秘密のカンファレンスー冷徹俺様ドクターには加減が分からないー

悠里ゆり

3.馬鹿と天才は

 この男は何を言っているのか。私はくらくらとする頭でもう一度目の前の男を見る。平然と言ってのけたこの男は一体何と言ったのか。私には理解できない。それは私が馬鹿であるせいなのか、相手の発想がぶっ飛びすぎているせいなのか、分からないがおそらく後者であるのではないかと思う。
「い、いいいい今なんとおっしゃいましたか!?」
「だから、お前と俺が一緒に住むと」
「なんで!?いやどうしてそうなる!?急展開過ぎますよっ!?」
「そうか?彼氏と彼女は付き合ったら同棲するというものと聞いたが…」
「それはもう年単位で付き合っていて、結婚を前提にしているカップルがすることです!!」
「では俺たちがやっても問題はない。」
「だから、『仮』で付き合ってる私たちが行うのはおかしいと言っているんです。」
 そこまで言ってもまだよくわからないといった反応をする先生に思わず呆れてしまう。確かに私には恋愛経験というものはない。だがこういったことに関してならゲームや漫画で知識を仕入れてきている。これがいかにおかしい現象か、それぐらいわかる。
「では、同棲はおかしいのか…。」
「そうです。お判りいただけましたか?でしたら私は帰りますので。先生もお帰りください。」
「…わかった。」
 ようやく返事をいただいて、ほっとする。このまま放っておくといつまでもここで待ってしまうような気がした。そんな先生は馬鹿なのか。医者であるのなら馬鹿ではないと思うが、いや馬鹿なのか。
 では失礼して、と言ってくるりと自分の城へと向かう。久遠先生の言動に振り回されては自分の時間ができない。仮の彼氏より二次元の彼氏だ。今すぐに癒されたい。いちゃつきたいしいちゃついてるのを眺めたい。
「…待て。」
 手首を掴まれ、振り返る。いつのまにか距離を詰められていたようで、すぐ目の前に先生の顔があった。いくら性格が悪いと思っていても、顔は良いので見つめられれば緊張する。そんな私が悔しく思う。
「まだ、何か?」
 緊張でどきどきとして、声が震えてしまうのが分かった。じっと見つめられるのは苦手、というより久遠先生に見つめられるのは苦手だ。何を考えているのか分からない。
「服を返しに来い。」
「え、あ、はい。今着てる奴ですよね。返します。一応洗ってお返しいたしますから明日とかでも」
「今返せ。」
「あ、洗わなくても良いというなら、今家に帰って着替えてきますから…」
「今すぐに返せ。」
「でも」
「返せないなら今すぐ俺の家に来い。」
「そんな横暴なっ」
「それに俺の部屋にはまだお前のドレスもあるんだぞ。取りに行かなくてもいいのか?」
「ぐっ…そ、それは先生が病院に持ってきて私に返していただければいいのでは」
「俺がそんなことすると思うか?いいから来いっ!!泊まれっ!!!」
「ぎゃあぁっ!!」
 無理やり引っ張られて転びそうになるが、そんなこと気にせずに先生はずんずんと車へと向かっていく。ああ、また彼氏たち(二次元)に会えない。本物の彼氏でもなければ二次元の彼氏にも会えない。その前に考えることがあった。このまま家に連れていかれれば服もまたそこで借りることになる。そしたらまたこの服を返すために先生の家に行く羽目になる。これでは無限ループになってしまう。
「わ、わかりました!!お伺いしますから!!せめて家に帰してくださいっ!」
「何故だ。」
「服を!!自分の服を持ってきますから!!」
「…2分だけ待っていてやる。」
「に、にふん…頑張ります…。」
 ゆっくりと手を離されて急いで寮の部屋に戻る。前にもこんなことがあったきがする。というか、一昨日の出来事ではないか。この病院に入ってからというもの久遠先生に振り回されっぱなしだ。
 とかなんとか久遠先生への愚痴を考えながらも泊まる準備をする。こんなところでも真面目さが出てしまう自分に嫌気がさす。やはり断ってしまえば良かったのだ。だがあんな風に怒鳴られては私のような女には断れない。断れるのは師長クラスの人間だろう。それかそれだけ肝が据わった人間であるかだ。
 引き出しの中から部屋着やら下着などを取り出す。見られることはないだろうができるだけきれいなものを選んだ。それをそのまま適当にカバンの中に詰め込んでいく。適当に詰め込んだとしても着るのは自分である。そう気にすることではない。
