戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第11話

「ごちそうさまでした、美味しかったです」
「あれだけ美味そうに食べてくれたら、俺としても連れて来た甲斐がある」
 レストランを出たところで、みちるは衛司に頭を下げた。自分の分を支払おうと思ったけれど、あっさり断られてしまったのだ。
 メインディッシュのビーフシチューは、衛司が太鼓判を押しただけあって、本当に舌がとろけそうなほど美味だった。
 みちるが食べたことのある家庭的なシチューではなく、完全にステーキライクなそれだったのには驚いたが。
 肉がかたまりで入っていたのだが、ナイフを入れるとスッと切れた。口の中でホロホロとほぐれてとても柔らかかった。そもそもビーフシチューにナイフを使うなんて未だかつて経験したことなどない。
(じゃがいもとかにんじんとか、ゴロゴロ入ってないんだもん)
 野菜はシチューで煮込まれてはおらず、ハンバーグのガルニと同じで、傍らに添えてあったのだ。
 デザートはパリパリのクラクランがあしらわれたフランボワーズムースで、こちらも甘酸っぱくて美味しいのひとことだった。
「この後はどこへ行きたい? みちるの好きな場所へ行こう」
 車まで戻ると、衛司が尋ねてきた。
「……私、デートするとは言ってません」
 高級ランチをごちそうになっておいて、何を言うのだと責められそうだが、これくらいの抵抗は許してほしい。すんなり衛司の言いなりになるのがなんだかシャクなのだ。
「そんなこと言わないでくれ。十年ぶりの再会を噛みしめたい。……もう少し一緒にいさせてほしい」
 意外にも、衛司があっさり素直にお願いしてきたので、みちるは少し驚いた。そこまで言うのならと考え直し、真剣に考える。
「……じゃあ――」
 みちるが口にした瞬間、衛司のスマートフォンが鳴った。
「あー……ごめん、少し待っていてくれ」
 彼はジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、みちるから少し離れたところで電話に応答する。
「もしもし――」
 話の内容は聞こえないけれど、困ったような表情でフランクに対応している。会社関連ではなさそうだが……
「梅原様」
 手持ち無沙汰でいると、車のそばで待機していた運転手の新島が声をかけてきた。突然のことに、彼女は驚きの声をあげる。
「は、はい?」
「いきなりで申し訳ございません。衛司さんのことですが……梅原様が困惑されているほど、あの方の本質は昔と変わっていないと思います」
「え……」
 彼の思いがけない言葉に、みちるは目を見開く。
「私が衛司さんと知り合ったのは八年前で、残念ながらアメリカ時代のことを存じてはおりませんが、それでも分かります。あの頃から……今も、衛司さんはとてもお優しい方です」
 新島が衛司を語る表情はとても柔らかい。
 彼は恐らく二十代前半だろう。知り合って八年なら、彼が高校生か中学生の頃からのつきあいということになる。
 新島が運転手を務めるにあたり、どんな経緯があったのか知るべくもないけれど、衛司をよほど信頼しているのだろうなとみちるは思う。
「――海堂さんのこと、尊敬してらっしゃるんですね」
「尊敬もですが……感謝、しています」
「感謝?」
 何にだろう? ――問いかけようとした時、通話を終えた衛司が眉根をひそめながら戻って来た。
「待たせてすまない、みちる」
「あ、お仕事か何かが入りました?」
 彼が申し訳なさげに謝罪の言葉を告げてくるものだから、てっきり予定が入ってしまったのかと思う。それならばここで失礼しようと身構えると、彼がかぶりを振った。
「そうじゃない。母からの電話だったんだが……今、割と近くのカフェにいて、どうしてもみちるに会いたいと言ってきたんだ」
「えぇっ、む、無理ですっ」
「そう言うと思ったから、一応断っておいた。ただ、母から伝言を預かった。『近い内に一緒にお食事しましょうね、みちるちゃん』だそうだ」
「お母様、私のことご存じなんですか?」
「話はしてある。……言ったろ? 記憶を取り戻して初めて口にした言葉が君の名前だったと。その後、散々母から聞かれたんだ。『みちるって誰なの!? 彼女? 婚約者?』と」
