蒼のAGAIN

「S」

第一章5  『約束の想い人』

10年前、俺は恋をした。初恋だった。

明るくて、笑顔が素敵な、元気な女の子。

月日が経つにつれ、俺は彼女についての記憶が徐々に薄れていくのを感じていた。
今でも覚えているのは、彼女の笑顔と別れ際に交わした約束。


――保育園、お別れ会当日。


先生が発した言葉に、俺は正直、あまり理解できていなかったように思う。

『突然ですが、あいねちゃんが引っ越すことになりました。なので今日は、お別れ会をしたいと思います。みんな、最後にあいねちゃんとたくさん遊びましょうね!』

笑顔でそう言い放った先生の言葉。
唖然とする俺をよそに、女子は悲し気にあいねに話しかけ、男子は呑気に笑みを溢していた。
あいねは複雑そうに笑顔を浮かべていた。

お別れ会ということで、みんなで『かごめかごめ』をした。
今日はあいねが主役のため、あいねを取り囲むように円を作った。

先生が歌い出し、みんなでグルグルと回って。
あいねは見事に後ろに佇む少女を当てて。
当てられた子は円の中へ。

あいねは先生の『どこにでも入っていいよ』という言葉により円のみんなを見渡して、俺と目が合うとはにかむように口元を綻ませて。
最初から決めていたかのように、颯爽と俺の隣へ飛び込んできた。