 着ている服も着替えてカバンに詰め込んで玄関を開けた。開けたその目の前にあのイケメンの顔があって変な声が出た。
「遅いっ!!もう2分過ぎているぞっ!」
「これでもめちゃくちゃ急いだんですっ!」
「俺が2分で来いといったら1分で来るのが常識だろう。俺を誰だと思ってるんだ。」
「久遠先生ですけども…ここは病院じゃないですし、久遠先生に合わせるのは無理があります!」
「お前それでも俺の彼女か?」
「『仮』ですっ!!」
「…もういい。行くぞ。」
 いろいろ言われながらもそのままあのスポーツカーに乗る。先ほどまでの私の言い合いもなかった。幼な涼しい顔でそれを走らせる。私は後部座席に座ろうとしたのだが「横に座れ」と言われたので素直に従うことにした。これ以上もめていても私の睡眠時間が削られるだけである。
 ハンドルを握る手が視界に入った。横顔をちらりと盗み見て、やはりかっこいいと思ってしまう。この顔に惑わされ、そしてこの性格ゆえに泣かされてきた女の子たちはさぞかし多いことだろう。そう思うと罪な人とも言える。いや、惑わされるのは顔の所為であるので久遠先生自身は悪くない…のだろうか。
 そんなことを思案しながら車に揺られていると一昨日も来たマンションが近づいてくるのが見えた。一昨日と変わらない展開に自分でも呆れてしまうが、それに飽きない久遠先生もどうかと思う。『若き心臓』はけして暇ではないはずだ。であればこんな『仮』の恋人に構ってないで休むべきだと思う。
 見覚えのあるマンションの駐車場に降りて一昨日来た道を通った。さっきまでいた寮と比べれば本当に別世界のようだ。部屋に通される。それまで先生は一切しゃべらなかった。気まずい。私が一方的に感じていることかもしれないが、息が詰まりそうだ。久遠先生がドアを開けて、部屋に通される。おずおずと仲へと進んでいく。相変わらず生活感を感じられない部屋だ。
 いけない。目的を忘れる所だった。先生は服を返してもらうために私を呼んだはずなのだ。そして私は昨日置いていったドレスを返してもらうために来たのだ。非常に言いづらい空気だが、相手は絶対にそんなことを言うような人には思えない。
「あ、あの…お洋服をお返ししますね。」
「そんなもの返さなくていい。」
「え゛!?だってそのために私を呼んだんですよねっ!?」
「はて、そんなこと言ったか?」
 面白そうにくつくつと笑う先生を見て絶句する。本当に良い性格をしている。ここまでの奴には初めて会った。いやあいつら・・・・に比べればまだマシな方かもしれない。
「ああ、でもドレスは返す。俺が持っていても仕方ない物だからな。」
「当り前ですっ!!ほんっと先生は…」
「俺が?」
「…なんでもないです。」
 ぎろりとした鋭い眼光で見られれば口から出かかっていた文句がどこかへ行った。情けないことだが私は睨まれたり、怒鳴られたりするのは苦手だ。それは久遠先生であろうとなかろうと関係がない。
「ところで、夕飯はすませたか?」
「いえまだです。」
「そうか。」
「はい。…あの、久遠先生は」
「俺もまだだ。お前はどうするんだ。」
「私は…どうしましょうか?」
「俺に聞くな。知るわけない。」
「で、では私ドレス取って帰りますね!」
「それでは俺がお前をここに読んだ意味がない。」
 呼んだ意味。私が服を返すのとドレスを返してもらうこと以外になにかあるのか。ない頭をひねっても呼んだ理由とやらが分からない。天才の考えることは私のような凡人には理解もできないのだろう。なんだか疲れてきた。
「はぁ…お前料理はできるか。」
「へ?」
「料理は作れるのかと聞いている。」
 唐突な問いかけに間抜けな声が出た。料理。大学時代にも一人暮らしとバイトである程度のものを作れるようになったが、それを誰かに振る舞ったことはない。自分が好きなものを好きなだけ作って好きなだけ食べてきたのだ。
「まぁ…自分で食べる程度ならできますが…」
「よし、では作れ。」
「え、」
「お前だけの分ではないぞ。俺の分も作れ。」
「私、振舞ったことないんですけど…」
「では今日振る舞えば良い。材料は冷蔵庫にあるのを適当に使え。俺は部屋に戻る。できたら俺を呼べ。」
 そう言って久遠先生は部屋に入ってしまった。今私はなんと言われたのか。もう一度考えてみる。確か料理を作れと言われた気がする。料理自体は作れる。だがあの久遠先生にお出しできるものなんかできるのだろうか。変なものを出した途端に怒鳴られてしまいそうだ。
