秘密のカンファレンスー冷徹俺様ドクターには加減が分からないー

悠里ゆり

5.急激な温度差に風邪ひきそうです

 目が覚めた。全身に気怠さが残っている身体を無理やり起こして身辺を確認する。仮眠をするためだけに置かれたベッドの上に私は眠っていた。私以外は誰もいない。それが良かったと思う反面、寂しくも感じた。
 薄い布団の上には久遠先生の白衣が私に掛けられていた。そこから降りて、自分の服を探す。無造作に投げ捨てられていた下着やら白衣やらを探すのには苦労したが何とか手に取り、身に着ける。今日は休日なので白衣を着る必要はないが、今手元にあるのはこれしかないのだから仕方がない。鏡がないので自分の容姿を確認するすべはないが、できる限り綺麗にした。
 ふとベッドに敷かれたシーツがぐしゃぐしゃになっているのが目に入った。それと同時に股の鈍痛に気がついた。それらが昨日の情事を思い起こさせて、何ともいたたまれない気持ちになった。ついに私はしてしまったのだ。それも、相手があの久遠蒼先生だ。つい二か月ほど前に『仮の恋人』を演じて、その後、別れた相手としてしまった。それが私の初めてだったというのだから、自分の事とは思えずに笑えてきた。同時に想っていた相手と身体を重ねることができてもこの先、先生とは何もないという事実に泣けてきた。何とも女々しい感情だ。こんな感情は私が乙ゲーに興じている時だけでいい。現実で起こってしまえば私のキャパシティーを超えてしまう。どう対処したらいいのか分からない。
 そんなことを考えていると、ぐうっと自分の腹が鳴った。部屋に掛けられていた時計を見れば朝の十時を回っていた。今日が休みで本当に良かった。出勤だったらとっくに遅刻だ。
 私が寝ていたこの部屋は多分、医師用の仮眠室なのだろう。看護師が、ましてや私のような新人がここにいつまでもいれば怪しまれてしまう。廊下への扉を他の人にバレないようゆっくりと開けていく。幸い、廊下には誰もいなかった。そのまま更衣室へと向かおうとした。
「薫…?」
「せ、先生…」
 誰にも気づかれないように出る予定はすぐに崩れ去った。まさかその当事者、久遠蒼先生に出会うとは思わなかった。どんな顔をして会えばいいのか分からない。
「体は大丈夫か?」
「え゛っ!はい、だ、大丈夫です…!」
「昨日は大分無理をさせてしまったからな…まさかお前が初めてとは思わ」
「ちょ、ちょっとそれ以上はやめてくださいっ!!」
 顔から火が出そうなほど恥ずかしいことを平然と言ってのける先生がすごい。先生はそんな風に恥ずかしがっているのを疑問に思うように私の顔を覗き込んできた。やめてくれ、恥ずかしさで死んでしまう。
「俺がしたことは許されない行為なのだろう。俺はその責任を取りたい。…いや責任をとって、お前を俺のものにしたいと考えている。…ずるいと思うか。」
 ぐいっと体を引き寄せられる。こんなところを誰かにみられたらどうしてくれるんだという思考よりも、久遠先生にこんなに近づいているという事実に胸が高鳴る。顔が近い。緊張で心臓が
どうにかなってしまいそうだ。
「『仮』という形で始まったから信じられないと思うかもしれない。俺は本気でお前を愛している。」
 抱きしめられて、先生の香りがふわりと香った。先生の低い声が囁くように耳に響く。いまだ夢を見ているような心地よさと、高鳴る胸に現実かどうかが怪しい。
「か、勘違いです…」
 自分のものとも思えないか細い声で答える。精一杯の声は震えていた。
「私が女の子の中で一番近い存在だったから、先生は勘違いをされてるんです…私も、その、初めてでしたが、そんなに気にしていないので、」
「お前は好きでもない奴と寝れるのか。」
「こうなってしまったものに文句はありません…仕方のないことです。」
「本当か。」
「……本当、です。」
