向坂SAKISAKA~心の闇を照らしたもの~

鈴懸嶺

SAKISAKA39~向坂~(最終話)

「向坂……おまえ泣きすぎだろ?これ以上泣くと……さすがにお前の綺麗な顔も不細工になっちゃうぞ?」


「義人、また”向坂”って……」

「ああっと……、そうだったな……」

「そうよ……今日からは”向坂”って呼ばない!雪菜でしょ?」


「まあ、そうなんだけど。随分長く”向坂”って呼び続けてたからな、”雪菜”は違和感あるんだよ。それに俺、この”さきさか”って響き、結構好きなんだよなあ」


 向坂は、せっかくの晴れ舞台で、彼女の美貌を会場のみんなに見せびらかせてやりたかったのだが……

 彼女は父親と二人でバージンロードを歩きながら、俺の前に来るまでに涙でボロボロになっていた。

 ほんっと……ちょっと泣き過ぎだろ?

 向坂は、いつからこんな“泣き虫”になったんだ?


 こんな向坂を見ていると、幼少期からそのずば抜けた容姿が原因で男性恐怖症になってしまう以前の向坂は、きっと感性の豊かな女性だったのだろうと思う。しかし彼女は闇の存在を隠すために『分厚い仮面』を被らざるを得ない時期があった。だからある時から向坂は、”感情を表に出さない””クールな女性”と思われていた。

 向坂は、俺と付き合ってからは、よく笑うようになったと思う。そして、同時にちょっとしたことでもよく泣くようになった。

 今日の大泣きが、まさにそうだな。

 でもこれが本来の彼女なのだろうと今では思う。

 つまりようやく向坂は……本来の彼女、闇を背負う前の彼女に戻れたということなのだ。

 俺からすれば、こんな向坂は全く違和感はないのだが……

 仮面を被っていた頃の向坂しか知らない人は、今日の向坂を見ればびっくりするに違いない。


 それでも……

 今日のように大泣きしている向坂の姿を見ると、否が応でもあの日のことを思い出す。

 おそらく彼女が人生で、もっとも涙を流した日。

 俺が向坂に告白した翌日だ。



 あの日……俺は恐らく生物学的にはすでに死んでいたのだと思う。

 しかし向坂を想う、その想いだけで、俺はすれすれのところでこちらの世界に戻ってくることができた。

 こちらの世界に微かに繋がっていた細い糸を、田尻と坂田さんと……そして何よりもこの向坂が慎重に……必死に手繰り寄せてくれた。


 俺はKスタジオで野本に刺され、意識を失ってから……ずっと夢を見ていた。

 いつか見た夢と同じように……向坂が泣いていた。


 …… …… ……

 夢の中で俺は……向坂の泣き顔を見て、また悲しくなったのを覚えている。

 ようやく彼女に踏み込んで告白したのに……なんで笑ってくれないんだ?

 それがもどかしくてしかたがなかった

「笑えよ……向坂」

 俺は泣いている向坂に何度もそう言い続けた……


 そんな時、田尻が突然現れて”特別講義をしてやる”なんてことを言い出した。

「特別講義?……急になんなんですか?」

「……今からお前にコーマワークを見せてやる」

「え?コーマワークですか?……マジっすか?……あんな高度なワーク……俺レベルが聴いて理解できるんすか?」

「勘違いするな……聴くんじゃない……見せてやるんだ」

「え?見せる?……だってクライアントがいないじゃないですか?」

「お前も相変わらず”鈍い”な……だから東郷なんかを危険な存在と間違えるんだ」

また”鈍い”ってだから田尻と比べたらだれもが”鈍い”んだかんな?

それにしても、そうだ……

「東郷……そ、そうだ……俺は確か……」


「櫻井……クライアントはお前だ」

「え?俺?……俺は……昏睡状態じゃないですよ?」

「気付いていないのか?相変わらず鈍いなお前は」

「いや、俺は決して鈍くないと思いますよ?あたなが特殊なんですって」

「そして君のワークは向坂君にお願いする」

「え?向坂?……ちょっと待ってくださいよ?向坂がなんで既にコーマワーク出来るってことになってんですか?あれ……もしかして向坂だけ贔屓してこっそり教えてたとか?!」

「義人?私はミンデルの原典だって読んでるんだよ?そこ忘れていない?」

「……ぐぐっ……そうだった……でもずるくね?……なんで俺だけクライアントとか?」

「しょうがないでしょ?義人が……起きてくれないんだから」


 起きてくれない?