 そこで自分のお腹が鳴った。もう考えていても仕方ない。料理を作れと言ったのは先生なのだ。であれば私の料理がまずくても文句はない。普通に料理をすればいいのだ。私もお腹が空いていることだし、適当に作ればいいのだ。そう気負う必要はない。そう思ってキッチンまで向かった。


 七瀬薫と部屋前で別れて自室に戻る。適当に本を取りソファに座った。ぱらぱらと中を読もうとしたがなかなか内容が入ってこない。その理由は考えなくても分かった。あの女のせいだ。俺は、天才心臓外科医である久遠蒼、『若き心臓』と称えられるほどにまで成長したが、なぜ自分があの女を自宅まで連れ込んだのか、わからなかった。
 あの新人歓迎会であの女を見て、「モテなさそうだな」と思って『仮の恋人』にしようとしたのは本当に偶然のことだった。だから俺はあの場からあの女を連れだして、自宅まで入れあげたのだ。
 本当は泊まってもらう予定なんてなかった。だが、帰すには抵抗があった。今までの自分ならありえない行動だ。家族以外の女を自室に入れて宿泊させるなんて、想像するだけで吐き気がこみ上げてくる。別段女が嫌いというわけではない。学生時代もそれなりの付き合いはしたし、医師となってからも女と付き合うことはあった。だがいつの日かすり寄ってくる女の薄っぺらさがどうしようもなく気持ち悪くなった。これは俺の気持ちの問題だと思う。
 だがあの時は違った。どうしてそう思ったのかと問われても、答えが出てこない。
 そして今日の行動も、自分が起こしたとはにわかに信じがたい。なぜ俺はあの女を無理にでも連れてきたのか、そしてなぜそれを楽しんでいるのか、わからなかった。ただあの朝に見た朝食を取っている彼女が、良かった。おそらくここに何らかの因果がある。
 食事をとっている彼女が良かったと思ったなら、俺が彼女の夕飯を食べている姿を見たいと思うのはおかしなことではない。はずだ。
 因果関係についてあれこれ考えているとスマホの通知音が鳴った。片手でそれを操作し、内容を確認する。差出人は変わらない。その変わらない差出人と内容に溜息を吐いた。だがこの煩わしい通知も彼女を使えば今回限りで終わらせることができる。適当に返信を送ってベッドへ投げた。
 すうっと息を吸い込むとなにやら良い香りがした。同じ階の住人が何か料理しているのだろうか。私も腹が減った。俺はあの女に作れと命令したが、俺は「作る」という返事を聞いていない。作られていない場合を考えた。今から外食するのは面倒だ。何か出前を取ろうか。そう思って先ほど投げたスマホを手に取ろうとした時、扉が叩かれた。
「せ、先生…一応できました。その、お料理が…」
 どこか怯えたような、気まずそうな表情で俺が呼ばれた。俺は迷わず「今行く。」と返事をした。


「私の一番の得意料理!…とまでは言えませんが、冷蔵庫の中にあったもので作ってみました。」
「ふむ…ロールキャベツか。」
「はい。ちょうどいい大きさのキャベツがありましたのでそれで…」
 先生がまじまじと料理を見つめる。どこか不備がないか念入りにチェックはしたがやはり緊張する。下手したら卒論発表会より緊張しているかもしれない。
「お口に合わないようであれば下げますので!」
「まだ食べていないだろう。…いただきます。」
 丁寧な手つきで私の作ったロールキャベツに箸が伸ばされた。まずいと言われても落ち込みはしないだろうが、やはり作った手前、おいしいと言ってもらいたい。まさか人生で初めて手料理を食べてもらう相手があの久遠先生になるとは思ってもみなかったが、これも何かの巡り合わせと考えれば仕方のないことだと思える。というか、思いたい。
「……。」
「どうでしょうか…?」
「…少し薄い気がする。」
「そ、そうですか…すみません。あ、あの全然食べなくても大丈夫ですから!無理して食べなくても」
「だが、悪くはない。…お前の料理も、こうして誰かと食事をするのも。」
 そう先生がふわりと笑った。思わずどきりとした。あの悪そうな笑みではない。心の底から笑っているような、そんな笑みだった。それを先生の顔でやるのは反則だ。
(私には彼氏がいる私には彼氏がいる…向こうから語り掛けてくることはなくても私には彼氏がいる…っ!)