 嘘が次から次へと口からあふれ出る。気にしていないなんてよく言える。あんなに初めてを大切にしておいて、それを先生に取られてそれを何とも思わないほど私は冷徹な人間ではない。私が何とも思っていない相手とするなんて、そんなことはありえない。それはゲームの中だけの話だ。
「信じられないか。」
 私を抱きしめる力がより一層強まる。息に詰まるほど苦しくなる。先ほどの心地よい声とは裏腹に低い声が鼓膜を震わせた。先ほどまでのときめきはどこへやら、一気に恐怖で支配される。
「俺がお前を好きだという気持ちが信じられないか。」
「し、ししし、信じるとかそういう問題では」
「薫が信じられないのは俺の責任でもある。…ならば、信じられるように俺が愛せばいいんだな。」
「何を言って…んぐっ、」
 無理矢理に唇を奪われる。突然のことに気怠い身体は反応に遅れた。口腔をとろとろと熱く溶かすようなキスに翻弄される。息がだんだん苦しくなってきて、先生の胸をどんどんと叩くが全く引かない。それどころか浅かった口づけが深くなる。腰に回された手がさらに強まる。逃れられない。
「んっ…ぷは、な、なんてことをっ…!こんなところで、一体何考えて」
「静かにしろ。そう騒ぎ立てると人が来る。」
「ぐっ…で、ですがここでこういった行為をするのは、」
「これは俺なりの決意表明だ。お前が俺のことを信じるまで、俺は精一杯お前を愛してやろう。」
「信じるって、私は…」
「ふむ…最初に言っておこう。俺は勝てない戦はしない主義だ。」
「勝てない戦…?」
「勝算のない戦いなんてものは時間の無駄にすぎない。…俺はお前が俺のことを好きだと確信してるからこそ、こんなことを言っているんだ。」
「私が先生のことを好きだっていう証拠はどこにあるんですか!?」
「俺にこうしておとなしく捕まっているところとか…だな。」
 「嫌だったら昨日のあの時から全力で拒否していただろう。」なんてすべてを見透かしたように言う先生は悪い笑みを浮かべていた。だがやはり拒否する気持ちにはなれなかった。私が二次元以外にこんな気持ちになるなんて思いもしなかった。
「本当は離したくないのだが、俺も仕事がある。お前は確か休みだったな。家に帰ってゆっくり休め。」
「なんで知ってるんですか!」
「俺はお前が思っている以上に狡くて良い性格をしているし、俺は好きなもののことなら何でも知っておきたいんだ。」
「…なんですか。それ。本当に私が好きみたいじゃないですか。」
「『みたい』じゃなくて、本当に好きなんだが。…あ、それと」
 耳元に先生の口元が近づいた。
「俺に愛されるからには、覚悟しとけよ。」
 白衣を着た悪魔はそう言うにやりと笑って、廊下を進んでいった。


 そんなことを病院のはずれでやり取りをしてから、私はやっとこさ自分の家に帰れた。今日が休みで本当に良かった。昨日からのいろいろな出来事でとてもじゃないが集中できない。こんなことで仕事をしたら間違いなく事故を起こすだろう。
 シャワーを浴びて、白衣を洗濯機の中に放り込む。適当に洗剤を入れてから回すと少し古めのそれは音をがたがたと鳴り響いた。家に帰ったらすぐにでPC画面を開いてお気に入りの乙ゲーにいそしむのに、今日はそんな気分になれなかった。まだ昨日の疲れが残っている気がする。適当なTシャツに着替えてベッドに飛び込んで目を閉じるが、眠気は一向にやってこない。それどころか昨日の情事を鮮明に思い出させるばかりで、どきどきが止まらない。先生のあの手、あの熱い眼差し、全てが思い起こされる。それが私の身体の熱を呼び起こして、眠らせてくれないのだ。
