【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第9話 婚約者ってなんですか?1

隣に座る、尚一郎の手をそっと握る。
彼は強ばった顔だったが少し笑ってくれた。

本邸から呼び出された日曜日。

朝から、スタイリストに髪をセットし化粧をしてもらい、着物を着た。

着物は前回、呼び出されたあとに大急ぎで尚一郎が用意してくれたものだ。


本邸に着くと前回と同じで、裏口らしきところから中に入る。

前はどうして家族なのに裏口なのか不思議だったが、尚一郎の立場を理解して朋香は腹立たしくなった。
要するに、あの祖父母は尚一郎を、使用人かなにかと同じくらいにしか見ていないということだ。

「尚一郎です」

座敷ではこのあいだと同じで祖父母が並んで座っていた。
今日も、父親は不在らしい。

「相変わらずみっともないあたまだな」

「申し訳ありません」

祖父――達之助の言うことに腹が立つが、努めて平静なフリをした。
今日も尚一郎から尋ねられたこと以外、口を開かないように約束させられたのもある。

「まあいい。
まだその女と別れてないのか?」

横柄な達之助の物言いに、尚一郎は平然とした顔をしている。

「朋香と別れる理由がありませんので」

「理由ならあるだろう。
その女は不貞を働いた」

勝ち誇ったように達之助に言われ、さすがに冷や汗をかいた。
キスまでとはいえ浮気は浮気。
それを理由に出て行けと言われても反論はできない。

「朋香が不貞を?
どこにそんな証拠があるのですか?」

うっすらと微笑み、冷ややかな視線を尚一郎が送り、達之助は顔を真っ赤にしてぶるぶると震えだした。

「井上という男と何度も逢瀬を重ねていたのは知っているぞ!」

「ああ、井上さんですか。
彼は朋香の車を買った営業担当で、車のことでお世話になっていただけですよ。
そうだよね、朋香」

朋香の方を向いて祖父母にわからないようにぱちんとウィンクされ、尚一郎にはなにか策があるんだとすぐに気付いた。
うんうんと黙って頷くと、それでいいと尚一郎が小さく頷いた。

「ほら、朋香もそう言ってますし。
なんなら、井上さんに確認をとってもいいですよ」

「そんなことができるはずがないだろう!
井上はもう……!」

勢いで言いかけて、慌てて達之助が口をつぐむ。
そんな達之助に尚一郎はずっとうっすらと笑っていて、怖い。

「もう、なんですか?
なんなら、ここにお呼びしてもいいんですよ」

朋香は考えもしなかったことだが、もしかしたら雪也はあのあと、借金の返済ができなくてヤクザに殺されるどころか、達之助に口封じとして始末されるところだったんじゃないだろうか。
尚一郎はこういう使い道も考えて、雪也を生かしたんじゃ。

そんな考えが浮かんできたが、慌てて深読みしすぎだと追っ払う。

「うるさい、うるさい、うるさい!
黙れ、尚一郎!」

達之助の顔がどす黒いくらいに赤くなって、まずいと思った。
そろそろやめた方がいいんじゃないかとそっと尚一郎のジャケットの裾を引くか、気付いてないのか……無視しているのか。

「僕を、昔の僕と同じように見くびらないでいただきたいですね」

「なおれ、尚一郎!
叩き切って……」

後ろに飾ってあった日本刀を手にかけ、立ち上がりかけた達之助だったが……ドン、と大きな音を立ててそのまま後ろにひっくり返った。

「行こう、朋香。
もう用は済んだようだし」

立ち上がった尚一郎に手を引っ張られ、朋香も立ち上がる。
隣で自分の夫がひっくり返ってるというのに、相変わらず祖母――自子さだこは何事もないように座っていて、得体が知れない。

「……外人とまともに話をするだけ無駄なんですよ」

ぼそりと呟かれた言葉に、自子に食ってかかりそうになったが、尚一郎に手を引っ張られてやめた。

朋香たちと入れ替わりに数人が入ってきて達之助を介抱しているのを視界の隅に、座敷をあとにする。

回った裏口では、すでに高橋の運転するベンツが待っていた。
車の中で、窓の外を見ている尚一郎をちらちらと窺ってしまう。
朋香の視線に気付いたのか、困ったように尚一郎が笑った。

「CEOも自分の年を考えればいいのにね」

握られた手をぎゅっと握り返す。

悪いのは尚一郎じゃない。
弱みを作った自分の方だ。
尚一郎の弱みにならないくらい、強くなりたい。

 
戻った屋敷では大村が簡単な昼食を用意してくれていた。
本邸で食事が出るには出たが、あんな状況でまともに食べられるはずがない。

「とーもか。
膝枕してくれないかい?」

リビングでやっとくつろいでいたら、珍しく尚一郎が甘えてきた。
いつもなら拒否するところだが。

「……今日だけですよ」

熱くなった顔でソファーに座ると、にっこりと笑った尚一郎が膝にあたまをのせてきた。
達之助との遣り取りで疲れているはずだから、今日くらいは甘やかせてあげてもいいと思う。

にこにこと嬉しそうに笑っている尚一郎の髪にそっとふれると、思いの外、柔らかかった。
まるで、ロッテを撫でてるようだ。
なんだか気持ちよくて撫で続けていたら、尚一郎が目を閉じた。

「Tomoka abusolut,werde ich schutzen……」

「尚一郎さん……?」

気がつくと、尚一郎はすーすーと気持ちよさそうに寝息を立て眠っていた。

初めて見る、尚一郎の寝顔。
一緒に寝るようになってからも、朋香の方が早く眠りに落ち、目が覚めたときはすでに尚一郎は起きていたから、寝顔など見たことない。
自分の膝で無防備に眠っている尚一郎が一瞬、愛おしいと感じた。

「……好きですよ、尚一郎さん」

「ん……」

そっと、その薄い唇に口付けをして離れると、尚一郎が身動ぎをして慌ててしまう。

どきどきと速い心臓の鼓動。
顔からは火が出そうなほど、熱い。

……起きてない、よね。

おそるおそる窺えば、尚一郎はまだ気持ちよさそうに寝息を立てていて、ほっとした。


柔らかい髪を撫でながら、ふと気になった。

尚一郎は眠りに落ちる前、なんと言っていたんだろう。
そういえば、前も似たようなことを言っていた気がする。

ドイツ語を勉強し始めたとはいえ、まだまだ初心者の朋香には意味がわからない。
聞けばいいんだろうが、なんとなく聞いてはいけないような気がした。
それにしても。

……足が痺れてきた。

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