ずっと一緒だよ…~私と猫の最後の日
ずっと一緒だよ…~私と猫の最後の日
どうせ助からないのだから、私は避難しない。
そう決めていた。
20XX年のある日、
関東地方を、首都直下型地震が襲った。
運が悪いことに、この数年前から世界中に新型のウイルスが大流行していた。
かかれば助からない。
症状が完全に消えても、ウイルスが体内から消えることはないため、いつか必ず再発して感染者を死に追いやる。
治療法は皆無である。
こんな恐ろしいウイルスなのに、飛沫感染や接触感染で容易に感染するため、人々は外出することすらできなくなっていた。
あらゆる産業や芸術、スポーツが「自粛」を余儀なくされ、それらは世界から完全に死に絶えようとしていた。
新型ウイルスは、人命だけでなく、世界の文化や芸術まで奪い去っていったのだ。
*
そんなときに、2011年の東日本大震災をはるかに上回る規模の大震災は起こった。
私は関東のK県で、母と、20歳近い老猫と暮らしていた。
夫は東京都に暮らしていたが、東京は数年に渡って新型ウイルスの感染爆発が止まらず、もはや「ウイルス感染危険都市」として近付くことすら禁止されていた。
私は夫と暮らすことを諦め、隣県の実家へ戻ってきていたが、住民票が東京都にあったことから、近隣住民からの差別を受けることも少なくなかった。
そのため私は実家へ戻ってから、ほぼ一切外出をせずに引きこもっていた。
*
震度7を超える大きな地震の揺れは、関東のほとんどの民家を倒壊させた。
私の実家は耐震構造のしっかりしたマンションの2階だったため、倒壊だけは免れた。
しかし、家の中はもう原型を留めないほど滅茶苦茶。
テーブルの脚は4本のうち2本が折れて傾き、こぼれた猫の餌が部屋中に飛び散っていた。
「避難所へ行こう!」
母が非常用持ち出しバッグを手に取りながら言った。
しかし、私は躊躇した。
「猫が…猫がいないの!」
猫は、脚が折れて崩れかけたテーブルの奥にうずくまり、震えていた。
よほど怖かったらしく、目から涙をボロボロと流していた。
「ベンちゃん、おいで!」
私が手を差し伸べると、老猫はおそるおそる私の方へ向かってきた。
そうしている間にも、余震は容赦なく襲ってくる。
最初の大きな揺れが「本震」だったとしても、はたしてどちらが本震でどちらが余震なのか分からないほどの揺れが、数十分おきに襲ってきた。
私の家の窓ガラスは目の前で砕け散り、部屋の壁にも、音をたててひび割れができていった。
その時、割れた窓の外から、誰かの声がした。
「火事だー!火が出たぞー!」
恐れていた、地震による火災までもが起こったらしかった。
「さあ、みんなで一緒に逃げましょう!」
母が、猫を抱き抱えたままの私の腕を引っ張った。
しかし、私はそれを拒否した。
「お母さん、私は、避難所へは行かない。」
「…どうして!?」
顔色を変えた母に、私は続けた。
「避難所へは、猫を連れては行けないよ。
それに私は、結婚前に働いていた近所のスーパーで、近所の客に目をつけられ、死ぬほどいじめられていたでしょ。
辞めてからも、たまにその店へ買い物に行ってその人たちに会うと、大量のゴミを浴びせられたり蹴られたりしてきた。
新型ウイルス流行の初期には、私が物を買おうとしてレジに並んでいると、彼らに品物を強奪されたりもした」
母は黙って聞いていた。
娘がスーパーで働いていてどれほど恐ろしい嫌がらせを受けていたかを、母がいちばんよく知っていたからだった。
「あの人たちと同じ避難所へ行ったら、どんな目にあわされるか分からない。
ましてや私は、猫を連れている。
この子まで殺されるかもしれない。
だったら私は、この家に残って、ここで死ぬよ…」
ドーン!!
