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ウクライナ危機!釈尊の戦争・平和観を考える

樺山 輝一

釈尊 5

 「先生、戦地では常に命の危険があります。ウクライナの人達に同苦したくても観念論になってしまう自分がいます」
  「おっしゃる通りです。東日本大震災の時、テレビでみる映像と同じ景色を見ているかもしれませんが、現地で360度がれきを見ると涙がでてきました。それが何日間も続けば、心が麻痺してしまいます。
 釈尊の涅槃、臨終前の姿を考えてみましょう。仏教学者の故人、中村元先生は優れた研究を残しています。
 釈尊は八十歳のとき、弟子のアーナンダを連れてマガタ国から故郷をめざす最後の旅にでます。雨季に入ると病が生じました。病状は回復しますが、生命の終わりが近いことを知ります。アーナンダにそのことを告げると、彼は動揺し最後の指導を懇願する。
 『アーナンダよ。修行者たちは私に何を期待するのであろうか。私は内外の隔てなしにすべての理法を説いた。全き人の教えには、なにものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。私は修行者のなかまを導くであろうとか、あるいは修行者のなかまは私に頼っているとこのように思う者こそ、修行者のつどいに関してなにごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、私は修行者のなかまを導くであろうとか、あるいは修行者のなかまは私に頼っているとか思うことがない。向上につとめた人は修行者のつどいに関してなにを語るであろうか。
 アーナンダよ。私はもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いているように、おそらく私の身体も革紐の助けによってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく若干の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。
 それゆえに、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな』(「ゴータマ・ブッタ 下」」
 あまりにも有名な釈尊最後のひとつです。
 

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