 目を輝かせて食いついてくる母親に、衛司はたじろいだそうだ。それを想像して、みちるはクスクスと笑う。
「楽しそうなお母様ですね」
「そうか? 年甲斐もなくはしゃぐ母親で、時々困る」
「海堂さんがすごく落ち着いてらっしゃるから、相対的にそう見えるのかも知れないですね」
 アメリカにいた頃から、衛司はたたずまいが落ち着いていた。今だって、会社で注目されても動じる様子もなく冷静沈着に見えるので、元々の気質なのだろう。
 会社での様子を思い出しながら何気なく口にすると、衛司はいきなり眉をひそめた。
「どうして『海堂さん』なんだ? みちる」
「え?」
「前みたいに『衛司く〜ん』って、呼んでいいんだからな?」
『衛司く〜ん』のところだけ、やたらベタベタと芝居がかった口調で言うものだから、みちるは思わずカッとなる。
「そっ、そんな言い方してません! ……それに、十年前と今では立場が違いますし」
「立場? 会社での立場か? それが今の俺たちの関係に影響するとでも? 俺が、みちるにそう呼んでほしいと言っているのに?」
 衛司は、一点の淀みもない声音と迷いのないまなざしで、きっぱりと言い放つ。みちるが彼に対してずっと感じている、困惑だとか遠慮のようなものは、彼にはまったくないらしい。
「……」
 それがとても眩しくて、そして少し照れくさくて反応に困ってしまう。みちるは少しの逡巡を経て、ぼそりと告げた。
「……じゃあ、『衛司さん』」
「……」
 衛司はツーンと拗ねてそっぽを向く。意地でも返事はしない、という意思表明だ。
(――エイジくんって、こんな駄々っ子だったっけ……?)
 彼の態度に呆気にとられるのと同時に、喉の奥から笑いがこみ上げてくる。
 会社では『一分の隙もなくて完璧すぎる男』なんて声も聞こえてくるほどの、洗練された立ち居振る舞いを見せるらしいのに。意外すぎる今の仕草を、会社の人たちが見たらどう思うだろう。
 こんな姿は、アメリカですら見たことがなかった。それなのに、今の衛司を見ていたらなんだか懐かしい気持ちが湧いてきて、おかしくてたまらなくなった。
 みちるはクスクスと声を殺してひとしきり笑うと、衛司の顔を覗き込んで言った。
「……衛司くん」
 みちるの中で、アメリカでのエイジと今の衛司が半分ほど重なった瞬間だった。
 たちまち衛司の顔が明るくなる。
「うん、やっぱりみちるから呼ばれるならそれだ」
 満足げに頷くと、彼はそばに待機していた新島に目配せをした。新島が車のドアを開いた後、衛司がみちるの背中に手を添えた。
「みちる、どこへ行きたい?」
「じゃあ……すみません、新島さん」
「はい?」
「私、ドライブに行きたいです。おすすめのコースとかありますか?」
 みちるは腹をくくる。どうせ一緒に出かけるなら、車を持っていないみちるが自分では行けないようなところに行ってみたい――そう思ってあえて新島にお願いしてみた。
「――かしこまりました。私の知る限りの景色のいい場所にお連れいたしますね」
 話を振られた新島は戸惑うことなくにっこりと笑い、二人が乗りこんだ後、後部座席のドアを丁寧に閉めてくれた。
 車は静かに発進したかと思うと、一番近いインターチェンジから高速道路へと入り、しばらく走った。
 サービスエリアの展望スペースから見た海はダイヤモンドを散りばめたようにきらめいていた。
 高台から望む半島の住宅街の眺めも悪くない。
 森林の木立の中から見上げる梅雨入り前の空は、どこまでも澄んだ青だ。
 どの景色も健康的な美しさでもって、みちるをリフレッシュさせてくれた。
 どこへ行っても衛司はスマートにエスコートしてくれて。それがアメリカ時代の彼とだぶるので、みちるは新たな困惑に見舞われた。あの頃の衛司と一緒にいるような気になってしまう。
(やっぱりこの人は“エイジ”くん……なんだよね……)
 この時点でもまだ、目の前の衛司があの頃の衛司だと認めたくない気持ち――というよりは、意地の欠片が心の奥底に残っていて、それを頑なに手放したがらない自分がいるのだ。
 認めてしまったら、何かが崩れていきそうな気がして怖かった。
 それでも衛司と一緒にいるのは楽しいと思えたし、何よりときめいた。

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