玄関のドアを蹴破る音がした。
「まだ人がいたぞー!」
町内会の人とレスキュー隊員が、まるで母をさらうかのように救出していった。
町内会のおじさんは、私にも声をかけた。
「さあ、あなたも猫はここに置いて、早く避難所へ!!」
「…ぃゃ…!いや!いやよ!」
私は狂ったように泣き叫んだ。
「猫を置いていってこのまま死なせるなんて、絶対にいや!」
町内会のおじさんは、鬼のような形相で言い返してきた。
「あんたね、今は人命優先なのが分からないのか!?
猫はあくまでも『ペット』なんだよ!?
今はペットの命より、人間の命が優先なの分からないのか!?」
「分からないわよ!!!」
私は泣き続けていた。
「人間の命と動物の命に、どっちが大切とかありますか!?
命は全部同じように尊いのが、あなたには分からないの!?」
既に炎が家の中にまで燃え広がろうとしていたが、私は続けた。
「あなたのような命に上下をつけるような人のためにこの子を助けられないなら、私もここで死にます!
それに、あなたは私がスーパーで働いていた頃、私をレジの前で土下座させて頭を踏みつけた上に、私を外へ引きずり出して罵倒しながら殴ったり蹴ったりした!
あなたなんかと一緒に避難所へ行くくらいなら、死んだ方がましだ!!」
その時、炎に包まれた柱が1本、私とおじさんの間に倒れてきた。
「逃げないともうダメだー!」
外から聞こえた怒鳴り声に、おじさんはもはや私を助けることを諦め、転がるように外へ逃げていった。
「ベンちゃん…」
炎に包まれながら、私は年老いた老猫に声をかけた。
「…いい子だね。
初めて会った時もかわいかったけど、今はもっとかわいくていい子だね。
お前がいたから、私は今日まで頑張って来られたんだ。
ありがとう…」
猫は安心したのか、私の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
初めて私が子猫の彼を抱っこした時も、こうやって喉を鳴らして、幸せそうな表情を浮かべていたっけ…。
その時の温かい気持ちを、私は今もはっきりと覚えている。
私の服にも髪の毛にも炎が燃え移り、煙でだんだん呼吸ができなくなってきた。
それでも、私はそこを動かなかった。
「最後の数年間は、この家の中だけが私たちの全世界だったね。
でも、最後まで一緒にいられて、嬉しかったよ。
毎日が楽しかった。
幸せだったよ…」
猫も呼吸ができなくて苦しかったはず。
それでも、目を開けて私を見つめ返しててくれた。
まるで
「ボクもだよ」
と言ってくれているかのように。
ふと顔を上げると、外出自粛となった最後の数年間、毎日猫と一緒に弾いて遊んだピアノが燃えているのが見えた。
「ベンちゃん…また一緒に、ピアノ弾こうか…」
私は猫を抱き抱えたまま、ヨロヨロとピアノに近付き、椅子に腰かけた。
…その瞬間、意識が遠のいた…。
*
愛猫が大好きだった、モーツァルトの『クラリネット協奏曲』が、遠くから聴こえるような気がした。
*
20XX年。
私と20歳の老猫は、首都直下型地震後の火災により、死んだ。
友達が1人もいなかった私にとって、たった1人の友達は、老猫ベンちゃんだけだった。
私の母と、母を救出しに来た町内会のおじさんも、その後避難所を襲った大津波に飲み込まれ、死んだらしい。
避難所となっていた小学校は、海抜が1メートルもない。
近所の川を大津波が逆流してきたら、助かるわけはなかった。
だから私はいつも、母に言っていたんだ。
「お母さん、あの小学校へ避難してはダメだよ!
