戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第25話

 翌日、いつも通りに出社し、エレベーターで部署に向かっていると、近くで話し声が聞こえた。
「受付の江口さん、財布盗まれたんだって?」
「そうそう、どうも人事部の女が盗んだらしいよ」
「同じ会社に泥棒がいるとか、怖っ」
(え……?)
 みちるは一瞬、自分の耳を疑った。その後、その女性たちはすぐに話を切り替えてしまったけれど、彼女の心に波を立てるのには十分だった。
 昨日の美那莉との会話で誤解はとけたのではないかと楽観視していたのだが、甘かったのだろうか。
(まさか……ね)
 それでもまだ、平和的に解決できると信じていた。
 エレベーターを降り部署に近づくにつれ、自分に向けられる視線が厳しいものになっているのは、気のせいではなさそうだ。
 他部署の社員がこちらを見てひそひそと話をしているのが見えた。冷たい視線が棘のように刺さり、皮膚がピリピリと不安感を覚える。
「――めはらさんが……んだって……」
「――そー……く来られるよね……」
 小声でなされているはずの噂話の中に自分の名前を聞き取ってしまい、心臓が痛くなってくる。
 部署に着いた途端、菜摘が駆け寄ってきた。
「みちる、やっぱりやられたわ。思ってたよりも影響力あったみたい、あの女」
「おはよう、菜摘……どういうこと?」
「あの女、昨日の内に自分の取り巻き使って噂を広めさせたみたい。しかも『梅原さんのロッカーから財布とスマホが見つかりましたので、もう大丈夫です』って、それしか言ってないらしいからタチが悪いわ」
 言葉が足りないことは嘘ではない――以前観たドラマの再放送でこんな台詞があった気がする。
「そんな……」
「私も岡村さんも、知り合いには事情説明してるけど、拡散速度に追いつかないのよ」
 どうやら菜摘の懸念が的中したようだ。彼女は額に手を当ててため息混じりに言う。
「――なんだかえらいことになってるなぁ。梅原さん、大丈夫?」
 並河がやれやれといった様子で近づいてくる。彼は菜摘から事情を聞いているようで、みちるを信じてくれているのが分かる。
「お騒がせしてすみません、本当に私も、何がなんだか分からなくて……」
「江口さん相手か……ちょっとやっかいだな」
「どういうことですか?」
 並河がぼそりと呟いた一言が、少々ひっかかる。男性社員に人気があるというだけで、管理職からそんな言葉が出るのが不思議だった。
「いやー……ここだけの話だけど、以前も大宮事業所で江口さん絡みでいろいろあってね」
 彼は言葉を濁してはいたが、どうやらこういうことらしい。
 数年前、とある女性社員がみちるのように嵌められ、結果的に依願退職になった事件があったらしい。その時も周囲を巻き込んでの大騒ぎになったそうだ。
 美那莉自身は決してその社員を責めることなく、上手く周囲を操って動かしてしまうので、彼女が仕向けたのだと証明するのは困難だったらしい。
 後に分かったことだが、その女性は社内の人気男性社員とつきあっていたので、略奪を目論んだ美那莉が彼女を陥れたのではないかと、秘かに噂になったらしい。
 そういう経緯もあり、美那莉はかなり敵も多いようだが、それ以上に男性社員たちの圧倒的な支持を得ているので、相当分厚い防護壁を周囲に巡らせているも同然なのだ。
 その事件の後、何故か彼女は本社に異動になったので、みちるはその騒動を知らなかった。
「僕は君の人となりをそれなりに知っているから、そういうことをする人間じゃないと分かっているけれど、そうじゃない輩からは疑われていると思うから、十分に気をつけた方がいい。僕も部内や上には説明しておくよ」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
 みちるは深々と頭を下げた。
 その後、並河や菜摘たちのフォローのお陰で、部署内ではそれほど騒ぎにはならず、かえって同情してくれた社員もいた。だからいつもとさほど変わらずに仕事に打ち込めた。
 しかし一歩部署外に出てしまえば、そういうわけにはいかなかった。
「早く辞めろよ、泥棒」
 廊下を歩いていれば、若い男性社員からすれ違いざまに罵られる。
「美那莉ちゃんを泣かせるなんて、絶対許さないからな」
 別な社員からは思いきり睨まれた。数人の男性からは遠巻きにクスクスと笑われる。
 中にはわざとぶつかってはみちるを転ばせる者まで現れた。
「ボーっと歩いてんじゃねぇぞ、窃盗犯」
 菜摘と佐津紀は並河に許可を得て、交替でみちると一緒に行動してくれた。彼女が貶められるたびに庇ってくれて。
「なんなの? あれ。うちの会社の男ってあんなんばっかなの!?」
「あんなあざとい女に操られて、恥ずかしくないのかしら」
 みちるの代わりに二人が怒ってくれていた。
(全男性社員を敵に回してしまったみたい……)
 心臓が痛くて仕方がないし、怖くて泣きたくなったけれど、仕事中なのでなんとか我慢した。
 けれどその内、罵詈雑言は男性だけでなく女性からも飛んできたのだ。
「身のほど知らず!」
「ストーカーなんてサイテー」
「美那莉ちゃんに勝とうなんて百万年早いのよ」
 明らかに窃盗絡みとは思えない内容で罵倒されている。みちるはわけが分からず混乱していた。
「もうほんと、何が起こってるの……?」
 昼休み、いつもの場所で昼食を取りながら、みちるが深いため息をついた。食事なんて喉を通るはずもなく、お茶を口にするのでいっぱいだ。
「――みちる、分かったわ」
 スマートフォンを確認していた菜摘が切り出した。
「何か分かった? 菜摘ちゃん」
「どうやらあの女、みちるが若様にストーカーしてるって言いふらしてるみたい。おまけに、みちるから『私の海堂さんにつきまとうな、って脅されてた』とも言ってるらしいわ。第一報では男性を敵に回し、第二報で女性の敵を増やしてる。小出しで燃料注いで火を絶やさないという手口。汚い! やることが汚いわ」
「え、何それ……」
 みちるは呆然とする。当然ながらストーカーも脅迫も身に覚えがない。
「それを『今まで誰にも言えなかったんだけど……』って、ずっと我慢してましたという体で言うから、みんな同情して信じちゃってるみたいよ。……あの女、会社辞めて女優になった方がいいんじゃない?」
 やはり美那莉はみちると衛司のことを知っているのだ。ことごとく菜摘の危惧したとおりになっていくので、みちるは場違いと分かってはいても、少しだけ感動していた。
(私、今なら『名探偵・菜摘の事件簿』が書けそうな気がする……って、そんなこと言ってる場合じゃないけど)
「ねぇねぇみちるちゃん、この噂、海堂さんは知ってるの?」
「分かりません。私、会社では一切連絡を取らないことにしているので、今どこで何をしてるのかも知らないんです」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ? このままじゃ大宮の二の舞だよ? 今すぐ連絡取りな!」
「大丈夫、とりあえず今日の夜に電話するよ。いくらなんでも今日明日で退職、ってことにはならないでしょ」
 みちるはそう言ったものの、心はだいぶ弱っていた。
(衛司くんの声が聞きたい……それに、会いたいな……)
 そう思う気持ちを、なんとか押し込めた。

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