 呪文のように自分に言い聞かせる。こんなものでほだされてはいけない。この人は仮の恋人で、確かに天才心臓外科医だけど自分勝手で、笑顔一つでこんな気持ちになるのは間違っている。ときめきなら家にいる彼氏たちだけでいい。そう、彼氏たちだけにときめいていればいいのだ。もうあんな思いをするのは嫌だから、画面の向こう側に逃げたのだ。
「お前は食べないのか?」
「いえいえいえ!いただきます!食べさせていただきます!」
 促されて頬張る。味見はしたからおいしいはずなのに味がしない。これが久遠スマイルの力か。完全に油断していた。イケメンの力を舐めていた。どんなに性格が最悪でも、イケメンの笑顔の破壊力は最強だ。
 早いところ食べて、眠ってしまおう。部屋は前と同じ場所でいいだろう。手元に彼氏たちがいない今、することはないがスマホで彼氏たちの画像を漁りながら寝よう。この無言の圧力の中の夕食を済ませればきっと楽になれる。ここでくたばるわけにはいかない。
「…来週の日曜、空いているか?」
 無言で食べ続けていると久遠先生が話しかけてきた。むせそうになりながらも口の中に入っていたものを飲み込んで返事をする。
「んぐ、日曜ですか?確かお休みだった気がします。」
「では空けておけ。神薙ホテルに行く。」
「神薙ホテル?なぜですか?」
「母に会う。」
「お母さん…私のお母さん?」
「馬鹿か?俺の母親だ。」
「え」
 久遠先生のお母さまに会う。突拍子もないことを言われて何度目かの頭が止まる音が聞こえた。先生は何を考えているのか、それを考えるのはもう飽きたというのにいまだに疑問が湧き上がってくる。
「母が結婚しろ結婚しろとうるさいんだ。さっきもメールがあった。もう40近いんだから結婚しろとな。」
「…非常に失礼なことをお聞きしますが、久遠先生っておいくつですか?」
「36だ。」
「え゛っ!若っ!!全然そんな風に見えない!っていうかまだ20代後半かと…」
「20代で手術なんて任されるわけないだろう。馬鹿か?…話を戻すが、その母と会う際にお前を連れて行けばもう面倒なことを言わなくなると思って。」
「まあ『仮』ですけども恋人を連れてこられたらもう結婚しろとは言わなくなりますよね…。」
「もちろん金は出す。だから日曜11時にホテルに来い。昼食もとる。」
 なるほど。久遠先生の考えは読めた。初めての『仮の恋人』としての仕事だ。しかもあの神薙ホテルでの食事ともなればさぞかし豪華な昼食であることが予想できる。ロールキャベツを食べているはずなのに、もうお腹が空いてきた。
「あぁ、そういえばあのホテルはドレスコードがあるんだ。」
「この前のドレスでは駄目でしょうか?」
「駄目だな。あんな通販で三千円もしないような安価な服で入ろうとするなんて馬鹿のすることだ。あれ以外にまともな服はないのか?」
「ひ、ひどい…あれでも結構奮発して買ったのに…ドレスはあれ以外にないです…すみません。」
「では俺がお前の服を買おう。土曜の五時も空けておけ。その日俺は予定手術だけだから、遅れることはない。」
「いやそれはさすがにまずいですって!自分で買いますから!!」
「俺に付き合えと言っているんだ!まさか断るのか?この俺の誘いを。」
 鋭い眼光で睨みつけられればもう何も言いかえせない。おとなしく首を縦に振るのみであった。その反応に満足したのか。先生は眉間に寄せていた皺を微かに緩ませて食事を再開した。私としては自分の時間が無くなって彼氏たちといちゃつける時間が減るのは困る。だが、そんなことより。
「ふむ…やはり良いな。」
 目の前で私の料理を黙々と食べる先生と出かけることが少しだけ楽しみになってしまっていた。