俺はその時、どうして俺のところに来たんだろうって不思議に思ってて、あいねはいつもの笑顔でこう言うんだ。

『あっち見て』って。

その言葉と同時に、あいねはいつも俺の後方を指さしていた。
だから何かあるのだろうと、毎回そこへ目をやるのだが、結局のところ何もなかった。

それを何度も食らっていたから、もう騙されないように、本当に何かあった場合も考えて、『何で?』って聞いたんだ。

すると必死に『いいから!』って、強引にも押し切られて。
指さす方へ振り返るも、やっぱり何もなくて。

『またか……』って思いながら、あいねの方へ向き直れば、頬に柔らかな感触があった。

俺は呆然と、何が起きたのかわからなかった。
あいねの顔を窺えば、瞳は少し涙ぐんでいたように思う。

それが夢だったのかもしれないし、気のせいだったのかもしれない。
遠き昔の思い出だから、わからないけど。


確かなのは――、


『いつ引っ越すの?』と聞いて。
あいねは俯き気味に『土曜あした十五さん時……』って答えて。

そんなあいねを励ましたくて、

『絶対に行くから!』って。

俺はそう、答えていた。
あいねの反応はと言えば、

『うん!』

幸せと安堵に満ちた、その日一番の嬉しそうな笑顔を見せてくれていた。

俺はそれが嬉しくて、『必ず行こう』と胸に誓った。

大切な約束だったんだ。
やっと気づいたんだ。

いつも見せてくれるあいねの笑顔。
俺はそれが大好きで。これは恋で。
俺とあいねは、少なくともあの瞬間だけは両想いだったんだって。


――けど、


今でも覚えているあいねとの思い出は、これだけで。
俺はその約束を守ることができなかった。

親に止められたんだ。
俺の家からその子の家まで距離がある。

園児が一人で向かうには危ない距離。
それでも俺は諦めきれなかった。

あいねが引っ越すから、会いに行きたい。
ただそれだけなのに、必死でお願いしたのに。
あいつらは俺を引き留めるばかりで、家から出そうとはしなかった。

『どうしてそんなに行きたいのか』と、自分勝手な独裁者の父に怒鳴り声で聞かれて。

俺はその時、素直に答えることができなかった。

『だって、好きだから』なんて、恥かしくて言えるわけがない。

言えていたら、何かが変わっていたかもしれないのに。
俺は何も言えず、その日一日中、声を嗄らして泣くことしかできなかった。

許してもらえなくてもいい。
ただ謝りたくて、懺悔するように涙を溢していた。

それだけは絶対に忘れない。
忘れるなんてできるはずがない。

『絶対に行く』と誓ったのに守れなかった。
この時になってやっと自覚したんだ。
あいねには、もう会えないんだって。


――でも、


俺は憎悪を燃やしながら、新たなる誓いを立てた。


『必ず君を見つけ出す』と――。


離れ離れになったって、今日この日の誓いを忘れなければ、またあいねに会えるはずだと。
根拠もない決意が、俺を奮い立たせていた。

会おうにも、行き先なんて知らないのに。
周りに聞けば、何かわかったのかもしれないのに。

俺はこの気持ちを知られたくなくて、意地を張って。
あいねを強く思うだけで、探そうとはしなかった。

気づけばずるずると10年間も引きずっていた。

守ることもできず、伝えることもできなかった。
それが俺の後悔。

6歳にして恋をして、後悔をした。
一番最初の恋であり、後悔。


――だからもし、


もしも約束を守れたなら――。


もしもあいねに会えたなら――。


俺は――。


眩しい光が視界を包み、全身を呑み込む。

今ならまだ、後戻りできる。
選択を迫られる中、迷いなき覚悟が伝えたい想いと重なって、この胸に溢れていた。


――だからこそ、


彼女に会えたなら、自ら打ち明けよう。


『君が好きだ』と――。


静かな想いを胸に、出口へと差し掛かる。

守れなかったモノを、伝えたかった想いを、傷つけないために。

そうやって、追憶の彼方に消えた彼女のもとへ光は導くように背中を押してくれていた。


そんな気がしていた――。





視界が晴れた先、映っていたのは見覚えのある光景。
懐かしくて嗅ぎ慣れた、何とも言えない匂いが鼻孔を擽る。

ここは、こんなにも小さな場所だっただろうか。

ワープを抜け、着いた先は『保育園』。
目を開いた瞬間に気づいたのは、陸から離れ、数十メートル上空を浮遊していること。
幽霊だから、実態を失っているから、そんな思考を巡らせるも正直どうでもよく思えた。