 仕方がないので頭の中のほとんどを占有している先生について考える。私の記憶違いでなければ、先生は私のことを好きだと言ってくれた。そしてそれを証明すると、私のことを愛すると言った。それを私が信じられるものかと聞かれれば、それは無理だという話だ。出会いがあの新人歓迎会でしかも先生の条件に合うような適当な女だから私を選んだと言ってのけたのだ。そんな先生が私のことが好きだなんてありえない。きっと勘違いをしている。
 私は先生のことをどう思っているのだろうか。そう思うと胸が熱くなった。流れとはいえ先生に抱かれてしまったのだから、先生だけでなく、私にも責任があると言えばある。本当に嫌だったなら裁判所にでも訴えるなどすればいい話だ。だがそれをしようとしない。しれは私が先生のことが好きで、先生にもそういう気持ちが少しでもあればと望んでいたからだ。
「だからって、先生の言葉は信じられないし…」
 一人で考え耽っていても堂々巡りだった。答えはどこにもない。
 しまった、まだ今日の分のログボをもらっていない。そんなことに今気づいた。すぐにスマホのロックを解除してアプリを起動させる。画面の向こうで二次元のイケメンたちが笑顔で出迎えてくれた。癒される。デイリーミッションを消化しておくか。怠さが残る身体だが、私のオタク魂は燃え尽きていなかった。推しの笑顔のためならデイリーミッションぐらい楽なものだ。
 そうサクサクといつもの作業をしていると着信が入る。いつもなら無視をして彼氏たち(二次元)といちゃつくのだが、そうもいかなかった。
「くくく久遠先生っ!?なんで!?どうしてっ!?」
 着信の相手が『久遠蒼』となっているのをみて思わずスマホを放り投げた。宙に浮いたスマホはそのまま布団の上に落ちて、大事には至らなかった。いやそんなことより、早く出なければ。
「はい!七瀬ですっ!!」
「俺だ。」
「せ、先生、どうして番号を知って…」
「昨日お前が寝ている間に登録しておいた。お前が指紋認証を使っていて助かった。」
 一つ間違えたら犯罪のようなことをさらりと言ってのける先生に開いた口がふさがらなかった。
 この男は自分の目的のためなら手段を択ばない男だった。そういう男だった。
「ど、どういったご用件で…」
「いや、用件といった程でも…ただ体調が心配でな。」
「体調?元気ですよ。先生こそ大丈夫ですか?」
「俺も元気だ。元気なら良いんだが、あまり無理はするなよ。何なら俺が看護部の方に連絡して休みを取らせるように」
「いえいえいえ!そこまでしていただかなくて結構です!」
「そうか…。」
 悲しそうな声が漏れる。先生どうしちゃったんだ。前までそんなキャラじゃなかっただろう。もっと自分勝手で、相手の気持ちを推し量ることを忘れたような人間だっただろう。急に何が起こったんだ。
「…お前、今日夜は空いてるか?…いや、昨日の今日だったな。無理は良くない。すまない聞かなかったことに」
「ですから私は元気ですっ!今日の夜ですよね!大丈夫です!空いてます!」
「本当か…!」
 先生の声がわずかに高くなった。機嫌が一瞬で良くなったのが伝わった。
「ではこれからお前の寮へ向かう。三十分後に着く。」
「寮の前はちょっと…」
「何故だ。」
「寮の前だと確実に噂になります!」
「噂になってはいけないのか?」
「いけません!私は新人看護師で、先生は神ノ院病院の天才外科医ですよ!?会っているのがばれたら私がなんて言われるか…」
「言いたい奴がいれば言わせておけ。そいつらは俺が全員処理しておく。」
 スマホ越しだが、先生が悪い笑みを浮かべたのが分かった。考え方は随分と変わってしまったが根本的な性格は変わっていないようで安心した。
「やめてください。…あ、寮の近くに少し大きめの公園がありますよね。そちらに行きます。」
「こんな寒い中お前を外においておけというのか。そんなことはできない。」
「寒いと言っても今日は暖かい方ですよ。二十度ぐらいあるし。大丈夫ですよ。」
「お前は本当に看護師か!?冷えが女性にどんな影響を及ぼすのかもう一度頭に叩きこめっ!冷えと言うのはだな…」
