ウクライナ危機!釈尊の戦争・平和観を考える

樺山 輝一

釈尊 3

 「先生、釈尊も命を狙われたりしていたのでしょうか」
 「ありますね。有名なエピソードをひとつお話しします。仏を害し母を殺せば、必ず梵天に生まれると、師からだまされた指導をうけた司祭者の息子アングリマーラがいます。殺戮者になりました。釈尊は住民の引き止めも沈黙し、人々を殺しに殺して指で作った首飾りを身につけているアングリマーラがいる道を進みます。アングリマーラは釈尊が歩いてくるのを見ました。まさかこの道を1人で連れもなく歩いてくるなんて。彼は武装して釈尊の後ろを追いかけました。だか、全力で追いかけても追いつくことができない。釈尊は自然に歩いている。不思議に思い、彼は立ち止まり叫んだ。『沙門よ、止まれ。沙門よ、止まれ』と。釈尊は『アングリマーラよ、私は立ち止まっている。汝こそ止まれ』と答えた。『沙門よ、お前は、歩いているのに立ち止まっているといっている。そして、私が立ち止まっているのに立ち止まっていないとお前はいう。どうしてお前は立ち止まっていて、私は立ち止まっていないのか』とたずねた。『私は一切の生きとし生けるものどもに対する暴力を抑制して立っている。あなたは抑制していない。あなたの暴力は動き続けている』彼は走っても追いつかない不可思議な状況と釈尊の真実の言葉にふれて武器を捨てた。釈尊は『来れ、比丘よ』といい、アングリマーラはついていきました。
 時が過ぎ、改心したアングリマーラは早朝に衣をつけて鉢を手にもち托鉢に行きました。順次に歩いていると難産の1人の婦人を見ました。『ああじつに、人々は苦しんでいる。ああじつに、人々は苦しんでいる。』托鉢から戻ったアングリマーラは釈尊に難産の女性のことを伝えました。『それでは、アングリマーラよ、もう一度その場所に行き、難産の婦人にこういいなさい。姉妹よ、私は生まれてこのかた、故意に生きものの命を奪ったということを認めません。その真実にかけてあなたに幸せがあるように。胎児に幸せがあるようにと』
 『尊師よ、それでは、私はうそをついたことになるのではないですか。なぜなら、私によって、故意に多くの命が奪われていますから』
 それでも、釈尊は同じ指導をしてアングリマーラは、難産の女性のもとへと向かいました。
『姉妹よ、私は聖なる生まれに生まれてこのかた、故意に生きものの命を奪ったということを認めません。その真実にかけてあなたに幸せがあるように。胎児に幸せがあるように』
 すると、婦人は無事に胎児を出産しました。
 ある時、アングリマーラはいつものように托鉢に行く。しかし、そのとき、他の人々が投げた土塊や棒、小石が、体にあたる。アングリマーラは、頭が傷つき、血が流れ落ち、鉢が壊れ、衣もビリビリになり、釈尊に会いました。
 『アングリマーラよ、そなたは忍受せよ。そなたは忍受せよ。そなたがその行為の果報として何年、何百年、何千年、地獄で苦しむであろう、その行為の果報を現在に受けているのだよ』と指導しました。
 アングリマーラは思いつくまま偈を唱える。
 『森のなかで、あるいは樹木の根本で、山のなかで、あるいは洞窟の中で、いたるところで、私はおびえていた。いまでは私は幸せに臥し、幸せに立ち、幸せに生活を送っている。悪魔の縄にかかることもない。私は師の慈しみを蒙っているのである。私は以前には父方も母方も高貴の出身であった。今では師の子である。妄執を離れ、執著することなく、感官の門を護り、よくみずから制御し、罪悪の根を除き去って、私は汚れの消滅に達した。私は釈尊に仕え、釈尊の教えを成し遂げた。重い荷をおろし、迷いの生存に導くものを、根こそぎにした。私はただ、来れ、比丘よ!と、いわれこの道に入ったのである」

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