見下ろす世界には、映画フィルムを切り取ったみたいに時間が停まっている。

幼い自分と目的の彼女が手を繋いでいる。
あれは夢ではなかったのだと、早とちりの安堵を浮かべてしまう。

ゆっくりと過去の自分へと近づいていく。
肩にポンと手を置いて、なんだかズルをしているみたいで気が引ける。

『すまないな。お前の身体を借りさせてもらう……って、俺の身体か』

申し訳なく思うも、今の自分のようにならないために過去の自分へと乗り移る。

おかしな感情に苦笑しながら、生と死と、時計の針が動き出すような感覚に見舞われながら、アオの言っていた『憑依』を実感する。


――ドクンッ。


静寂に満ちていた時間が、脈打つ心臓の鼓動から終わりを告げる。
耳に和やかな声が聞こえ始め、瞼を開けば同じ目線に笑顔がある。


『AGAIN』が始まった、瞬間だった――。


「――くろう」


不意に耳元を掠める誰かの声。

ずっと忘れて、思い出すことも儘ならない。

そんな懐かしの声がした。

「あいね……」

ずっと会いたくて、ずっと忘れられない人。
ずっと、呼びたかった名前。

「くろう……?」

桃色のツインテールにアクアブルーの瞳。サクランボの髪留め。

心配そうにこちらを眺める彼女によりやっと気づいた。
溢れていたのは止めどない感情だけではなく、頬を伝う涙なのだと。

もしかしたら、彼女から滲み出る明るい純粋さに当てられたんじゃないかと、おかしな笑みを零してしまう。

「何でもない」

涙を拭い、精一杯の笑顔を作る。
彼女にこれ以上、心配を掛けたくない。
不安がらせないために、あの時と同じ言動を心掛けた。

些細なことで、『時』の流れは変わってしまう。

過去ここへ帰ってきたのは、後悔を無くすため。
あまり深く干渉しすぎては、世界そのモノを変えてしまう恐れがある。

今はまだ、その『時』じゃない。


――だから、


「ねぇ、くろう」

取り繕った笑顔に気づかず、あいねは安堵するように微笑み。
その姿が、あの時と全く同じ光景に重なったことに『来た』と察する。

作った笑みを薄めながら、零コンマの時を待つ。

ゆっくりと動く彼女の唇が遅く、待ち遠しく感じながら、視線が自然と持ち上げられる彼女の左手に注目する。


――そして、


「あっち見て」

久しぶりに見る彼女の小悪魔的言動に一瞬だが魅入ってしまっていた。
そこに懐かしさを覚え、脳裏に焼き付けながら、あの時と同じ言葉を選ぶ。

「何で?」

不貞腐れた表情で、純粋に疑問符を浮かべながら。
怪しげな彼女に疑り深くも、ちょっぴり嬉しい反応を示す。

「いいから!」

強引に、それでいてあどけなく押し通してくる彼女。
表情を変えないよう、内心、何かに期待を抱きながら彼女の指さす後方へと視線を送る。


――ああ、やっぱり……。


何もない。

けれど、あの時とは感じ方が違う。

考えることをやめ、目を瞑って彼女の方へと向き直る。
ただそれだけの行動を意識する。


「―――」


優しくも甘く、柔らかな感触が頬を撫でる。
あの時と同じで、何が起こったのかわからなくなる。

未来を知っている自分だから、少し早めに気づけた事実。
都合のいい夢ではなく、これは現実なのだと。

察することができた時、視界には瞳を潤ませたあいねがいた。
今にも泣きだしそうな必死の笑顔に、行けなかったときの罪悪感が込み上げてくる。

それでも、吐き出す言葉は決まっていて、

「いつ引っ越すの?」

二度と自分の行いを忘れないよう、遠くを見つめる寂しそうな彼女の横顔を眺めていた。

「明日の三時……」

俯きながら呟く小さな声。
それをちゃんと聞き逃さず頭に叩き入れ、

「絶対に行くから!」

握った手を持ち上げて、決意を表す。


あの時以上の、覚悟の瞳をもって――。


「うん!」

目尻にちょっぴりの涙を添えて、あいねは最高の笑顔を見せる。
自分も微笑んで、その手を離さぬよう握り締める。

すると薄っすらと風景が塵のように失われていることに気づき。

徐々に世界から彩りが消えて、何もかもが真っ白に染め上げられていくのを、瞼を降ろして受け止める。

きっと時が移り変わる瞬間なのだろうと、不思議な感覚に見舞われながら、掴んでいた手を目に歯を食いしばる。

目の前にいた彼女さえ、何も言わずに色のない世界へと溶けていく。
最後まで離すことをやめなかった手には、もう何もなく。
虚しさだけが、胸の中を渦めいている。


――でも、


だからこそ、ちゃんとお別れをしようと。


光が呑み込む刹那の中で、再度自分に言い聞かせていた――。





――翌日。


目を開いた先にあったのは、見慣れた自室だった。

視界がぼやけ、不思議なことに時計やカレンダーの日付けがわからない仕様になっている。
ただ今日が土曜日で、先ほどあったあいねとの会話が金曜日だったというのは明白で。

