちらかといえば静かで落ち着いていることの方が多い。年齢層も高めになりがちだ。

だが、スチュアート主催の伯爵家の仮面舞踏会は、お互いの顔が見えないためなのか、とても賑やかで華やかで、人も多ければ年配の人はほぼ見当たらず、年齢層も低い。

「回数を重ねるごとに人が増えるんだよね」

遥香の隣で、仮面で顔を隠したスチュアートが肩をすくめて見せた。

「いいことじゃないの」

コレットが言えば、スチュアートが小さく首を振る。

「多すぎると管理がしにくくなるんだ。少し考えないと、そのうち父上から苦情が来そうだな」

「……伯爵なら、前回奥様に黙って、この会場で若い女性とダンスしていたわよ」

「え!?」

スチュアートがびっくりしたような声を出した。気がついていなかったらしい。

「気を付けるのは、伯爵の苦情じゃなくて、伯爵夫人の苦情かもしれないわね」

くすくす笑いながらコレットが言えば、スチュアートが困ったように頬をかいた。

「まいったな。父上ってば何を考えているんだか……」

「仮面をつけていても、あの年じゃすぐにばれちゃうわよ。ちなみにジャケットに家紋がついたものを選ぶのはやめておいた方がいいって伯爵に伝えて差し上げて」

「君も意地悪だな……、気づいたらすぐに教えてくれればよかったのに」

「あらだって、みんな気がついていたもの。あなたが気づいていなかった方が驚きよ」

こそこそとささやきあう二人を見て、遥香はそっと後ろに下がった。いい雰囲気だから邪魔をしない方がいいと思ったのだ。

(とりあえず、隅に行きましょう)

舞踏会の壁際は、遥香の定位置である。

壁際でひっそりとしていれば目立たないし、誰の邪魔にもならない。

城での舞踏会ではいつもそうだった。壁際に立つ遥香に声をかけてダンスに誘う男性はほとんどいなかったし、彼女も進んでダンスの輪に加わることはほぼなかった。

今日も、おとなしくしてれば誰にも声はかけられないだろう。

そう思って物静かに会場を見つめていたのだが、遥香の思惑は外れた。

「こんにちは、お嬢さん」

お嬢さん!?

話しかけられた遥香はびっくりして顔を上げた。お嬢さんなんて呼ばれたことがなかったからだ。そして仮面をつけているから王女だとばれていないのだと気がついて、小さく安堵の息を吐きだす。

見上げれば、シルバーグレーの髪に同じ色の仮面を身に着けた、背の高い男性が立っていた。

「お一人ですか? よかったら一曲いかがです?」

まさか誘われると思っていなかった遥香は慌てた。姉の姿を探して視線を彷徨わせれば、スチュアートとダンスをしていた彼女が気づいて、ピースサインを送ってきた。頑張れということらしい。

遥香はおどおどしながら男性の手のひらに手を重ねた。

「はい、よろしくお願いします」

正直言って、ダンス教師以外の男性と踊るのは久しぶりだった。舞踏会ではいつも壁にいて、一曲も踊らずに終わることも珍しくなかったからだ。

遥香は緊張しながら男性のリードに合わせてステップを踏んだ。婚約式の時にクロードに恥をかかせないため、ダンス練習は念入りに行ってきたため、スムーズに足を動かすことができる。

くるくるとターンしながら軽やかに踊っていると、男性が遥香の腰を引き寄せて耳元に口を寄せた。

「この後、庭にでも出ませんか?」

遥香はびっくりした。同時に、ささやかれた耳元から背中にかけて、ぞわぞわとした言いようのない不快感が広がっていくのを感じる。

だが、誘われることのない遥香はうまい断り方も知らず、どうしようと困り果てた。そのとき――

「失礼。曲が終わったようですが、彼女をお借りしても?」

低めだが耳に心地よい声がして、次の瞬間、遥香の体はシルバーグレーの髪の男性の腕から、違う腕の中へと引き込まれていた。

「え?」

顔を上げてまず飛び込んできたのは、朝日のように鮮やかな金髪。

黒と金の仮面をつけた、背の高い男性だった。力強い腕とふわっと香ったシトラス系の香水の香りに、遥香はくらりとした眩暈を覚えると同時に、この香りをどこかで嗅いだことがあると、不思議な既視感に襲われた。

