【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第13話 花嫁修業4

途中でとんだ茶会に呼ばれて邪魔が入ったものの、蔵の掃除はどうにかその日のうちに終わらせた。

台所でひとり、冷えたご飯を食べていると、音もなくやってきた杉谷に飛び上がる思いがした。

「旦那様が身体を洗ってほしいとのことです」

「はい?」

ぱりんと囓ったたくわんをバリバリとかみ砕きながら、まじまじと杉谷の顔を見てしまう。

……背中を流せってことなのかな?
なんか、やだな。

けれど、出掛かった言葉はたくわんと一緒にごくんと飲み込んだ。

「わかり、ました」

「では」

慌ててお茶で口をすすぎ、背中を向けた杉谷のあとを追う。
浴室まで来ると、衣装盆を渡された。

「旦那様は中でお待ちです。
これに着替えていってください。
ああ、下着はつけないこと」

「え?」

完全に困惑している朋香を残して、杉谷は無表情に出て行った。
トン、引き戸の閉まる堅い音が、完全に質問を拒絶しているかのようだ。

確認した衣装盆の中には、ぺらぺらの薄い着物が入っている。

いや、着物といえるのだろうか。

白の木綿でできたそれは袖無しの、甚平の上着だけのような湯着だった。

「下着なしでこれって、完全に見える……」

尚一郎にすら見せたことのない身体を、薄い布一枚あるとはいえ、達之助に見せるのは嫌だった。

「早くせんか!」

「は、はい!」

まごまごと躊躇う朋香に達之助の怒号が飛ぶ。
やりたくない、が、従わなければ、尚一郎の立場が悪くなるだけ。

……なんだって耐えるって決めたんだもん。
意を決して朋香は、着物の帯に手をかけた。


「お待たせしました……」

無駄な抵抗と知りながら、裾を引っ張って尻を隠す。

浴室内は黒のタイルで覆われていた。
そこに温泉旅館のような大きな、桧の風呂。
足下につけられた明かりが室内をほのかに照らす。

中は湯気が充満していて、それでなくてもぴちぴちな着物を肌にぴったりと張り付かせた。

「はようせい」

「失礼します……」

桶を手に、こちらに背を向けて椅子に座る、達之助にお湯をかける。

……振り向かないなら、見えないかもしれない。

ほんの少しだけ、ほっとした。

準備してあった手ぬぐいに石鹸を塗りつけ泡を立てる。
おそるおそるたっぷりと泡の立った手ぬぐいで、朋香は達之助の背中を洗い始めた。

「昼間は自子に恥をかかせたそうだな」

「……申し訳ありません」

恥をかかせた?
恥をかかせられそうになったのは朋香の方だ。

「酷く傷ついておったぞ?
どうしてくれる?」

「……申し訳、ありません」

謝罪の代償になにかしろと言われても、絶対に約束してはいけないと尚一郎から何度も言われた。
だからいまは、ひたすら謝ることに徹する。

「謝るだけか」

「申し訳、ありませんでした」

「あれの入れ知恵か」

ふん、不機嫌そうに達之助が鼻を鳴らし、重苦しい沈黙がその場を支配した。
黙々と達之助の背中を洗い、お湯をくんで泡を流す。

「終わりました」

「は?
まだだろう?
儂は身体を洗えと言ったはずだ」

達之助が振り返り、思わず着物の裾を思いっきり引っ張る。
ねっとりとした視線が、全身に絡みついてきて気持ち悪い。
にたにたと笑う達之助の股間はすでに、興奮しきっていた。

「ほら、ここも洗わんか」

「い、いや」

朋香の手を取り、強引に導こうとする達之助の手を払いのけると勢いで、先程流した泡で塗れた床で足が滑り、こけてしまった。

「ここもきれいにしろと言っているだろう?
ん?」

慌てて裾を引っ張り、見えているであろう秘所を隠す。
立ち上がろうとしたら、目の前に達之助の股間があった。
鼻先に突きつけられた醜悪なそれに顔を背けると、ぐいっと後ろあたまを押さえつけてくる。

「ほれ、やらんか。
そういえば海外は、テロとかなにかと物騒だ。
あれが無事に帰ってくればいいがな」

卑怯だと思う。
尚一郎の無事を盾にとって、こんなことを強要するなんて。

「そうそう、儂の子を孕んであれの子供として生んで育てるのなら、おまえもあれも認めてやってもいい」

好き勝手言う達之助に、口を真一文字に結んで嫌々と小さく首を振るが、あたまを押さえ込む力は弱まるどころかますます強くなっていく。
唇にふれそうなそれに、思わず、目をつぶった。

どんな試練も耐えてみせると誓った。
尚一郎の不利になるようなことは絶対にしない、と。

けれど、こんな辱めは耐えられない。

それに、達之助に穢された身体で、尚一郎の前で笑える自信がない。

なら、いっそ。

――舌噛んで、死ぬ。


「お待ちください!
旦那様はただいま、入浴中です!」

「火急の用だと言っているだろう!?」

「ですから、誰も入れないようにと!
お待ちください、尚恭様!」

「当主!」

聞こえてきた言い争いの声とともに、がらり! と勢いよくドアが開いた。

「なにを、やっているんですか」

低い低い尚恭の声に、一気に浴室内の温度が、氷点下まで下がった。

「身体を洗ってもらっていただけだが?」

きわめて冷静に答えているようで、達之助の手は怒りでぶるぶると震えている。

「そんなところまで洗ってもらわなければいけないなど、当主はもう介護が必要ですね」

「尚恭!」

顔をどす黒いほど真っ赤にし、激高している達之助にかまうことなく朋香の傍に膝をつき、尚恭は着ていたコートを脱いで朋香をくるんだ。

「私の可愛い娘を虐めないでいただきたい。
あなたにとってはその辺の小娘でしかないんしょうが、私にとって朋香さんは尚一郎から預かっている、大事で可愛い娘なんですから」

そっと、尚恭に肩を抱かれて立ち上がった。
促されて浴室を出ようとしたとき。

「許さんぞ、なおたかぁっ!
……うっ!」

どーん、派手な音に振り返ると、どこからともなく桶が降ってきて、達之助のあたまにパコンと小気味いい音とともに被さった。

「申し訳ありません、少々足が滑ったようで」

くすくすと笑っている尚恭に、悪びれる様子はない。

つかみかかろうとした達之助の足下に尚恭が桶を滑らせ、まんまとその中に踏み出した足を突っ込んで転んだらしい。

「行きましょう、朋香さん」

「待て、尚恭!
ううっ……」

床に転がったまま、打ち付けた身体の痛みにうなる達之助を残し、再度、尚恭に促されて浴室を出る。

そのまま、かばうように肩を抱かれて屋敷の中を進んでいく。
裏口まできて、待機してあったBMWに乗せられた。

「すみません、遅くなって」

ふるふると黙って首を振り、かけてもらっていたコートの襟を掻きあわせる。

あのままだったらどうなっていたのかわからない。
尚恭に助けられなければきっといまごろ、達之助から耐えられない辱めを受けていた。

一気に、恐怖が身体を支配する。
ガタガタと震えが止まらない。

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