「ですから大丈夫ですっ!じゃあ待ってますから!!」
「あ、おい、待」
 半ば強引に電話を切った。なんだか性格がまるっきり変わってしまったようだ。以前の先生んの私への対応があまりにかけ離れすぎていて理解に苦しむ。これが彼なりの愛し方ということなのだろうか。
 寝っ転がっていた状態から起き上がって、適当に服を見繕う。以前先生に買ってもらった服が目に入ったがさすがに着る気にはなれなかった。というか、外に着ていくのにあの服は私には似合わない気がする。せっかく先生に会えるのだから少しはマシな格好をしていきたい。化粧だっていつもよりは真面目にやっていく。
 そんな風にしていると、約束の三十分はとっくに過ぎてしまっていた。たった二週間の恋人生活でわかったことだが、先生は遅刻に煩い。自分は遅刻する癖にだ。駆け足で寮の玄関を飛び出していく。六月らしい梅雨独特の寒さは心地よく感じた。
 先生の気まぐれかもしれない。またすぐに終わってしまう関係かもしれない。だが、少しでもこの関係が続くといい。叶う可能性の低い夢は捨てるのが一番の得策だとわかっているのに、願わずにはいられなかった。乙ゲーでそういった要素があるものもプレイしている影響があるからかもしれないが。
 公園に着くとあの目立つスポーツカーの側にすらっとした長身の先生が見えた。時間は十分を過ぎている。これは怒られる覚悟をしておいた方が良い。
「すみません!遅くなりましたっ!」
 私の声に気づくとすぐに先生が詰め寄ってくる。ああ、やはり怒られる。きつく目を閉じて怒声に備える。
 だが、怒声が鳴り響くことはなかった。それ以上に驚くべきことが起こった。
「あまりに遅いから心配した…もう少しして来なかったらお前の部屋に行こうかと思った。」
「へ…?怒らないんですか?」
「遅れたら心配するだろう。」
「いや、前までの先生なら『遅いっ!俺を待たせるなんていい度胸しているな!?』とか言って起こりそうなのに…。」
「…前までの俺と今の俺は違う。確かに、これが他の誰かならそう言っていただろう。だが俺はお前に惚れている。惚れた奴を大切にしたいと思うのは誰でも同じだろう。」
 『惚れている』と面と向かって言われてしまって顔に熱が集まるのを感じた。先生から目をそらしてこれが先生の本心であれば嬉しい。先生の優しさを受け取れるような期間はきっと短いのだからありがたく享受することにしよう。限りある時ならばなおさら大切にすべきだ。
「では、行くとしよう。」
「先生どちらへ?」
「お前の好きなところへ行こう。夕飯はまだだろう。なにか食べたいものはあるか?寿司か?鉄板焼きか?フレンチでもイタリアンでも構わない。料亭でもいいな。とりあえず銀座に向かうか。」
 銀座だと。そんなところに連れて行かれたら間違いなく財布が吹っ飛ぶ。看護師に無事なれたといっても、給料の方はまだまだだ。先生と一緒に食事をそこで楽しむどころではなくなる。
「待ってください!そんな高いところへは行けません!」
「全て俺が出す。」
「ですが…」
「俺が出すと言っているだろうがっ!!…あ、すまない。また怒鳴ってしまった。俺はどうにも自分の思い通りにならないと怒鳴ってしまうな。直さなければ。…何か食べたいものはないのか?」
 鋭い目が申し訳なさそうに垂れ下がる。いつものことだから何も謝る必要はないといのうに。やはり昨日から先生はおかしい。私のことを好きだとか、今の一連の行動とか。何も言わない私に先生の眉がどんどん下がっていくのが見えた。なにか提案しなければ、この情けない顔をした天才外科医がさらに情けなくなってしまう。
「じゃあ居酒屋!」
「居酒屋…?」
「駅前においしい居酒屋さんがあるんです!そこがいいです!」
