戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第16話

 新島の言ったとおり、そこは京条家にとっては定宿と呼んでも差し支えないホテルのようだ。エントランスに足を踏み入れた途端、チェックインカウンターに辿り着くよりも先に、新島の顔を見るや否やフロントが慌ただしくなった。支配人がほんのわずかながら慌てた様相で登場し、自ら部屋まで案内してくれた。医師を呼ぶかと尋ねられたが、新島はとりあえず様子を見るのでと断っていた。
 通された部屋はオーシャンビューのスイートルームだったが、もちろんそんな景色を堪能する余裕なんてない。
 新島は衛司を寝室のベッドの一つに寝かせる。キングサイズのベッドは大柄な衛司を寝かせてもかなり大きかった。
「熱などはありませんし、脈拍も落ち着いてますので、しばらくすれば回復されるはずです。心配ないと思います」
「そう……ですか」
(心配ないって、そんな……)
 みちるはこの状況をとても不思議に感じていた。
 普通なら、どう考えても救急車を呼ぶ事態である。それなのに新島はそれをせずに、こうして自ら衛司を運んでホテルのベッドで寝かせたのだ。
「あの……新島さん。もしかして……衛司くんがこうなったのって、初めてではないんですか……?」
 新島が慣れた様子で対応していたことや、ホテルの従業員でさえ初めての事態ではなさそうだった雰囲気を鑑みるに、こう結論づけるしかなかった。
「……とりあえずあちらへ行きましょう、梅原様」
 新島がリビングルームへとみちるを誘導した。
(改めて見ると……すごい部屋)
 そこはみちるの知る『ホテル』とはまったく違う様相を呈していた。広さも調度品の高級さも桁違いだ。部屋のそこここに花が生けてあるし、壁際に備えつけられたカウンターバーにはたくさんの酒瓶が並べられていた。
 革張りのソファの前にあるローテーブルにはウエルカムドリンクとフルーツが置かれている。
「梅原様もお疲れでしょう。何かお飲みになりますか?」
 新島が冷蔵庫を開きながら、みちるに尋ねる。
「あ……じゃあ、お水をください」
 みちるが言うと、新島はペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、そばに置かれたグラスに注ぎ、それをローテーブルに置いた。みちるはソファに腰を下ろすと「ありがとうございます」と小声で告げ、水を口にした。
 新島はテーブルを挟んで前のソファに座り、みちるが水を飲み終えるのを待ってから切り出した。
「――まずは、謝罪させてください。今日は朝からずっとお二人のそばにおりました。そのことをあらかじめ梅原様にお知らせしなかったこと、お詫び申し上げます」
 深々と頭を下げた彼を見て、みちるは目を丸くした。
「え、それって……」
「あ、別にストーカーとかそういうのではありませんから。……仕事なんです。私は衛司さんの運転手兼ボディガードなので、車での移動がない時でも、衛司さんの護衛をさせていただいてるんです」
「ボディガード……ですか。全然気づきませんでした、新島さんがいらしたの」
「それでいいんです。デートの時はできるだけお二人の目に留まらないようにしていますので。それで……先ほどの梅原様のご質問についてですが……衛司さんがこのように倒れられたのは、私が知る限り、今日で四度目です。だから私は、衛司さんの護衛というよりはこういう時の介抱役、と言った方が当てはまるかも知れません」
「そんなに……?」
 以前、海堂ホールディングスのビルにトラックが激突する事故があったが、それを目撃した時も倒れたと、衛司自身が話してくれた。それも含めての四回だと新島がつけ加える。
「それはそうと、衛司さんの車、高級車ではありますが、あの方が乗るには少しばかり渋い趣味だと思いませんか?」
「言われてみれば……」
 新島が運転する衛司の車は、国産車ではトップクラスに高級ではあるが、一般的に見れば昔から四、五十代以上の世代が好む車種とされてきた。がっちりした大型セダンで、彼が言うように二十代の男性が乗るには好みが渋いと言われるのも頷ける。
「あの車、乗員保護性能の評価が最高ランクの車種なんですよ。衛司さんが車を買われた時に基準にしたのはただ一つ、『頑丈』なこと。……それが何を意味するか、梅原様ならお分かりになりますよね」
「あ……アメリカでの事故のせい……?」
