【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第14話 お姉ちゃん?3

今日は泊まるという侑岐と、帰ってきた尚恭の三人で夕食を囲む。

「あの。
……私は本邸に、戻らなくていいんでしょうか?」

ずっと気になっていた。
尚一郎の出張中、朋香の身分は本邸預かり。

なのに、昨日あんなことがあったとはいえ、尚恭の屋敷でのんびりしてていいのかと。

「朋香さんは昨日あんな経験をされて、それでも本邸に戻りたいと?」

まるで珍しいものでも見るかのように尚恭の、眼鏡の奥の目がぱちくりと一回、大きく瞬きした。

「戻りたくはないですけど。
でも、それが私に命じられたことだったので……」

結局、逃げ出したようになってしまったのは、腹立たしくもある。
いまごろ、自子など喜んでいるのではないかと思うと特に。

「朋香ってほんとにけなげだわ。
尚一郎の嫁にしておくのがもったいないくらい」

「確かに。
私がもう十ほど若ければ、放っておかないのに」

「え、えーっと……」

ふたりにうんうんと頷かれても困る。

「もうあそこに戻る必要はないですよ。
朋香さんには月曜から、私の秘書として働いていただく予定ですから」

「はい?」

にっこりと笑った尚恭が、なにを言っているのかわからない。
自分に、尚恭の秘書をしろと?