 とっさに思い付いた場所を言ってみた。先生からすれば大衆居酒屋なんて入ることもない場所だろうが、私はあの空気が好きだったりする。変に高級感あふれる場所よりも、庶民的な場所の方が安心できるし、お財布にも優しい。
「そんなところでいいのか。金の心配ならいらない。俺が全部」
「私はあそこの居酒屋が好きなんです。そこがいいです。」
「…お前がそういうなら。」
 しぶしぶと言った顔で車を走らせる。私の顔をちらりと見て「高い方が喜ぶと思っていたが違うのか…」とつぶやいた。確かに普通の女の子ならそっちの方が喜ぶだろう。私としても、寿司や料亭に興味がないわけではないが、そういった空間に頬りこまれたら私が恐縮してしまう。
 駅前の駐車場に車を止めて、私の誘導で目的地へと歩き出す。先生の服装はいかにもシンプルなものだが、どこか品を感じさせるような様子であった。これが隠しきれない天才のオーラと言うやつなのかと感心した。
 居酒屋に着くとテーブル席に通された。私の目の前にに座る先生はなんというか異質だ。この場所に合わないというか、品が良すぎるというか、とにかく似合わない。
 そんなテーブルに店員は笑顔でメニューを渡してきてくれた。先生はそれを手に取り、難しそうな顔でメニュー表を睨みつけている。先生はやはりこういった庶民染みた場所になじみはないのだろうか。何となく由緒ある家柄であることは先生の振る舞い、先生のお母様の印象からわかった。幼いころより大切に育てられたのだろう。そう思うとこの場所を望んだことに罪悪感が湧いた。
「あのー…?やっぱり違うところにしますか?」
「ここが良いんだろう。問題ない。」
「いやでも先生なんかとても困ってそうですし…。」
「む、そうか?そういう訳ではないんだ。ただ俺はこういったところに入ったことがないので少し驚いていただけだ。」
「やっぱりそうだったんですね…とりあえず何か飲み物を頼みましょうか。」
「そうだな。俺はお前と同じものにしよう。」
「え、でも私生中とか頼みますよ?先生はこう、なんというかワインとかシャンパンとかそういったものの方が良いんじゃないですか?」
「確かにワインは好きだが、お前の好みを把握しておこうと思って。だが、車を運転するからノンアルコールの物にする。」
 先生が軽く手を上げて店員を呼び止める。それに気づいた店員が笑顔で駆け寄ってくる。
「生中を一つとノンアルビールを一つ。」
「はい!」
「それから…おい、何かあるか。」
「えっ、」
 他に頼むものを何も考えていなかったのか。私に二人の視線が注がれる。何も決めてないのだからそんな風に見られても何も言えない。こうなってしまったら仕方がない。私がいつも頼んでいる物を頼むことにする。
「えっ、と…じゃあホッケの開きと卵焼きと焼き鳥盛り合わせ…あ、全部たれで!それとアジのたたきをお願いします!」
「はいかしこまりましたー!」
 気持ちのいい返事で店員が下がっていく。全て私の好みで決めてしまったが先生の好みを聞いていた方が良かった。
「先生、勝手に決めてすみません。なにか苦手なものとかありますか?」
「苦手なものはない。それに俺がお前に決めて欲しかったから問題ない。お前の好みも知りたかったからな。」
「そうですか…なんかすみません。」
「いいんだ。」
 ふふと不敵に笑う先生はやはりあの久遠蒼先生なのだと実感するが、今の私への対応が違い過ぎて混乱が起きている。
 そんな風に思っていると私の頼んだものが運ばれてきた。それぞれの食事のいい匂いが私の空腹を刺激する。「いただきます」と言ってから卵焼きに箸を伸ばした。やはりここの卵焼きはおいしい。先生も私の動きを見て卵焼きに手を伸ばす。「こういったものは初めて食べるが、うまいな…」と感嘆の声を上げていて、自分のことではないのになんだか誇らしい気持ちになった。私も箸が進んでいく。空腹にホッケは至福だ。刺身もうまい。
