【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

最終章 契約書は婚姻届1

犬飼に会った翌日、テレビをつけるとまた、尚一郎が記者に囲まれていた。

「今回の件について一言お願いします!」

「被害に遭われた方々には深くお詫び申し上げます」

そのまま待っていた車に乗り、拒絶するかのようにバタンとドアを閉め、去っていく。

「やっぱりお疲れ、だよね……」

キラキラしていないどころか、くすんで見える尚一郎に悲しくなる。
傍にいられたらきっと、なにかできたはずなのだ。
なのに。



尚一郎は朋香と別れたあと、臨時の役員会を開いた。

そこで、若園製作所の偽装のでっち上げについて証拠をそろえて提出。
達之助に退陣を迫るが、達之助は開き直って今度は、尚一郎にヨーロッパ本社の全権を預けるなどと提案してきた。

尚一郎は追加で、エルピス製薬をはじめ複数の会社に及ぶ詐欺行為や、議員や病院、経済連への汚職の証拠を提出した。
そのうえ、警察にすでに通報済みだったらしく、あえなく達之助は逮捕。
複数の役員や社員の逮捕者を出す。

会社はいまでも捜査を受けており、オシベの信頼は地に落ちた。

新CEOには尚一郎が就き、被害にあった会社への謝罪と救済に尽力しているのだという。



「私はいくら大変でも、尚一郎さんの傍にいたかったんだよ」

テレビの中の尚一郎に話しかけても返事はない。

「さてと。
そろそろ出ないとね」

朋香はすんと一回鼻を啜り、立ち上がった。


あのあと、犬飼に頼んで万理奈との面会許可をもらった。
きっと、尚一郎は万理奈を不幸にし、恨まれることで、自分に幸せになる権利はないと決めつけているのだろうと思った。

――でも万理奈は?

確かに万理奈は尚一郎に酷く怯えていた。
けれど兄である犬飼は万理奈がいまの尚一郎を望んでいるとは思えないと言っていた。

朋香もそう思うのだ。

尚一郎が達之助を失脚させ、明夫の工場を救ってくれたのは嬉しい。

――が、尚一郎が不幸になるのは間違っている。

きっと、万理奈も同じなのじゃないかと思い、確かめにきたのだ。



ドアの前に立つと緊張した。

「……はぁーっ」

俯いてひとつ深呼吸し、顔をあげる。
意を決して朋香は、インターフォンを押した。

――ピンポーン。

家の中にチャイムの音が響き渡る。
ドキドキと妙に速い自分の心臓の音ばかりが耳についた。
けれど、いくら待ってもそれ以外の音がしない。

「お留守、なのかな……?」

もう一度、押してみようかと指を伸ばしたとき。

――カサッ!

「ひっ!」

不意に背後から音がして、飛び上がってしまった。

「どなたですか」

「あ、あの……」

振り返った朋香の顔を見た彼女の顔が、みるみる強ばっていく。

「帰って!
帰ってください!」

手に抱えていた木の枝の山を落とし、顔色を変えた女性は朋香を敷地の外へと押しやっていく。

「その、話を聞いてほしくて」

「尚一郎の話なんて聞きたくない!」

ヒステリックに叫びながら、さらに彼女が朋香を押す。
思いの他強く押され、バランスを崩して朋香は尻餅をついてしまった。

「あ……」

朋香を見下ろす女性の顔は後悔でいっぱいだった。

「突然訪ねてきてすみませんでした。
もう、帰ります」

立ち上がり、朋香が服についた汚れを払い落とす。
その手は尖った石で切れたのか、少しだけ血が滲んでいた。

「……どうやって帰るの?」

集落からかなり離れた山の一軒家なのに、周囲に車はない。

「えっと……。
歩いて?」

曖昧に笑って朋香が返す。
ここへ来るのに乗ってきたタクシーは帰した。
帰るには呼ぶしかないのだが、三十分ほどかかる。

「ばっかじゃないの!?」

「えっ、あっ!」

突然、女性は朋香の手を掴み、家の中へと入っていった。

「その手。
さっさと洗って」

連れていかれた洗面所で土で汚れた手を洗う。
冷たい水が傷に染みた。

「終わったらこっち」

今度はリビングらしきところで傷に女性が絆創膏を貼ってくれる。
怒ってはいるが、どうも逆ギレのようだ。

「タクシー、呼んであげたから。
来るまでの間なら話に付き合ってあげる」

ガツッ、と乱暴に女性――万理奈は朋香の前にコーヒーの入ったマグカップを置き、自分も座った。

「あの。
……尚一郎さんをまだ、恨んでいますか」

「当たり前でしょう!?
あの人のせいで両親は死んだ。
それに、このやけどだって!!」

見せつけるように万理奈が袖を捲る。
そこには酷いやけどの痕が広がっていた。

「尚一郎なんて好きにならなきゃよかったのよ。
そうしたらこんなことにはならなかった。
あなただってそうじゃないの!?」

万理奈の目には怒りよりも悲しみがたたえられていた。
尚一郎を好きになったことよりも、それによってまわりを不幸にしてしまったことを後悔している、そう朋香に確信させた。

「私も後悔しました。
尚一郎さんなんて好きにならなきゃよかった、って」

「そうでしょう?
あの人はまわりを不幸にするだけだから」

万理奈の言葉を否定するように、朋香は何度も首を横に振った。

「違います。
尚一郎さんは私をたくさん、愛してくれました。
つらいことはたくさんあったけど、それでも幸せだったんです。
万理奈さんは違うんですか?」

「それは……」

それっきり、万理奈は黙ってしまった。
かまわずに朋香が続ける。

「尚一郎さん、自分には幸せになる権利はないって言っていたそうです。
私と結婚したのだって、束の間の最後の幸せだ、って」

「……」

「いまの尚一郎さんを知っていますか?
まるで感情のない、機械みたい。
万理奈さんは尚一郎さんがああなることを望んでいたんですか。
これで満足ですか。
私はあんな尚一郎さん、見ているのがつらいです」

万理奈からの言葉なはい。
時間だけが過ぎていく。
そのうち、カサカサと車のタイヤが枯れ葉を踏む音が近付いてきた。

「もう、タクシーが来たみたいですね。
それじゃあ」

結局、万理奈の本心は聞けないのかと心の中でため息をつき、立ち上がる。

「……待って」

椅子を立った万理奈が家の奥へと消えていく。
少しして、小さな紙袋を手に戻ってきた。

「私が焼いたの。
あげる」

「え……」

朋香が戸惑っていたら、さらに押し付けられた。
仕方なく、それを受け取る。

「もう二度と来ないで。
尚一郎の話は聞きたくないの」

追い出されるように家を出た。
最後に見た万理奈は、淋しそうに笑っていた。

タクシーの中で紙袋の中身を確認する。
そこには夫婦茶碗が入っていた。

「【完結】契約書は婚姻届」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く