異世界 夢の郷
厭世的かつ人間嫌い主人公の一時間
わたしはどうしてもこの世界を好きになれない。
雨が降る音が窓越しに聞こえる授業中の教室。一番うしろの窓際に座る、黒羽凛音(くろばりんね)はいつもそんなことを考えてしまう。
特に雨が降る日は、一日中その考えが頭から離れないので、授業に集中できない。
しかしそれは少し困るので、まぎらわそうとノートに絵を描いてみる。先生は私の成績を知っているからか、特に怒ったりはしない。
話しかけづらいからといのもあるだろうが…。
絵を描いていても、あの言葉ばかり繰り返し頭を巡る。
そもそも何故この世界が好きになれないのか。
わたしは考えるということが好きなのかどうかは知らないが、暇さえあれば何かを考えている。
内容は色々ある。
それこそ、生きるとは、とか、幸せとは何かとか…。
一つのことの奥底には沢山のきっかけや出来事がある。
たまたまわたしはそのことを知っていた。
その上辺や見た目だけでなく、その奥もちゃんと見ることこそ、大切なことであり、一つの礼儀なのではないかと思っている。
しかしそれを踏まえたうえで話してみるとだいたいの人は少し暗い表情になる。何か悩んでいるのかと聞いてきた先生に話してみた時もそうだった。
それはそうだ、゛その人達はそんなの考えずにほとんどの毎日を笑って生きていたのだから。゛
親に相談してみるという選択肢はない。
既にもうわかってしまったから。
嫌いではないが、どこか頼りない。
たまに気持ちが溢れて愚痴ってみるも、話を聞くのがめんどくさいのだろう、話を変えようとするのだ。
それもわかってしまうので、私は素直に話をやめて聞く側になる。
そしてまた仕事の人がー、とかほんとにウザいとか、そんなことを聞かされる。親は聞いてくれるものだと思っているのかもしれないが、ホントは聞きたくない。
その理由は、大人で親なのだから、堂々と仕事をしている姿のほうが見たい。もちろん、それが難しい事だということもなんとなく分かるのだが…。
他にも、どうせ無理だろうと夢を追わずにサラリーマンになって今の仕事をイヤイヤしている姿は、お金を稼いで養ってくれていることはほんとにありがたいが、なんだか情けないと思ってしまうのだ。
まあ、昔だったらお金を稼ぐのも今より大変だったから仕方ないことなのかもしれないな…。
それでも周りに理解して貰えていない気がして、息苦しいというか…。きっとこの気持ちは「寂しい」ということなのだろうと思うとしっくりくる。
こんな気持ちや考えは自分の中に押さえ込む。
そうすれば皆笑っていられるのかなーなんて。
なんだかみんな都合よく過ごしているのかなと思ってしまった。耳が痛いことには笑うことで誤魔化すのだ。誰しも自分は可愛いものだから。
私は不器用な人間なのだろうか。でも器用に人を頼れるほど、誰かを信頼できない。自分一人でやるほうが早いと考えてしまうタイプなのだ。
私の周りの環境、つまり今見えている世界こそ小さいのかもしれない。もっと色んな人に出逢えば、理解してくれる人なんていっぱいいるかもしれない。しかし、いつ出会えるのか?
出会った頃には、もう何かが手遅れになっている気がして…。
私にとって幸せとは何だろう。
どんなことがあれば、幸せと言えるのだろう。
ただ同じような数字が動いていく、日が沈んでまた昇る。繰り返しているだけに見えた。
内容は違えど、授業も仕事も同じ作業を繰り返すだけ。
わたしは思ってしまう
退屈だ、同じようなことの繰り返しは。
そんな中で、人は「幸せになりたい」と願う。
そのために必死に働いて、心と体はボロボロになる。
゛自分にとっての幸せは何かもわからずに。゛
それって意味があるの?
いや、意味ないでしょう…?
ボロボロになってまで、人はなぜ幸せを追うの?