 そのまま一週間の時が流れた。今は約束の土曜の十分前である。看護師になってから初めての休日を自分の病棟の先生と過ごすとは思いもよらなかった。病棟で出された研修の復習もすでにやっているので暇と言えば暇だったので問題はない。
 しかし久遠先生と歩いている姿を同じ病棟の人に見られてしまってはどうなるか分からない。ここは都心で、病院にも近い。噂は一気に広まって、私は12-1病棟でいじめられて、辞めることになってしまうのだろうか。
「おい。」
 約束の時間を過ぎても現れない場合もある。その場合、私は騙されていたことになる。それはそれで慣れているから問題ない、と思う。また彼氏たちに癒してもらえばいい。あんな素晴らしい(性格以外)先生と数日だけだったがお話しできたのだ。いい夢が見れたと思えば私の生きる糧となる。
「おい聞いているのかっ!!!」
「ひゃいっ!!」
 真後ろから怒鳴られて声が裏返る。振り向くとあの人をも殺せそうな目つきで私を睨みつけている久遠先生がいた。
「おおおおお疲れ様ですっ!」
「お前は何度呼べば気が付くんだ!もう三度も呼んでいるぞ。」
「そ、それはすみませんでした…少し考え事をしていたもので…」
「…まあいい。では行くぞ。」
「ど、どちらに…?」
「お前のドレスを買いに行くんだ!馬鹿なのか!?」
「はいいぃい!行かせていただきますっ!」
 おしゃれな店がいくつもある通りを颯爽と歩いていく先生に必死についていく。私の方は何を血迷ったのか慣れないヒールを履いてきてしまったので早歩きの先生についていくのは大変だ。はたから見ればさぞや間抜けな光景だろう。
 百貨店の中へと入っていくと、ある店の前で先生の歩みが止まった。店内のマネキンは私が今着ている服よりもはるかに高そうな服を着こなしている。
「では、好きなものを選べ。」
「ですが私まだ給料をもらっていなくてですね…こういった場所での買い物ではその、お金の方が」
「俺が買うから問題はないと言ったはずだ。」
「で、ですが…うーん…。」
 選べ、と言われても私にはドレスの選択基準が分からない。ホテルのレストランで昼食、ということはそこまで派手でなくてもよいはずだ。であれば落ち着いた色で、デザインも控えめな感じの奴の方がよいだろう。いや、先生の彼女(偽だが)として紹介されるわけであるので地味すぎるのは良くないのか。
 それにしてもどれもこれもデザインが凝っている。手に取るとその肌触りのよさに気付いた。これが本物のドレスと言わんばかりに美しい。私が歓迎会で着ていた服なんて比べ物にならない。
「選べたか?」
「いえ…どれもこれも可愛くて目移りしてしまって。先生はいつもこのようなところで買い物をしているんですか?」
「俺は適当に選んだ店ですべて済ませている。」
「て、適当って…ここの百貨店結構なお値段しますよ。大丈夫ですか?」
「お前は俺の経済力を疑ってるのか?」
「いえ!滅相もございませんっ!!」
「ではさっさと選べ。俺は本を買いに行く。二十分後にまた来る。それまでに選んでおけ。」
 時間を指定して先生は店内を出ていった。またもや自分勝手な行動で呆れてしまう。小さく溜息を吐いた。だが、こんな良い服を買ってもらう手前、文句を言うのは違う気がする。それに先生がいない方が選びやすい。あんな眼光で常に見張られ続けられてでは選べるものも選べない。
 なぜ、私は今、少し寂しいなどと思ったのだろうか。
 手に取ってみたもので着てみたいものを選んでみた。淡いピンク色のドレスならば春に会うだろうし、あまりふわふわとし過ぎておらず、大人らしさもある。店員さんを呼んで試着してみた。思ったより窮屈ではなく、着心地が良い。これなら長時間着ていても大丈夫だ。店員さんも私の姿に「とてもお似合いですよ」と言ってくれた。多分誰にでも言っていることだとは思うが、何も言われないよりは嬉しい。