だが、結局思い出すことはできず、おろおろしながら金髪の男性とシルバーグレーの男性を見比べる。

勝敗はすぐについたようだ。

シルバーグレーの髪の男性はすぐにその場を立ち去り、金髪の男性の腕の中に抱き込まれたまま、遥香は困ったように眉を下げた。

よくわからないことになったが、どうすればいいのだろう。

すると、金髪の男性は抱擁をとき、遥香の耳元でささやいた。

「困っていたようなので。出過ぎた真似でしたか?」

遥香は首を振った。断り方がわからずに、困っていたのは本当だ。

彼は遥香に向けてそっと手を差し出した。

「せっかくなので、よければ一曲いかがですか?」

「あ、はい……」

遥香が彼の手を取ると当時に、彼は流れるような動作でダンスの輪に加わった。

彼とのダンスは、とても踊りやすかった。

遥香が踊りやすいように導いてくれるのか、無理せずにステップが踏める。

「お上手ですね」

優しい声でささやかれれば、遥香はドキリとして顔を上げた。

「先ほども見ていましたが、妖精のようでとても可愛らしかったですよ。つい、見ているだけで我慢ができなくなってしまいましたが」

小さく笑う彼に、遥香もつられて微笑んだ。

なぜだろう、心臓がどきどきする。

穏やかな声、安心できるリード、紳士的な態度。時折鼻先をかすめる香水の香りに、のぼせてしまいそうだった。

気がつけば遥香はそのまま、彼と三曲も続けてダンスを踊っていた。

さすがに踊り疲れると、彼に手を引かれて大広間の隅に移動する。アルコール度数の低い飲み物を選んで手渡してくれる優しさに、遥香の心臓はまたしてもドキリと音を立てた。

優しい。

嬉しい。

どうしてだろう、頭がぼーっとする。

「仮面の紐がほどけかけていますよ」

遥香の仮面の紐の結び目が緩んでいることに気がついた彼が、そっと手を伸ばしてくる。

「失礼」

彼は遥香をふわりと抱きしめるような体勢で仮面の紐を結びなおしてくれる。ダンスの時も近かったのに、改めて彼の体温を近くに感じて、遥香の顔は真っ赤になった。

(心臓、変……)

どきどきする。

心臓だけではない。顔も熱ければ、息も苦しい。

手のひらに汗をかいて、遥香はこっそりドレスでぬぐった。

「これでいい」

彼は最後に遥香の仮面の位置を直すと、口元を弧の形に持ち上げて笑った。

「あ、ありがとう、ございます……」

遥香はやっとのことでお礼を言うと、カクテルの入ったグラスに口をつけた。

甘い味が口いっぱいに広がって、ほどんとアルコールが入っていないカクテルなのに、酔ったようにくらくらしてくる。

(……どうしよう)

遥香も馬鹿ではなかった。

自分自身が彼にときめいてしまっていることを自覚して、心臓の上をおさえながら、鳴りやまない鼓動を落ち着けるために深呼吸を繰り返す。

どこの誰ともわからない相手にときめいても仕方がない。

ましてや、自分には婚約者がいるのだ。

遥香はクロードの姿を思い出して、そこで冷水をかけられたように血の気が引いていくのを感じた。

(そうよ……、わたしは婚約しているんだもの)

これ以上、目の前の彼のそばにいるのは危険だった。

優しくされてときめいて、うっかり好きになってしまったら大変なのだ。

遥香はカクテルグラスを給仕に渡すと、彼に向かってドレスの裾を持ってお辞儀をした。

「今日はありがとうございました。そろそろ、家に帰らなくてはいけない時間ですので」

突然よそよそしくなった遥香に、彼は慌てたようにワイングラスをおいた。

「まだ早いでしょう?」

「いえ……、門限がありますので」

嘘だった。門限なんてない。もちろん朝帰りなどしたら怒られるだろうが、遅くなることは伝えてあるので、仮面舞踏会がお開きになるまで居座っても、遅すぎるということはなかった。

「門限……」

彼は口の中でつぶやいて、何やら考えるような仕草をしたが、遥香はもう一度お辞儀をするとくるりと踵を返した。

「あ、待って」

彼に手首がつかまれる。

つかまれた手首がやけどをしたみたいに熱く感じて、遥香は困惑して肩越しに振り返った。

「もう少しだけ話がしたいんですが、わずかな時間もないほどお急ぎですか?」

「それは……」

本音を言えば、遥香も彼と話がしたかった。

彼と話すのはドキドキするけれど心地よく、幸せな気持ちになる。

心の中で駄目だと思いながら、その誘惑には抗いがたく、遥香が「少しなら」と頷きかけたその時だった。

「だめだよ」

近くで声がして振り返れば、シンプルな仮面をかぶった、淡い茶色の髪の男性が立っていた。

彼は遥香の耳元で小さく告げる。

「僕だ、リリックだよ。リリー」

「え?」

遥香は目を丸くした。

どうして正体がわかったのだろう。そして、どうしてリリックがここにいるのか。混乱する遥香の肩を抱きよせ、リリックは金髪の彼に言った。

「申し訳ありませんが、彼女はもう帰らないといけない時間ですので、失礼しますよ」

「あ……」

リリックに手を引かれながら、遥香は金髪の彼を何度も振り返った。

彼は口元に笑みをたたえながら、遥香に向けて手を振ってくれる。

それだけで怒っていないよと言ってくれているようで、ホッとしながらも、話ができなかったことを残念に思いながら、遥香はリリックに引きずられるようにして会場を後にしたのだった。

あとに残された彼が、「リリー」と切なそうにつぶやいたことも知らずに――

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