海抜が低いから危険だよ!避難するなら山の上の教会かお寺に逃げて!」
…母は、バカな近所の人に殺されたようなものだ。
私と猫は、これからもずっと一緒。
もうここには、嫌いな奴は誰もいないし、暴力や暴言を浴びせてくる人もいない。
「好きなことで食っていけない」
なんて悩むことも、もう2度とない。
大好きなたった1人の友達との、温かい毎日が続いていくだけだ。
そう決めていた。
20XX年のある日、
関東地方を、首都直下型地震が襲った。
運が悪いことに、この数年前から世界中に新型のウイルスが大流行していた。
かかれば助からない。
症状が完全に消えても、ウイルスが体内から消えることはないため、いつか必ず再発して感染者を死に追いやる。
治療法は皆無である。
こんな恐ろしいウイルスなのに、飛沫感染や接触感染で容易に感染するため、人々は外出することすらできなくなっていた。
あらゆる産業や芸術、スポーツが「自粛」を余儀なくされ、それらは世界から完全に死に絶えようとしていた。
新型ウイルスは、人命だけでなく、世界の文化や芸術まで奪い去っていったのだ。
*
そんなときに、2011年の東日本大震災をはるかに上回る規模の大震災は起こった。
私は関東のK県で、母と、20歳近い老猫と暮らしていた。
夫は東京都に暮らしていたが、東京は数年に渡って新型ウイルスの感染爆発が止まらず、もはや「ウイルス感染危険都市」として近付くことすら禁止されていた。
私は夫と暮らすことを諦め、隣県の実家へ戻ってきていたが、住民票が東京都にあったことから、近隣住民からの差別を受けることも少なくなかった。
そのため私は実家へ戻ってから、ほぼ一切外出をせずに引きこもっていた。
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震度7を超える大きな地震の揺れは、関東のほとんどの民家を倒壊させた。
私の実家は耐震構造のしっかりしたマンションの2階だったため、倒壊だけは免れた。
しかし、家の中はもう原型を留めないほど滅茶苦茶。
テーブルの脚は4本のうち2本が折れて傾き、こぼれた猫の餌が部屋中に飛び散っていた。
「避難所へ行こう!」
母が非常用持ち出しバッグを手に取りながら言った。
しかし、私は躊躇した。
「猫が…猫がいないの!」
猫は、脚が折れて崩れかけたテーブルの奥にうずくまり、震えていた。
よほど怖かったらしく、目から涙をボロボロと流していた。
「ベンちゃん、おいで!」
私が手を差し伸べると、老猫はおそるおそる私の方へ向かってきた。
そうしている間にも、余震は容赦なく襲ってくる。
最初の大きな揺れが「本震」だったとしても、はたしてどちらが本震でどちらが余震なのか分からないほどの揺れが、数十分おきに襲ってきた。
私の家の窓ガラスは目の前で砕け散り、部屋の壁にも、音をたててひび割れができていった。
その時、割れた窓の外から、誰かの声がした。
「火事だー!火が出たぞー!」
恐れていた、地震による火災までもが起こったらしかった。
「さあ、みんなで一緒に逃げましょう!」
母が、猫を抱き抱えたままの私の腕を引っ張った。
しかし、私はそれを拒否した。
「お母さん、私は、避難所へは行かない。」
「…どうして!?」
顔色を変えた母に、私は続けた。
「避難所へは、猫を連れては行けないよ。
それに私は、結婚前に働いていた近所のスーパーで、近所の客に目をつけられ、死ぬほどいじめられていたでしょ。
辞めてからも、たまにその店へ買い物に行ってその人たちに会うと、大量のゴミを浴びせられたり蹴られたりしてきた。
新型ウイルス流行の初期には、私が物を買おうとしてレジに並んでいると、彼らに品物を強奪されたりもした」
母は黙って聞いていた。
娘がスーパーで働いていてどれほど恐ろしい嫌がらせを受けていたかを、母がいちばんよく知っていたからだった。
「あの人たちと同じ避難所へ行ったら、どんな目にあわされるか分からない。
ましてや私は、猫を連れている。
この子まで殺されるかもしれない。
だったら私は、この家に残って、ここで死ぬよ…」
ドーン!!