「…俺は前にも言ったはずなんだが。」
 会話もなく食べていると先生が話しかけてきた。口に含んでいたものを飲み込んで返事をする。
「何をですか?」
「俺の名前のことだ。俺のことは名前で呼ぶようにと言ったはずなんだが。」
「それって今も継続だったんですか!?」
「当たり前だ。互いに名前で呼び合わない恋人がいるか。」
「わ、私は承諾したつもりはないんですが…」
「何…!?お、俺では駄目なのか!?」
 先生が身を乗り出して焦りだした。それにまた驚いた。こんな風に焦る先生は見たことない。というか柄ではない。
「落ち着いてください!どうしたんですか。らしくないですよ?」
「落ち着いていられるか!俺はお前に惚れていて、お前も俺のことを好きだと思って、それで行動したと思っていたのにそれが間違っていたというのか…?」
「ちょちょちょっ!待ってください!何もそこまで落ち込まなくても…」
 焦ったと思ったら今度は落ち込みだした。あんなに冷徹な先生が表情をころころと変えるとは思いもしなかった。それも私の言葉一つでだ。
「ちょ、あ、あの本当に久遠蒼先生ですよね?神ノ院病院の『若き心臓』、久遠蒼先生ですよね?」
「神ノ院病院、心外しんげの久遠蒼だ。それ以外に見えるか?」
「で、ですよね。ははは…。」
 乾いた笑いしかこぼれなかった。ここまでぶっ飛んだふとは初めてだ。乙ゲーにもこんなキャラはいない。現実世界でもあったことはない。
「それで…どうしたら俺を彼氏として、いや結婚相手として認めてくれるんだ。」
「け、けっこんあいて?ご、ご戯れを…」
「俺は本気だ。…あの時、お前があの男と一緒に歩いているのを見て酷く気分が悪くなった。これが嫉妬だと気づくのに時間はかからなかった。今ここでお前を手放すことをしたら、間違いなく俺は後悔する。だから、何としても…」
 先生の言葉は本気だ。少しだけ病みの気質もありそうな、そんな感じの先生にぞくりとした。私を射抜く目は自信に満ち溢れたものであって、それでいて揺らいでいる、とても不安定だ。
 手をそっと握られる。嫌悪感はない。最初からそんなものはない。最初から私は先生に惹かれているのだから、そんなことはありえない。
「……あの、」
「なんだ。」
「本気、ですか。」
「俺は本当の事しか言わない。」
「酔ってるから、とかじゃないですよね…?」
「ノンアルコールを頼んだのはお前だろう。そんなことあるわけない。」
「……。」
 すぅっと深呼吸をしてから、口を結ぶ。こんなことを言うのは人生初めての事なのだ。たとえ周りの環境が居酒屋だったとしても、これは私にとって決死の告白なのだ。
「…私も、そのせんせ…蒼先生のことが好きです。……ですから、ぜひ…その、お付き合いを…お願いします…。」
 顔から火が出るような恥ずかしさに思わずうつむいてしまう。先生も何も言わない。恥ずかしいが相手の反応がないというのも恥ずかしい。
 その瞬間、先生との距離がなかった。テーブルを挟んだ抱擁はがちゃりと皿の音を立てて不自然なものだったが、それ以上に今の状態が理解できなかった。
「せんせ、」
「……いや、嬉しいだろうと予想はしていたのだが、こんなに嬉しいとは思っていなかった。…ありがとう。」
 先生の抱きしめる力が強くなる。周りの目がどうとかそういうことは全く頭に入ってこない。今この状況を現実と受け止めるだけでも精一杯だ。耳元で言葉が紡がれる。
「俺は必ずお前を大切にする。誰にも渡さない。絶対に。」
「信じても、いいのでしょうか…」
「俺を誰だと思っているんだ?…俺は天才外科医、久遠蒼だ。」
 そう言ってにやりと笑った先生は、蒼さんは出会ったころの蒼さんとは違う、優しさを感じた。

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