 他のも見てみたが、今着ているものにしよう。こういう買い物は決断力こそが大切なのだ。先生が来るまで時間はある。適当に店内を見て回ることにした。そんな時だった。
「あれ?ななっち?」
 私のことをそんな風に呼ぶのはこの世に数名しかいない。全身にぞわりと悪寒が走った。唇が震える。この声の主を私は嫌と言うほどに知っている。もう二度と会うこともない、会いたくもないとそう願ったあの女だ。
「工藤さん…」
「あー!やっぱりななっちじゃん!どうしたのこんなところで?買い物?」
 高い声の女、工藤あかりだ。私を中学、高校と付け回し、面白がって遊んでいた女だ。私のことを馬鹿にし、私の趣味まで侮辱し、私のものというものをことごとく潰していった女だ。まさかこんなところで出会うことになるとは思いもよらなかった。
「あかりの友達?」
「うんそう!中学からの友達でね~!」
 工藤の隣に立っている男は工藤の彼氏だろうか。その返答ににこやかにうなずいている。何が友達だ。すべてを否定する者がお前の友達なのか。そう問い詰めてやりたいところだが、声がうまく出せない。
「工藤さんも、服を?」
「うん!この人が全部買ってくれるっていうからね!」
「おいおい全部買うとは言ってないだろ?」
「えー、ケチっ!…ななっちも買い物?ここで?」
「う、うん。まあ…」
「えーでもななっちここのお洋服高いよ?」
 私への攻撃が始まった。工藤がにこにこと笑いながら続ける。工藤は表で笑いながら悪意たっぷりの言葉をぶつけて私の反応を楽しむのだ。側から見れば普通の会話、それも悪意の無いように聞こえる。だがそこには計算し尽くされた悪意がある。それをそれっぽく見せないのだ。
「ななっちは知らないかもだけど、ここって結構なブランドでわりとお値段張っちゃうけど大丈夫?あ、もしかしてまだ彼氏いないからここで服買って婚活でもするの?」
「いや…その、婚活とかじゃなくて…」
「えーそうなの?じゃあ誰かの結婚式とか?そこで男を見つけるなんてななっちもやるね!でもお金ないでしょ?だったらやめといた方がいいと思うよ!まずはその髪型とかから直した方がいいって。あとあの変な趣味もね。」
 その言葉に黙り込むことしか出来なかった。何も言えない私が悔しい。あの頃にされた仕打ちがまだ、私の中で反芻されて、脳内から離れない。
「ん?趣味って?」
 趣味という言葉に工藤の彼氏が食いついた。それを待っていたかのように工藤がすぐに返す。
「あー、ななっちの趣味ってのはね、漫画とかゲーム?のキャラに恋しちゃう感じのきもい趣味で」
 全然そんなんじゃない。その一言が言えない。私はまだこの女が怖いのだ。早くこの時間が終わるよう、願うようにただ黙って工藤の話を聞いていた。
「俺の連れが、何か?」
 そんな時に、久遠先生が現れた。なんとも言えないタイミングで来てくれたものだ。工藤の暴露大会が終わった後に来て欲しかった。これは私が耐えれば終わることなんだから、もう少し遅く来て欲しかった。
「え、誰このイケメン!!ちょっとななっち!こんなイケメンなお兄ちゃんがいたなら紹介してよ!」
「お前は誰だ?」
「私、ななっちの友達やってる工藤あかりって言いまーす!」
「そうか。」
 いかにも興味なさそうな調子で工藤をあしらう。いつもの反応でよかった。少し安心したが油断はできない。いつこの女に暴露されるかわからないのだ。
「決まったのか?」
「はい…一応決まりました。」
「そうか。ではそれを貰おう。」
 そう先生が言うと手早く店員にカードを渡して支払いを済ませた。工藤はというと久遠先生のカッコ良さに惚れ惚れしている様子で、隣にいる彼氏らしき人なんて目に入っていないようだった。
「ねえねえななっち!あの人誰?超かっこいいじゃん!ななっちの従兄弟?お兄ちゃん?紹介してよ!」
