【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第13話 花嫁修業1

「朋香、あーん」

うっとりと眼鏡の奥の目を細め、差し出されるクッキーを素直に口に入れる。

「Mein Schatz」

ちゅっ、ちゅっ。

頬に、額に、瞼に……そして唇に落とされる口付けがくすぐったく、それでいて嬉しい。

膝の上に載せられ、尚一郎に溺愛される。

ただ、それだけで朋香は幸せだった。

「朋香。
今晩……」

〝君を抱いていいかい?〟
 
こっそりと耳元で囁かれた言葉に、一気に身体中が熱くなった。

ずっと、タイミングが合わなくて、尚一郎とはいまだに結ばれていない。

やっと、という思いもある。
それに尚一郎に、しかも改めて言われると、乙女にでもなったかのように顔から火が出そうになった。

「ダメかい?」

じっと、尚一郎が眼鏡の向こうから見つめている。
ふるふると首を振り、尚一郎の首に手を回した。
そっと自分の口をその耳に近づけ、口を開きかけたとき。

「失礼します」

無表情に野々村が入ってきて、慌てて離れた。

いつもいちゃついてるところを見られてるとはいえ、声をかけられるとやはり恥ずかしい。

「なんだい、野々村?」

こほんと小さく咳払いし、朋香を膝に乗せたまま姿勢を正した、尚一郎の顔が少し赤い。

……尚一郎さんだって恥ずかしいんだ。

そう気付いて小さくくすりと笑いが漏れた。

ちらりと視線を尚一郎が向け、なんでもないと笑って誤魔化す。

「本宅より使いがございました。
本日の夕食、一緒にせよとのことでございます」

「ああ、そう……」

がっくりと尚一郎の首が落ちたが、かまうことなく野々村は一礼して出て行った。

「……今日もダメ、みたいだね」

悲しそうに瞳を潤ませ朋香の髪を撫でる尚一郎に、苦笑いしかできなかった。



車は長い竹林を抜けて右に曲がった。
今日、尚一郎を呼んだのは尚恭らしい。

「きっと、このあいだの件だと思うんだよね」

このあいだの件とは、朋香を迎えに来るために、達之助にあたまを下げた件のことだろう。
その際、尚一郎はなんでもすると約束したようだから。

しかし、ならば呼ぶのは達之助のはず。

腑に落ちないまま屋敷に着くと、尚恭に出迎えられた。

「ようこそ、朋香さん。
……と、尚一郎」

「……朋香からその手を離していただけませんかね」

思いっきりハグしてきたうえに、朋香の肩に手を回し、中に案内しようとする尚恭と、尚一郎の視線がぶつかってバチバチと火花を散らす。

「義父が義娘と仲良くしたいんだ。
なにが悪い?」

「悪いに決まってます」

朋香の肩を抱く、尚恭の手を思いっきり振り払い、尚一郎は朋香を自分の腕の中に抱き寄せた。

「朋香にはふれないでいただきたい」

「おお、怖い」

思いっきり冷たい視線を尚一郎は送っているが、尚恭は堪えてないどころか相手にしていない。
やはり重ねた、年の分の違いなんだろうか。


夕食は和やかに……などともちろんいくはずもなく。

「朋香さんはとても美味しそうに食べられますね。
見ていて気持ちいい」

「そうですか?」

「……朋香に気安く話しかけないでいただきたい」

にこやかに話しかけてくる尚恭に返事をするのだが、すぐに尚一郎が冷たく切り捨てる。
しかも、尚恭が年をとってナイスミドルになった尚一郎を想像させるせいで、朋香が若干浮ついているので、機嫌が悪い。

「独占欲はみっともないぞ、尚一郎」

「独占欲もなにも。
私はあなたが朋香と口をきくのが嫌なだけです」

尚一郎は盛んに威嚇しているが、尚恭は常に笑顔をたたえているだけ。

全く適っていない。

その後も、尚恭は盛んに朋香に話しかけるので、曖昧な笑顔で返事をする。

別に達之助のように不快な話をしてくるわけではないのでいいのだが、尚一郎が苦々しげに見ているので、心の中ではずっと苦笑いをしていた。

「ああ、尚一郎。
おまえ、来週からしばらく、フランスに行ってもらうから」

リビングに移動してのコーヒータイム。
カチャリ、と手にしていたカップをソーサーに戻し、尚恭はにっこりと笑った。

「急、ですね」

尚一郎もカップをソーサーに戻し、姿勢を正す。

「ヨーロッパ本社の経営不振はおまえの耳にも届いているだろう?
立て直すまでは戻ってくるなとのCEOからのお達しだ」

「それが、このあいだの制裁ですか……」

……はぁーっ、と尚一郎の口から深いため息が落ちる。

立て直すまでとはどれくらいかかるのだろう?
数日とかいう単位ではないのはわかるが、まさか年単位?

「大変だったんだぞ?
当主はすぐに感情的になって、言いたい放題だからな。
その程度に落ち着いたことに感謝しなさい」

「いっそ、勘当にでもしてくれた方が、清々したんですけどね……」

……はぁーっ、と再び落ちるため息に、思わず尚一郎の手を掴んでいた。
重なった手は尚一郎の方からも握り返してくる。
見上げると視線のあった尚一郎が弱々しく笑って、胸がずきんと痛んだ。

「それから。
おまえがフランスに行っているあいだ、朋香さんは本邸預かりになる」

「なんですか、それは!」

勢いよく立ち上がった尚一郎だが、すぐに我に返ったかのように座り直した。

……本邸預かり、ってどういうことなんだろう?

不安で不安で、思わず尚一郎の顔を窺ってしまう。

「本邸で、押部の嫁にふさわしくなるように再教育するそうだ」

「そんなこと許しませんよ、私は」

「……この結果如何によっては、朋香さんを押部の嫁として正式に認めるそうだが?」

「……っ」

尚一郎の顔が、苦しげに歪む。
握られた手は痛いくらいで、尚一郎の苦悩がよくわかった。

「大丈夫ですよ、尚一郎さん」

精一杯、笑顔を作って尚一郎を見上げる。

「私、認めてもらえるように頑張りますから。
そんなに心配しなくて大丈夫です」

「朋香……!」

次の瞬間、痛いくらいに尚一郎に抱きしめられていた。

「なるべく早く、片付けるから。
ごめんね、こんなことになって本当にごめん」

「しょ、尚一郎さん!
痛い、痛いです!
それに、お義父さんが見てますから!」

迫ってくる尚一郎の顔を慌てて手で抑えて抵抗する。
それに、尚恭がにやにやと笑って見ていて、赤面しそうだ。

「なんであなたがいるんですか。
さっさと出て行ってくれないですか」

「……ここは私の屋敷なんだが」

苦笑いの尚恭に、やはり朋香も苦笑いしかできなかった。

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