「でも私、秘書経験なんてないですし。
そんな」

「なにをおっしゃいますか。
尚一郎と結婚する前は、お父様の会社で社長秘書をされていたのでしょう?
仕事に差異はありません」

「うっ」

そこをつかれると困るが、しがない町工場社長の秘書と大会社社長の秘書では違う。
そもそも、自分がやっていたのは秘書のまねごとだったのだから。

「大丈夫よ、朋香。
あなただったらきっと、立派な秘書としてやっていけるわ」

「侑岐さーん」

ぱちんと侑岐にウィンクされ、思わず情けない声が出てしまう。
そんな朋香に尚恭はおかしそうにくすくすと笑っている。

「まあ、そう気負わずに。
別に、難しいことはなにもないですから」

「……はい」

尚恭は嬉しくてたまらないという風ににこにこと笑っている。
きっと、いつもひとりだろうから、にぎやかな食事が嬉しいのだろうと、このときは思っていた。


食事が終わりリビングに移動して、尚恭はゆったりとブランデーを傾け始めた。
侑岐の前には赤ワイン。
朋香も勧められて戸惑っていると、ホットワインを用意してくれた。

「その。
……家に帰ってはダメですか?」

本邸にいる必要がないのなら、家に帰りたい。
少しでも、尚一郎の気配を感じられる場所にいたい。
それが、朋香の正直な気持ちだった。

「申し訳ありませんが、それは許可できません。
もちろん、ご実家も同じです」

険しい顔で尚恭から返されて、思わずホットワインのカップを握る手に力が入る。

「帰りたい気持ちは重々承知の上ですが、これだけはどうしても許可できません。
その代わり、欲しいものがあれば尚一郎の屋敷から運ばせますので」

「……わかり、ました」

申し訳なさそうな尚恭になにか事情があるのだろうと察し、これ以上わがままは言えなかった。
その代わり。

「その。
……しょ、尚一郎さんの枕が欲しいです」

正直に言ったものの、顔が火を噴きそうなほど熱い。

「尚一郎の枕ですか?
ご自分のではなく?」

「……はい。
尚一郎さんの、枕が、欲しい……です」

使用人が毎日カバーを替えるし、枕自体も手入れされているので、尚一郎の残り香などないのはわかっている。
それでも、なにか尚一郎の代わりになるものが欲しかった。

「朋香ってほんとに可愛いわ!」

「ぐえっ」

赤い顔で俯いた朋香に、飲んだホットワインが噴水にように出そうな勢いで侑岐が思いっきり抱きついてくる。

「やっぱり尚一郎に渡したくなーい」

「ゆ、侑岐さん!
や、やめてください!」

顔中に侑岐から口付けを落とされて途方に暮れる朋香に、尚恭がおかしそうにくすくすと笑っていた。

夜は一緒に寝ると無理矢理、侑岐に同じベッドに押し込まれた。

ホットワインが利いているのか、温かいベッドの中でうつらうつらとすぐに眠くなる。

「あ、尚一郎さんにメッセージ送らなきゃ……」

眠い目をこすり、携帯の画面に指を走らせ始めると、侑岐からくすりと笑われた。

「私と一緒にいても尚一郎のことを考えてるなんて、ほんと、妬けちゃうわー」

「だって」

「なんて送ったの?」

「今日は侑岐さんが来て、いっぱい可愛がってもらいましたって」

侑岐に画面を見せたとたん、ピコピコピコ、と携帯が鳴り出し、ふたりで顔を見合わせてしまう。

「もしもし、尚一郎さん?」

『Hallo,朋香。
侑岐に変なことされてないかい?』

なぜか若干、尚一郎が焦っている気がする。

周囲からはざわざわと人の声が聞こえ、仕事中なのだとうかがわせた。

「変なことって別に……。
あっ、侑岐さん、なにするんですか!?
やだっ、あん」

後ろから侑岐に抱きしめられたと思ったら、むにっと胸を掴まれた。
そのまま、やわやわと揉まれるとたまらない。

『朋香!?
どうしたんだい!』

完全に焦っている尚一郎の声が聞こえる。
その耳元に侑岐の熱い吐息がかかった。

「尚一郎、朋香って意外と着痩せするのね。
胸、結構大きくてそそるわー」

『侑岐!
Ich selbst beruhrt noch nicht!(僕だってまださわったことがないのに!)』

侑岐の手が朋香から携帯を奪い、スピーカーフォンに切り替えられたたとたん、尚一郎の悲痛な叫び声が響きわたる。
なんと言ってるのかわからずにきょんととしてしまう。
しかし、侑岐は呆れたように笑っている。

「なに?
尚一郎、まだ朋香を抱いてないの?
だから甲斐性なしだって言うのよ」

『Halt die Klappe!(うるさい!)
Ist Plflege noch mehr!(よけいなお世話だ!)』

『……うるさいのはおまえだ、尚一郎』

怒鳴る尚一郎の後ろから、崇之の冷たい声が微かに聞こえた。
職場でこれだけ騒いでいれば、確かにうるさいだろう。

「あーあ、怒られた。
心配しなくてもいまから私が朋香をおいしく、いただいておくから」

『Nie verzeihen Sie daraus!(そんなことしたら許さないからな!) 』

プッ、尚一郎の叫びを最後に、侑岐は携帯を切ってしまった。

「あのー、侑岐さん?」

「尚一郎をからかうのって、ほんと面白いわー」

妖艶に微笑む侑岐にするりと頬を撫でられ、思わず喉がごくりと鳴った。

「心配しなくてもなにもしないわ。
朋香はとっても可愛いけど、そういうこと、無理強いしたくない」

ふふっと笑って頬に口付けしてくるあたり、余裕だなと思う。

携帯が再びピコピコと鳴りだし、朋香が取るよりも早く、侑岐が出てしまった。

「うるさいわねー。
私と朋香の時間を邪魔しないでよ」

スピーカーになっていないのでなんと言っているのかはわからないが、尚一郎が盛んに怒鳴っているのはわかった。

「はいはい。
知らないわ、そんなこと。
じゃ」

ピッ、通話を終えて渡された携帯は、すでに電源が切ってある。

「夜はゆっくり寝ましょう?
朋香のその酷い顔色、なんとかしなきゃ。
尚一郎には明日、起きた頃に電話したらいいわ。
ちょうどそれくらいに寝るはずだし」

「はい」

にっこりときれいな三日月型に口角を上げて微笑む侑岐に、つい、ぽーっとなってしまう。

促されて布団に潜り込むと、ぎゅーっと侑岐に抱きしめられた。

「私じゃちょっと、役者が足りないとは思うけど。
枕よりは尚一郎の代わりになると思うわ」

ぱちんとウィンクされ、恥ずかしくて頬が熱くなっていく。
それでも、その夜は夢も見ないほど、ぐっすりと眠れた。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品