玄関のドアを蹴破る音がした。
「まだ人がいたぞー!」
町内会の人とレスキュー隊員が、まるで母をさらうかのように救出していった。
町内会のおじさんは、私にも声をかけた。
「さあ、あなたも猫はここに置いて、早く避難所へ!!」
「…ぃゃ…!いや!いやよ!」
私は狂ったように泣き叫んだ。
「猫を置いていってこのまま死なせるなんて、絶対にいや!」
町内会のおじさんは、鬼のような形相で言い返してきた。
「あんたね、今は人命優先なのが分からないのか!?
猫はあくまでも『ペット』なんだよ!?
今はペットの命より、人間の命が優先なの分からないのか!?」
「分からないわよ!!!」
私は泣き続けていた。
「人間の命と動物の命に、どっちが大切とかありますか!?
命は全部同じように尊いのが、あなたには分からないの!?」
既に炎が家の中にまで燃え広がろうとしていたが、私は続けた。
「あなたのような命に上下をつけるような人のためにこの子を助けられないなら、私もここで死にます!
それに、あなたは私がスーパーで働いていた頃、私をレジの前で土下座させて頭を踏みつけた上に、私を外へ引きずり出して罵倒しながら殴ったり蹴ったりした!
あなたなんかと一緒に避難所へ行くくらいなら、死んだ方がましだ!!」
その時、炎に包まれた柱が1本、私とおじさんの間に倒れてきた。
「逃げないともうダメだー!」
外から聞こえた怒鳴り声に、おじさんはもはや私を助けることを諦め、転がるように外へ逃げていった。
「ベンちゃん…」
炎に包まれながら、私は年老いた老猫に声をかけた。
「…いい子だね。
初めて会った時もかわいかったけど、今はもっとかわいくていい子だね。
お前がいたから、私は今日まで頑張って来られたんだ。
ありがとう…」
猫は安心したのか、私の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
初めて私が子猫の彼を抱っこした時も、こうやって喉を鳴らして、幸せそうな表情を浮かべていたっけ…。
その時の温かい気持ちを、私は今もはっきりと覚えている。
私の服にも髪の毛にも炎が燃え移り、煙でだんだん呼吸ができなくなってきた。
それでも、私はそこを動かなかった。
「最後の数年間は、この家の中だけが私たちの全世界だったね。
でも、最後まで一緒にいられて、嬉しかったよ。
毎日が楽しかった。
幸せだったよ…」
猫も呼吸ができなくて苦しかったはず。
それでも、目を開けて私を見つめ返しててくれた。
まるで
「ボクもだよ」
と言ってくれているかのように。
ふと顔を上げると、外出自粛となった最後の数年間、毎日猫と一緒に弾いて遊んだピアノが燃えているのが見えた。
「ベンちゃん…また一緒に、ピアノ弾こうか…」
私は猫を抱き抱えたまま、ヨロヨロとピアノに近付き、椅子に腰かけた。
…その瞬間、意識が遠のいた…。
*
愛猫が大好きだった、モーツァルトの『クラリネット協奏曲』が、遠くから聴こえるような気がした。
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20XX年。
私と20歳の老猫は、首都直下型地震後の火災により、死んだ。
友達が1人もいなかった私にとって、たった1人の友達は、老猫ベンちゃんだけだった。
私の母と、母を救出しに来た町内会のおじさんも、その後避難所を襲った大津波に飲み込まれ、死んだらしい。
避難所となっていた小学校は、海抜が1メートルもない。
近所の川を大津波が逆流してきたら、助かるわけはなかった。
だから私はいつも、母に言っていたんだ。
「お母さん、あの小学校へ避難してはダメだよ!
海抜が低いから危険だよ!避難するなら山の上の教会かお寺に逃げて!」
…母は、バカな近所の人に殺されたようなものだ。
私と猫は、これからもずっと一緒。
もうここには、嫌いな奴は誰もいないし、暴力や暴言を浴びせてくる人もいない。
「好きなことで食っていけない」
なんて悩むことも、もう2度とない。
大好きなたった1人の友達との、温かい毎日が続いていくだけだ。
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