戻ってきた初恋はバラの香り~再会した御曹司の豹変ぶりに困惑しています~

沢渡奈々子

第7話

     * * *
     
「うわっ、みちる目が腫れてるじゃない。どしたの?」
 朝、出勤するなり菜摘がギョッとしたような声を上げた。
「ん……昨日眠れなくて」
「何かあったの?」
「そういうわけじゃない、けど」
 言葉尻を濁らせるみちるを訝しく思ったのか、菜摘はさらに突っ込んできた。
「失恋でもした?」
 正解では決してないのに、何故かギクリとしてしまう。まるで後ろめたいことでもあるかのように、慌てふためいてしまった。
「ち、違うよ! 失恋なんてしてないから!」
(何慌ててるの? 私ってば……)
 明らかに様子がおかしいのははたから見ても分かるのに、菜摘はそれ以上は触れないでいてくれた。
 みちるが何も話せないのを分かってくれたのだろう。
「ならいいけどさ。寝不足で倒れないようにね。……今日金曜だけど、社食やめて会議スペースでお昼食べる? そしたら少しでも昼寝できるし」
「大丈夫だよ、コーヒー飲むし!」
 みちるが力強くサムズアップしてみせると、菜摘がクスクスと笑った。
「顔の様子とポーズが合ってないから。……まぁ、何か困ったことがあったら私とか佐津紀さんが相談に乗るからね」
「ありがとう。その時にはがっつり頼るから」
「おはよう〜……って、何みちるちゃん、まぶた腫らして。失恋でもしたの? 今日社食やめとく? 愚痴なら聞くわよ?」
 佐津紀までもがみちるの顔を見るなりそんなことを言ってきたので、二人とも噴き出してしまった。
 
 菜摘や佐津紀が気を利かせて言ってはくれたが、せっかくの金曜日なので、昼食はいつも通り社員食堂へ赴いた。
 みちるはあまり食欲がなかったけれど、ただでさえ寝不足なのでせめてエネルギーは摂取せねばとB定食を頼む。佐津紀や菜摘に心配をかけたくなかったのもあった。
「そういえばさ、例の彼、うちに出向してからすでに二桁の女子を振ってるらしいわ。しかも中盤の方の二桁」
 佐津紀が切り出すと、菜摘が目を丸くした。
「中盤の二桁ってことはざっと五十人近くってこと? マジですか? すごい! さすが若様!」
「歓迎会でも誰にも連絡先教えず、どれだけアプローチされても誰もお持ち帰りしないから、やっぱり婚約者がいるんじゃないか、って」
「……っ」
 寝不足の原因を話題に出され、みちるは言葉に詰まった。
「? どうしたのみちるちゃん」
「い、いや……なんでもないです……」
 みちるが黙り込んでいるので、佐津紀が心配そうに顔を覗き込んでくる。みちるが苦笑いでかぶりを振ると、今度は菜摘がとんでもないことを聞いてきた。
「実はみちるも若様に振られた内の一人だったり……?」
 それは的外れなのか鋭すぎるのか判定しづらい質問だった。けれどみちるをあたふたさせるのには十分で。
「っ、そ、そんなわけないでしょ!? 彼に近づいたことすらないんだから!」
 小さな声だったが、きっぱりとそう告げた。実際には昨日会ってはいるのだが、彼女から近づいたりしていないのは確かなので、嘘をついたことにはならないだろう……多分。
「だよねぇ……あの人、永嶋雅紀風じゃないもんねぇ」
「あのね……私別に、永嶋雅紀そんなに大好きってわけじゃ……」
「あ、噂をすれば」
 やたら永嶋にこだわってくる菜摘に、特に彼の大ファンというわけではないと伝えようとしたが、佐津紀の声に、二人とも会話を止めた。
 佐津紀の目線を追うと、食堂の入り口に人だかりが見えた。その中央には、今話題にしていた人物が。
(っ!)
 大勢の男女を引き連れているその姿は、昨夜よりもさらに輝きを増している。まるで薄皮一枚剥いだかのようだ。
 昂然としていて、何にも媚びる必要のない風格がある。
 恋慕や羨望や嫉妬――様々な種類の視線が彼の全身にまとわりつくが、それをいとも簡単に一掃できるほどの鋼鉄の鎧をまとっているようにすら見える。
 セレブならではの品はあるけれど、儚さだとか繊細さのかけらも見当たらない堂々としたたたずまいに、みちるはそっとため息をつく。
(やっぱりあの人がエイジくんなわけない。顔は……よく見たら似てるかもしれないけど、でも……)
 目鼻立ちは確かに愛しかった彼に似ている気がする。けれど、持っている雰囲気や立ち居振る舞いがあまりにも違いすぎるのだ。今、視界に入っている男と、みちるの記憶に残っている彼のイメージが、どうしたって重ならない。
 同じパズルの絵なのに、ピースの形が違うような感覚だ。
 みちるは無言でかぶりを振り、視線をB定食に戻した。
 その刹那――
「……?」
 従業員で埋まっている社食の遠くから、強烈な視線を感じた。顔を上げると、彼がこちらを見ている。
(っ、な、何……?)
 明らかに自分を見ているのだろう眼差しに気圧され、慌てて目を逸らしてしまう。
「あ、若様がこっち見てる」
「知ってる人でもいるのかしらね」
 菜摘がスパゲティをフォークで巻き取りながら、弾んだ声で言うと、佐津紀が鯖の味噌煮に箸を入れて答える。
 もう一度だけ顔を上げると、また彼と目が合った。次の瞬間、射貫くような目がフッと緩んだ。甘さを含んだ眼差し、上がった口角――確かに彼は笑った。
 普通の女性なら、それだけで黄色い声を上げてしまうくらいの破壊力がある笑顔だった。実際、食堂の一部からどよめきが起こったほどだ。
 しかしその表情がたった一人に向けられたものだと知ったら、女性たちは別な色の声を上げるに違いない。
(……今まで感じてた視線は気のせいじゃなくて、もしかして……。いやいやいや! 偶然偶然!)
 あくまでも他人事にしたかったみちるは、何も言わずに顔を伏せ、食事に集中したのだった。
 