 なんだ、それ?

 向坂が……泣いていない?

 なんだ?……なんかおかしいぞ?

 俺が起きてくれないだって?

 俺はこの通り……


 な、なんだ?……なんか……呼吸が苦し……


「櫻井もう始まってる……向坂君の動きに集中しろ」

「え?……く、苦しい……ああ、ああ……息ができない……」

「義人……私に全てを預けて……」

「さ、向坂……なんでまた……そんな悲しい顔をするんだ?」

 ……まただ……向坂……

 お前の顔が見えない……

「義人!!!……見なさいよ!……私を……見なさいよ!!もっと……もっと……私のことを!!」

 向坂の……急に何かに憑りつかれたような叫び声が頭に響いた……


 何が起こっている?

 向坂は……”見ろ”と言っていた。

 何を見るのだ?

 俺は目が見えないのに……

 俺は……お前の顔が見たいのに……



「私を見なさいよ!!」



 その声が……また強烈に頭に響いた。


 すると……


 見える……


 うっすら見えるぞ……お前の顔が……



 なんだ、やっぱり泣いてるじゃないか?



 ……だめだよ……笑えよ

 ……向坂……笑えよ?

 ……向坂……そうだよ、いつもそんな風に笑っていてくれよ……

 俺は……ずっと、ずっとその笑顔を『見ていてあげる』のだから……



 俺は向坂の笑顔を見て……

 安心して微笑んでいたように思う。



「義人!!!……はやく……はやく……戻って来てよ!!!」

「義人!!……義人!!!……戻って来て!!!」



 俺は安心して、また眠りに落ちかけた時……


 また、そんな向坂の叫び声が頭に響いて……俺は何かに引き戻される感覚を覚えた。




 俺の気管が突如膨張を始めた……



 開かれたその気管から大量の空気が肺に入り込む感覚がした……



 俺は大量に吸い込んだ空気を一気に吐き出しながら……



 そして……俺は……大きな声で……叫んでいた……



「SA・KI・SA・KA!!!」



 …… …… ……


 向坂が死の淵にいる俺に施したコーマワーク。

 田尻に言わせると、向坂は俺の僅かな唇の動きを読んで……俺があの時必要だった答え……「笑顔」というその答えを鮮やかに導き出したそうだ。

 あの時、田尻ですらその結論にはたどり着けなかったらしい。向坂は今でも自慢げにその話をする。

 やっぱりあいつは凄い。

 ……俺は間違いなくあの時向坂が見せた笑顔のおかげで……この世界に戻ってくることができた。

 あの後、集中治療室では大騒ぎになったらしい。担当医がなんとも申し訳なさそうに後から説明をしてくれたが……全く要領の得ない説明だった。

 医学的には奇跡だとか、なんとか……

 結局、生死を分ける決定的な要因は、やはり「心」が大きく関与しているのは現代の医学においてもそうなんだと思う。少なくとも心理学を志す俺としてはそう思っていないといけないんだろう。ましてや俺はそれで命拾いしてるわけだし……




 さっき、式に来てくれた田尻と少し話をした。

 もう向坂に「闇」の影は見えないという。田尻は以前、向坂の闇が完全に消えるのは俺と向坂が永遠の関係性を築いた時だと言った。

 つまり……まさに今日、それがようやく叶ったということだ。

 向坂の闇は、ついに完全に消滅したのだ。


 長い道のりだった。



 向坂雪菜。

 彼女は、今日から『櫻井雪菜』になる。

 だから彼女を、”向坂”と呼ばない約束をしていた。


 さっきは彼女のことをつい「向坂」と呼んでしまったのだが……

 咄嗟に出てしまった「向坂」という響きが、これで最後かと思うと……。

 その響きと一緒に記憶されている彼女との大切な青春の場面が、色々と思いだされてしまった。

 そんな風に俺の青春の記憶とセットになってしまった「向坂」という名前。

 もうその名前を呼ぶのも今日が最後だ。


 そうだ……今日からは、もう「向坂」という青春の想い出を卒業して……

「櫻井雪菜」と共に新しい人生を歩むのだから……


 でも……


 最後にもう一度……

 君との大切な思い出を胸にしまっておくために……


 もう一度だけ……


 その名を呼ばせてほしい……



 これが本当に……


 最後だ……



「そんな泣き続けてると……式が進行できないだろ?せっかく俺とお前の新しい門出なんだ……」



「だからさ……」





「笑えよ……」






「向坂」










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