そうか、「゛生きる ゛という鎖を足につけられているから」か。
生き物には「生きる」という本能がある。
「死」が怖いのはそれが理由だろう。
人にとって100年もないかもしれないが、一生とは長く感じるものだ。しかも現代、そのくらい生きられるのはあたりまえだと考えられてしまう。
不幸より幸せのほうがいいに決まっている。
しかし、幸せとは思っている以上にすぐに消えていく。そのたびにまたボロボロになって、また幸せを取り戻して、また消えていって…。
ボロボロになるたび笑顔は消えていき、笑っている人が憎くなる。幸せを求めたがために誰かを傷つけてしまうのではないか。
生きるという鎖をつけられ、幸せになるために働く人たちは、
神様の人生ゲームにでも遊ばれているようだ。
そこからまたさらに考えてしまう。
人って生きる意味あるの?
別に死にたい訳じゃない。
でも、幸せを求めてしまう理由を知ると、それがなければ心身をボロボロにする必要はないでしょ?と思う。
生きていて、仕事が楽しかったとしても、大変なことだってあるでしょう。
幸せのために同じようなことを繰り返すのって
゛楽しいって言うの? ゛飽きてこないの?
広くて歩きやすくなっても、同じ色の道路を永遠と走っているみたい。
世界には、お金を稼ぐために、簡単に人を傷つけたり騙したりして笑っているやつもいる。
それこそ生きる意味あるの?と思う。
悪いことまでして生きたいと思うのが生き物なのか…。
ああ、おもしろくない。
この世界が好きになれない理由。
繰り返すことも、みんな似たようなことをしているのも…。工場の機械と似たようなもんだ。しかも人を傷つけるのだ。
それも「生きる」ということなのか?
生きるとは冒険とも言えるのかもしれない。未知を知るため求め歩く、人生そのものだ。
冒険とは先に何が待っているのか見えないからワクワクするのだろうが、私の場合先がなんとなくではあるが見えてしまう。
だからなんだかワクワクできない。
そして私の中で
世界が好きになれない理由。
≒
人間が嫌いな理由。
でもあるかもしれない。
キーンコーンカーンコーンーーー。。
授業の終わりを知らせるチャイムの音に八ッとする。今になって絵を描き始めてからだいぶ時間がたっていた事に気がついた。
だいぶ考えこんでしまった。案の定授業なんて全く耳にも入っていない。
やはり雨の日は厄介だ。
どうしても気分が下がり気味になってそれが頭の中を覆い尽くすから。
絵が大量に描かれたノートを見てそう思った。
雨が降る音が窓越しに聞こえる授業中の教室。一番うしろの窓際に座る、黒羽凛音(くろばりんね)はいつもそんなことを考えてしまう。
特に雨が降る日は、一日中その考えが頭から離れないので、授業に集中できない。
しかしそれは少し困るので、まぎらわそうとノートに絵を描いてみる。先生は私の成績を知っているからか、特に怒ったりはしない。
話しかけづらいからといのもあるだろうが…。
絵を描いていても、あの言葉ばかり繰り返し頭を巡る。
そもそも何故この世界が好きになれないのか。
わたしは考えるということが好きなのかどうかは知らないが、暇さえあれば何かを考えている。
内容は色々ある。
それこそ、生きるとは、とか、幸せとは何かとか…。
一つのことの奥底には沢山のきっかけや出来事がある。
たまたまわたしはそのことを知っていた。
その上辺や見た目だけでなく、その奥もちゃんと見ることこそ、大切なことであり、一つの礼儀なのではないかと思っている。
しかしそれを踏まえたうえで話してみるとだいたいの人は少し暗い表情になる。何か悩んでいるのかと聞いてきた先生に話してみた時もそうだった。
それはそうだ、゛その人達はそんなの考えずにほとんどの毎日を笑って生きていたのだから。゛
親に相談してみるという選択肢はない。
既にもうわかってしまったから。
嫌いではないが、どこか頼りない。
たまに気持ちが溢れて愚痴ってみるも、話を聞くのがめんどくさいのだろう、話を変えようとするのだ。
それもわかってしまうので、私は素直に話をやめて聞く側になる。
そしてまた仕事の人がー、とかほんとにウザいとか、そんなことを聞かされる。親は聞いてくれるものだと思っているのかもしれないが、ホントは聞きたくない。
その理由は、大人で親なのだから、堂々と仕事をしている姿のほうが見たい。もちろん、それが難しい事だということもなんとなく分かるのだが…。
他にも、どうせ無理だろうと夢を追わずにサラリーマンになって今の仕事をイヤイヤしている姿は、お金を稼いで養ってくれていることはほんとにありがたいが、なんだか情けないと思ってしまうのだ。
まあ、昔だったらお金を稼ぐのも今より大変だったから仕方ないことなのかもしれないな…。
それでも周りに理解して貰えていない気がして、息苦しいというか…。きっとこの気持ちは「寂しい」ということなのだろうと思うとしっくりくる。
こんな気持ちや考えは自分の中に押さえ込む。
そうすれば皆笑っていられるのかなーなんて。
なんだかみんな都合よく過ごしているのかなと思ってしまった。耳が痛いことには笑うことで誤魔化すのだ。誰しも自分は可愛いものだから。
私は不器用な人間なのだろうか。でも器用に人を頼れるほど、誰かを信頼できない。自分一人でやるほうが早いと考えてしまうタイプなのだ。
私の周りの環境、つまり今見えている世界こそ小さいのかもしれない。もっと色んな人に出逢えば、理解してくれる人なんていっぱいいるかもしれない。しかし、いつ出会えるのか?