「はぁ……疲れた。もう土日は寝て過ごす!」
 今日が金曜日でよかったと、みちるはしみじみ思いながら最寄り駅で電車を降りた。
 昨日から今日にかけて、思いがけず精神を削られる出来事があったので、疲労がいつもの三割増しだ。あれから会社で声をかけられたりなどしなかったが、内心ヒヤヒヤしていたので無事に一日を終えたことに安堵のため息をついてしまった。
 会社で彼と接触しようものなら、誰に見られるか分からないし、下手な詮索をされかねない。そんな命がいくつあっても足りないような目に遭うのはまっぴらごめんだ。
 あの初日の異様な人だかりを見ただけでも、彼が本当に特別な人であることは分かる。並みの女性では話しかけるのも許されない雰囲気がプンプンと漂ってくるのだ。
(ほんと無理だ……精神衛生上よくないわ、アレは)
 昨日のことは一刻も早く忘れたい――そう思いながら自宅へ帰った。
 先日作った梅味のサラダチキンが冷蔵庫に残っていたので、冷凍うどんを茹でてチキンと野菜を載せてサラダうどんにし、それを夕食にした。
 そしてシャワーを浴びて歯磨きをして、ベッドに横になりながらスマートフォンをいじる。SNSアプリに友人からメッセージがいくつか入っていたので、それに返信を送った。
 そんなことを繰り返している内に眠気に襲われ、なんとかおやすみの挨拶を送った後、スマホを手放した。
 目を閉じながら思い出すのは、やっぱり昨夜の出来事だ。
(もう……あの人があんなこと言い出すから気になるじゃないっ)
 そんなはずない、という拒絶の黒色と、ひょっとして……という可能性の白色が混ざり合い、頭の中でマーブル模様を描いていく。
(でも、どう考えても私の知ってるエイジくんじゃないんだもん……)
 十年も経てば人は変わるものだが、それにしたって限度があるだろう。
 ピカソの絵画で例えるなら、青の時代とキュビズム時代の作品と同じくらい、みちるの中で彼の印象は乖離している。
 もし、海堂衛司が本当に彼女の知る衛司だとしたら――一体何が彼をああさせたのだろうか。
 そんなことを悶々と考えていたら、いつの間にか眠りに落ちてしまったようで――次に気がついたのは、遠くでチャイムが鳴った時だった。
「んー……」
 うっすらと目を開け、壁にかけられた時計を見ると、もう十時を回っていた。
「うわぁ……十時間以上寝てたぁ。一昨日あまり寝られなかったし、仕方ないや」
 誰にともなく言い訳をしながらベッド脇に座り、腕を上げて伸びをする。その時、インターフォンのチャイム音が鳴る。先ほど眠りの中で聞いたのもこれだったとみちるは思い出した。
「……誰かな。宅配便?」
 みちるは呟きながら立ち上がり、インターフォンの受話器を取る。
「はい?」
『――寝坊だぞ、みちる』
 張りのある低音が彼女の耳に飛び込んできた。
「っ」
(こ、この声は……っ)
 聞き覚えのある声音に、みちるはドキリとする。どうしようかと逡巡した末、ピシリと警戒心をまとわりつかせた言葉を絞り出した。
「な、なんですか……?」
『話がしたい。出てきてもらえないか?』
「っ、わ、私には話すことなんてありません。ひ、人違いですしっ」
 後ろめたいことなど何一つないのに、何故かしどろもどろになってしまう。それでも拒絶の意思を伝えると、向こう側で嘆息する音が聞こえてきた。
『まだそんなことを言っているのか? 仕方がない。とりあえずチェーンをつけたままでいいから、顔を見せてくれ。証明してやる』
「しょ、証明……?」
『俺が京条衛司だと信じられないんだろう? 証明してみせるから、ドアを開けてほしい』
 余裕のある口調にわずかばかりの必死さが感じられ、みちるは困惑した。
(証明って、どうやって……?)
 一体何をしてくるのかと気になって、ひとまずチェーンをかけているからいいかと、みちるは抜き足差し足でドアへ近づく。そうする必要もないのに滑稽だと気づいたのは、ドアまで辿り着いた時だ。苦笑しながらドアスコープから覗くと、当然ながら例の彼が立っている。
 はぁ、と息を吐き出し、意を決すると、ゆっくりと解錠しカチャリとノブをひねった。
「っ、え……?」
 チェーンをかけたままドアを十センチほど開いたその時、にゅっと握りこぶしが隙間に突き出された。
「――これでも人違いだと言うのか?」
 きっぱりとした声と同時に、こぶしからシャランと音を立ててぶら下がったのは――
「そ、れは……」
 傷が入ってだいぶ古くなってはいたけれど、それは紛れもなくみちるが彼にプレゼントした、キーリングだった。
「これで証明できたろ? ……とにかく話をさせてくれ。……でないと、会社で宣言する。『俺たちは十年前からつきあっている』って」
 多分、会社の九割くらいの女子が目をハートにして「喜んで!」と食いつく言葉だろう。けれどみちるにとってそれは半ば嫌がらせになることをこの男は確信しているのだ。それがなんだか悔しくて、くちびるを尖らせたままチェーンを外してドアを大きく開くと、衛司はクスリと笑い、こう言ったのだ。
「その表情……昔とちっとも変わっていないな」

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