「えぇ。それだけその事故が衛司さんにとってトラウマになっている、ということです。それこそ、通りすがりに交通事故を目撃しただけで倒れてしまうほど、大きく深く心を抉ってくる凶器と化してしまった。一時期は心療内科にも通ってらしたくらいですから」
(! ……もしかして)
 その時、みちるの頭にとある考えが浮かんだ。少しの逡巡の後、こわごわと口を開く。
「あの……衛司くんが新島さんを運転手に雇ったのは……もしかして、車の運転ができなくなってしまったからですか?」
「……そのとおりです。衛司さんはあの事故以来、ハンドルを握れなくなってしまいました。免許証は一応持ってらっしゃいますが、今はペーパードライバーです」
「そうだったんですね……だから……」
 アメリカにいる時の衛司は普通に運転していたし、また運転するのが好きだと言っていた。だから日本で新島を運転手として従えて登場した彼を見た時、自分で運転をするのが好きだったはずなのに……と不思議で。それも初め彼がエイジだと信じられなかった要因の一つだ。
 でもその光景は、資産家にはよく見られる姿なのだと思っていたのだ。
 まさかそんな事情があったなんて――
「梅原様……いえ、みちるさん。ここからは衛司さんの友人としてお話させてください。少々長くなりますがご容赦を。……衛司さんは一見豪胆で尊大に見えますが、あなたや俺が思っているよりもずっと繊細な人です。繊細で、そしてとても優しい」
「……」
 それはみちるもなんとなく分かる。少なくともアメリカにいた時の衛司はそうだったから。
「衛司さんがアメリカから帰国して体調を回復させた後、受験勉強と並行して何をされたか分かりますか?」
「?」
 質問の意図が掴めずにいたみちるに、新島は続ける。
「――交通事故遺児の支援基金の立ち上げでした。既存の基金もありましたが、衛司さんはもっと支援内容の濃い法人を作ってくれたんです。『俺のように交通事故でトラウマを抱えている子供たちは少なくないだろうから』と。そして……俺は、その法人の事務所で衛司さんと知り合いました」
「ということは……」
「俺は、中学三年生の時に交通事故で両親と姉をいっぺんに亡くしたんです」
 家族旅行の最中さなかに高速道路で事故に巻き込まれ、新島は一人生き残った。衛司は絶望に打ちひしがれていた彼を励まし、そして目をかけてくれたそうだ。
『もし大学まで行きたいのなら支援するから、しっかり勉強しろ。天国で君を見守っている家族に、恥ずかしくない人生を生きるんだ』
 衛司は新島をそう叱咤し、時には遊びに誘ってくれて――二人は、年の離れた友人となった。
 その後、衛司が事故のトラウマで運転ができなくなっていたのを知った新島は、高校を卒業したら彼の運転手になりたい、雇ってほしいと本人に直訴したとのこと。
『それなら、まずは警備会社に入社して、運転手と護衛の訓練を受けるといい』
 衛司は新島のために、京条グループが提携している警備会社への推薦状を書いてくれたそうだ。
 そうして彼は高校を卒業した二年後、衛司専属の運転手となったのだった。
「すみません、俺のことなんて話してしまって。でも俺が衛司さんに感謝している、というのを聞いてほしかったので」
「ううん、聞けてよかったです」
 アメリカ時代の衛司は、ボランティアで子供に空手を教えていた。
『月謝を払えない子供もいるから、僕にできることなら――』
 そう言っていたのを思い出した。
(ほんとにあの頃と変わってないんだね、衛司くん……)
 そう思うと急に切なくなり、みちるの胸がきゅっと締めつけられた。
「ここから先はみちるさんに関わることです。……衛司さんは、あなたの記憶を失っている間も、あのキーリングを大切にしてきました。多分あの人自身も、どうしてそんなに大切なのかは分かっていなかったと思います。でも……以前、衛司さんとおつきあいしていた女性が、キーリングを揶揄したことがあって――」
 いわゆる衛司の元カノが、彼が手にしていたキーリングを見て眉をひそめたそうだ。
『そんなガラクタみたいなキーホルダー、衛司には似合わないわよ。もっとちゃんとしたブランドのものを身につけた方がいいと思うし、そんなの持っていたらこっちが恥ずかしくなっちゃう』
 そう言った彼女に、衛司はその場では何も言わなかった。しかしそれからすぐに自宅まで彼女を車で送り届け、去り際に言ったそうだ。
『たとえそれがガラクタでも安物でも、人が大切にしているものを尊重できないような人間とはこれ以上つきあえない。君とは今日限り別れるからそのつもりで』