それはまるで、自分の記憶になぞらえているように映し出された風景に見えた。


「―――」


辺りを見回して思う。
淡く朧気に彩られた、不鮮明な世界。

ドアノブに触れ、自分の部屋を出る。
3階から階段を下って、1階のリビングへとやってくれば、

「……っ」

今は亡き、父と母の姿がある。

新聞を広げる父の背中。台所で食器を片付ける母の佇まい。

若々しい、10年前の姿だ。

と言っても、それ以上の姿を自分は知らないのだが。


「――ん?何?」


こちらの視線に気づいてか、久しぶりに聞く母親の声が耳に響く。


――でも、


「ちょっと遊びに行ってくる」

この家に幸せだと思えた瞬間など一度もない。
だから死んでいった親にまた会えても、何も思わない。

「そ。あと一時間したらお昼だから」

「うん」

『その頃には帰って来い』と言いたげな口ぶりに、素っ気無い返事をする。
あいつは機嫌が悪いのか、何の反応もない。

だが、これでいい。好都合だ。
今はただ、あいねのことだけに集中する。


そうやって、いつものように、逃げるように家を出た――。


外へと出て、改めて実感する。

庭に止めてある車。近所の駄菓子屋。公園の遊具。
今あるモノが昔にはなく、昔あったモノが今にはない。

そんな当たり前の事実。


懐かしい、10年前の世界だ――。


「さすがに違うな……」

一人そう呟いて、街を歩く。
本当はもっと、この景色を眺めていたい。
けれどここへ来た理由を思い出すと、足は自然と後戻りする。


――策も練った。腹も減った。


帰ろう――。


あんな家に帰りたくはないけれど、あいねのためだと自分に嘘を吐く。

するとあっという間に家に着き、昼食を取って、時計の針は午後1時を示す。


それが計画の合図――。


「行ってきまーす」

靴を履き、再び玄関の戸を開ける。

「また遊びに行くの?」

そこにまた母親の声がするも、

「うん」

平然と端的な言葉を返す。

「公園?」

「そう」

そして引き留める足を内心苛立ち気味に一歩踏み出し、

「気を付けてね」

最後の一言に怒りを覚えるも、押し殺してあいねのもとへと駆け出していた。


――これでいい。


自分を止める柵はもうない。
念願だった別れ、約束を守れる日が10年の時を超えて遂にやって来た。

死を選び、時を超えての変革。
少しズルをしているようで気が引けるけれど、そんなものは些細なこと。


――やっと、やっと……っ!


会いに行ける。
そのことに頬は緩み、飛び跳ねたくなるほどの喜びが満ちている。


――なのに、


ほんの少しだけ、興が冷める事態が一つ。

作戦はこうだった。


――あいつらを欺く。


ただそれだけ。たったそれだけ。
親にバカ正直に話した過去の自分が間違いだった。

子の夢や希望を自分勝手に摘み取っていく。
腐った大人の現実の押し付け。
何も見ようとはしない、理解に苦しむ社会の下僕(しもべ)。

最悪の生き物。
あんな大人にはなりたくない。
それを体現したような二人組。

感謝できることがあるとすれば、そう思わせてくれる事象のみ。
そんな存在の一人が、見送りに放った言葉に苛立ちを覚えている。

『気を付けてね』


――ふざけるな……っ。


自分勝手な独裁者の父。雑な母親。

真実を告げなければ、こんなにも簡単に行くのか。
こんなにも簡単なことだったのかと、親への止めどない怒りが溢れ出している。

道を阻むのも、自由を束縛するのも、あいつらでしかなかった。
わかっていたことではあったけど、確定事項が身を焦がすような勢いで増幅している。

憎悪を掻き立てている。


――くそっ……!


少しでも、親に期待した自分がバカだった。愚かだった。
自分が悪かったんじゃないかと思った時もあった。

けれどそれは、気の迷いだった。

やっぱり、頼れるのは自分だけだった。


――走れ、走れ……!


「はぁ…はぁ…」

ただひたすらにあいねのもとへ走り出す。
怒りは全部、踏み締めるアスファルトにぶつけてやればいい。

体力の限界。物凄く脇腹が痛い。
冷静さを忘れ、ペースも考えず、全力で駆けていた。
でもそのおかげで、今はあいねのことだけを考えていられる。

あいねに会いたい。
会って言葉を交わしたい。

苦しいのは自分だけでいい。辛いのは自分だけでいい。
笑顔で君に別れを告げたい。


その想いが、切れる息の中、今の自分を突き動かしていた――。

          

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