出会った頃には、もう何かが手遅れになっている気がして…。
私にとって幸せとは何だろう。
どんなことがあれば、幸せと言えるのだろう。
ただ同じような数字が動いていく、日が沈んでまた昇る。繰り返しているだけに見えた。
内容は違えど、授業も仕事も同じ作業を繰り返すだけ。
わたしは思ってしまう
退屈だ、同じようなことの繰り返しは。
そんな中で、人は「幸せになりたい」と願う。
そのために必死に働いて、心と体はボロボロになる。
゛自分にとっての幸せは何かもわからずに。゛
それって意味があるの?
いや、意味ないでしょう…?
ボロボロになってまで、人はなぜ幸せを追うの?
そうか、「゛生きる ゛という鎖を足につけられているから」か。
生き物には「生きる」という本能がある。
「死」が怖いのはそれが理由だろう。
人にとって100年もないかもしれないが、一生とは長く感じるものだ。しかも現代、そのくらい生きられるのはあたりまえだと考えられてしまう。
不幸より幸せのほうがいいに決まっている。
しかし、幸せとは思っている以上にすぐに消えていく。そのたびにまたボロボロになって、また幸せを取り戻して、また消えていって…。
ボロボロになるたび笑顔は消えていき、笑っている人が憎くなる。幸せを求めたがために誰かを傷つけてしまうのではないか。
生きるという鎖をつけられ、幸せになるために働く人たちは、
神様の人生ゲームにでも遊ばれているようだ。
そこからまたさらに考えてしまう。
人って生きる意味あるの?
別に死にたい訳じゃない。
でも、幸せを求めてしまう理由を知ると、それがなければ心身をボロボロにする必要はないでしょ?と思う。
生きていて、仕事が楽しかったとしても、大変なことだってあるでしょう。
幸せのために同じようなことを繰り返すのって
゛楽しいって言うの? ゛飽きてこないの?
広くて歩きやすくなっても、同じ色の道路を永遠と走っているみたい。
世界には、お金を稼ぐために、簡単に人を傷つけたり騙したりして笑っているやつもいる。
それこそ生きる意味あるの?と思う。
悪いことまでして生きたいと思うのが生き物なのか…。
ああ、おもしろくない。
この世界が好きになれない理由。
繰り返すことも、みんな似たようなことをしているのも…。工場の機械と似たようなもんだ。しかも人を傷つけるのだ。
それも「生きる」ということなのか?
生きるとは冒険とも言えるのかもしれない。未知を知るため求め歩く、人生そのものだ。
冒険とは先に何が待っているのか見えないからワクワクするのだろうが、私の場合先がなんとなくではあるが見えてしまう。
だからなんだかワクワクできない。
そして私の中で
世界が好きになれない理由。
≒
人間が嫌いな理由。
でもあるかもしれない。
キーンコーンカーンコーンーーー。。
授業の終わりを知らせるチャイムの音に八ッとする。今になって絵を描き始めてからだいぶ時間がたっていた事に気がついた。
だいぶ考えこんでしまった。案の定授業なんて全く耳にも入っていない。
やはり雨の日は厄介だ。
どうしても気分が下がり気味になってそれが頭の中を覆い尽くすから。
絵が大量に描かれたノートを見てそう思った。
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