 言葉通り、衛司はその女性とはそれっきり会わなかったらしい。
 以前衛司も言っていたが、記憶を失ってもなお、みちるが贈ったものを大切にしてくれていた――そのことに感動すると同時に、どうしても解せない部分もあった。
「衛司くんは、どうして私なんかのことを今でも好きでいてくれてるんでしょう。それが不思議でならなくて。十年のブランクがあっても、キーリングを大事にしてくれたり、記憶が戻るのと同時に私に会いに来てくれたり。さっきのお見合い相手の方、資産家のお嬢さんなんですよね? その方よりも私を選んでくれるなんて、今でもちょっと信じられなくて……新島さんはその理由、分かりますか?」
 先ほどの見合い相手は、世界でもトップクラスの自動車会社、司馬自動車の創業者一族のご令嬢なのだと新島が教えてくれた。確かにお見合いはしたもののあくまでも形式的なものだったという。
『ずっと前から好きな女性がいるので』
 みちるの記憶を取り戻した直後のことだったので、先方にはそう伝え、丁重に謝罪もしたそうだ。
 みちる自身、十年以上衛司のことを引きずっていたわけだが、彼女の場合、突然ぷつりと音信不通になった、というのが大きかった。その衝撃的な出来事が、彼女の感情に消えない爪痕を残していたからだ。
 けれど衛司はそうではない。事故によるトラウマが彼を苛んでいるのなら、当時のことを想起させるであろうみちるのことが、忘れたい嫌な思い出になっていてもおかしくはないのだ。
「実は俺、記憶を取り戻した衛司さんがすぐにあなたを探し始めた時に、聞いてみたことがあるんです。どうしてそこまでみちるさんにこだわるんですか? って。そしたら衛司さん、こう答えました。『ミチルは、俺に希望をくれた女の子なんだ』って」
「希望……?」
「みちるさん、アメリカにいた頃、衛司さんに言ってさしあげたそうですね、『エイジくんの人生はエイジくんのものだ』って」
「……あ」
『エイジくんの人生はエイジくんのもので、それは誰にも奪えないんだよ。それに、たとえどんな生き方を選んでも、私はずっとずっとエイジくんが好きだから』
 祖父の過干渉について話してくれた時、確かにみちるは衛司にこう告げたことがあった。
「多分、みちるさんにとっては何気なく言ったひとことだったんだと思います。けれど当時の衛司さんにとっては、天啓にも等しい言葉だったそうです」
 あの頃の衛司は、その言葉のおかげでずいぶん救われた――彼は新島にそう話したらしい。
 そして今も――救いと癒やしをくれたみちるは、衛司にとっては絶対的な存在なのだと。
「みちるさんと再会して、まだそれほどの時間は経っていませんが、この数週間で、衛司さんは見違えるように明るくなったし、丸くなりました。……そう思いませんか?」
「……」
 実はみちるも、衛司の変化には気づいていた。
 再会した時――正確には会社でその姿を十年ぶりに見た時、衛司を覆っていたオーラはギラギラしていて、鋼の鎧をまとった王者のように見えたものだ。
 けれど今の彼は――以前よりも柔らかい空気に包まれている。ギラギラがキラキラになった。アメリカ時代の衛司が戻って来ているような気さえしたのだ。 
「それだけ、衛司さんにとってあなたは大切で必要な女性なんです。……さっき、みちるさんが車に撥ねられそうになったのを見て、衛司さんは心臓が止まる思いをしたはずです。今、こんな事態ことになっているのがその証拠です」
 一旦話を区切った新島は寝室の方を見つめた。みちるも釣られてそちらに目を遣った。衛司はまだ起きる様子はなさそうだ。
「――ただでさえ、十年前から事故のことで苦しんできたのに、好きな女性がそんな目に遭って亡くなってしまったら、今度こそ衛司さんは壊れてしまうんじゃないか、って、俺は思います」
(もう、ほんとに……)
 ――新島の言うとおり、なんて繊細で優しい人なのだろう。
 衛司がかつて身につけていた鋼の鎧は、その内に秘めた彼の脆さを覆い隠すものだったのだろう。みちるのことを思い出したことで、彼はそれを脱ぎ捨てたのだ。
 ――彼女が、どんな自分でも受けとめてくれると信じて。
「……っ」
 みちるの中で今、完全にエイジと衛司が一つになり……その瞳からは一筋の涙があふれ、しずくとなって膝の上に零れ落ちた。

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