「えっ、と…あの人はなんていうか…その」
「俺は薫の彼氏だ。」
 聞こえた声にぎょっとしてそっちを向く。至って普通の調子の先生がそこにいた。同じく工藤も目を丸くして驚いている。それもそうだ。私が男と付き合ってるという時点でもあり得ないというのに、相手はこんなイケメンなのだ。
「え…マジ?ななっちの、彼氏…?」
「いや、これにはちょっと事情が、」
「そうだったら悪いのか?…もう用は済んだな。帰るぞ。」
 紙袋を受け取った先生が出口へと向かう。私はそれに置いてかれないように工藤たちへの挨拶もそこそこに足早に追いかけた。


「せ、先生…ちょっと待って!」
「お前は歩くのが遅いな。…俺はすぐにでもあの場を離れたかったんだから仕方がないだろう。」
 やっと追いついて話しかける。久々に走ったので息が上がった。
 先生の手に紙袋があることに気がついた。自分の荷物を持たせるわけにはいかない。
「先生、荷物持たせてしまってすみません。お持ちします。」
「いや、結構だ。このまま車でお前を送る。」
「いや大丈夫ですって!今日はここで、」
「お前は…大丈夫だったのか?」
 ただ前を向いてずっと歩いていた先生が急に立ち止まった。そのままつかつかと私との距離を詰める。
「大丈夫とは」
「あの女、工藤とか言ったか。そいつと話しているお前は辛そうだった。何か言われたのか?」
 見られていた。誤魔化したかったが、それより先に俯いてしまった。これでは何か言われたと言っているようなものではないか。
「何を言われたんだ。」
「いえ、大したことじゃないんです。気にしないでください。」
「……言いにくいことなのか。」
「いえ本当に大したことじゃないんです。私の気持ちの問題というかなんというか、それだけですので…」
 この人に言っても仕方のないことだ。「そうか。」と一蹴されて終わりなのは目に見えている。
 先生の目が少し不機嫌そうに細められる。自分あの場に先生が来てくれたことで工藤から解放されたのは確かだ。素直に感謝を述べたい。そう思った。
「助かりました。」
「何がだ。」
「私、あのまま耐えるつもりだったんです。ですが先生が来てくれたので早めに切り上げることができました。ありがとうございます。」
「フン…何を言われたのか言わない癖に感謝はするのか。」
「勝手ですみません。」
 勝手かもしれない。だが助かったのは確かだったのだ。嫌なことは短ければ短い方がいい。
 先生の車が見えた。先生が持っていた紙袋(私のドレス)を後部座席に放り投げた。もう少し丁寧に扱ってくれてもいいのではないかと思うが、それも先生らしくてくすりと笑った。
 顎で合図され、助手席に乗る。慣れた手付きでエンジンをかけて百貨店の駐車場を出た。
「おい…」
「はい。なんでしょうか。」
「母の前では『先生』なんて呼ぶんじゃないぞ。」
「あぁ、そうですね。怪しまれてしまいますもんね。…でしたら、」
「蒼と呼べ。」
「そそそそそんな風にはっ」
「良いから呼べと言っているっ!母の前だけでなく、院外ではそう呼べ。」
「で、できるだけ努力します…」
「今呼べ。」
「へ、」
「今、言ってみろ。」
「あ…あ、蒼……さん?」
「…チッ、まあそれでいい。これからはそれで頼むぞ。……薫。」
「はい。…って先生私の名前覚えてたんですね!」
「先生ではないと言っただろっ!!この馬鹿がっ!!!」
「ひゃいぃい!」
 車の中で怒鳴られながらも私は先生との会話を楽しんだ。あの工藤のことなんて忘れられるぐらいに楽しい。
(こんな関係がいつまでも続けばいいな…)
 叶いもしない願いをそっと胸に押し込んで、私は寮に着くまでの時間を過ごした。

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