【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第4話 義実家って面倒臭い4

「夕飯まで少し時間があるから、散歩しようか」

尚一郎に手を引かれて庭に出る。
振り払うとおかしそうにくつくつと笑われた。

並んで黙ってしばらく歩く。

……なにか話した方がいいんだろうか。

聞きたいことはたくさんある。
でも、聞いていいのかわからない。

「朋香は僕が、ドイツ人ハーフだってことはもう知ってるよね」

「は、はい」

唐突に口を開いた尚一郎に慌てて返事をすると、くすりと小さく笑われた。

「僕はCOO……久しぶりに、父とでも呼んでみようか」

父、そう言うときの尚一郎は、明夫をお義父さんと呼ぶときと違い、酷く他人行儀だ。

「僕はね、父が留学中に知り合った、ドイツ人の母との間の子供なんだ。
母の妊娠がわかったのは父が帰国してから。
母は父の、ああいう家の事情は知っていたし、だから黙って僕を産んだんだ。
けど、父はそれを知って、名前を送ってくれた。
尚恭なおたかの第一子で尚一郎。
父の精一杯だったんだと思う。
そういう事情は理解してたから、ドイツで暮らしてた頃は幸せだったよ」

朋香の視線に気付いて尚一郎がふふっと笑った。
けれどそれは、酷く淋しそうで、朋香の胸がずきんと痛んだ。

「十五の春、日本に来ることになった。
父がCEOの命で結婚した相手が、子供を産まないまま亡くなったから。
跡取りとして引き取られることになったんだよ。
父に会える、期待に胸を膨らませて日本に来たけど、現実は違ってた」

東屋に差し掛かり、尚一郎が座って手招きするので、少し離れて腰を下ろす。

「Nein、朋香。
隣においで」

少し躊躇したが、淋しそうな尚一郎に隣に座り直す。
そっと、手を握られた。
振り払おうか悩んでいると、指を絡めてくる。
尚一郎は明らかに弱っていて、ただ黙ることしかできなかった。

「着いて早々連れて行かれたのはあの屋敷で、ここで、ひとりで生活するんだって言われた。
父はいつまでたっても会いに来てくれない。
自分から会いに行こうとしたけれど、本邸には呼ばれない限り入ってはいけないって言われた」

きゅっ、尚一郎の手に僅かに力が入る。
俯いている尚一郎からは表情が窺えない。

「裏切られたと思ったよ。
それからも会社で、上司と部下として会うときを除くと、父とは数えるほどしか会ったことがない。
さらにはあの人たちだ。
自分たちの跡を、誰とも知れない外国人の血を引く僕が継ぐのが、許せないらしい」

くっくっくっ、おかしそうに喉の奥で笑う尚一郎の声は、自嘲しているようにしか聞こえない。

「ごめんね、朋香。
こんな僕に選ばれてきっと苦労させると思うけど。
でも、僕はどうしても朋香がいいんだ。
……Verzeihen Sie bitte(ごめんね)」

泣き出しそうな尚一郎の声に胸がずきずき痛む。

……けれど。

「あの、……どうして私がいいんですか?」

契約継続の条件に、朋香との結婚を持ち出してきたときから疑問だった。

あの、祖父の態度。
朋香と結婚すれば、責められることは最初からわかっていたはず。

それに、「無理を通した」とか「切り捨て損ねた」とか。

「それはね。
……内緒だよ」

そっと尚一郎の手が肩に載ったかと思ったら、唇が重なった。
いつもはふれるだけなのに、今日ははむ、と一度だけ、軽く喰まれた。

「……」

ジト目で睨むが尚一郎は笑っている。
結局また、誤魔化されてしまった。



部屋に戻ると夕食が準備されていた。
懐石風の料理に、昼間のことが思い出されて一瞬、たじろいだ。

「マナーなんて気にすることないよ。
第一、こういう料理でテーブルマナーなんて、おいしく食べることとよっぽど見苦しいことをしない以外に、なにかあるの?」

確かに、刺身もあればステーキもあるような料理で、正しいテーブルマナーもなにもないような気がする。

「ほら、食べよう?
昼はあんなだったし、それからサンドイッチを食べただけだろ?
お腹空いちゃったよ」

苦笑いの尚一郎に熱い顔で、黙ってその前に座った。

刺身に天ぷら、ステーキ。
さらには鍋。
節操がないといえばそうだが、旅館の料理といえばこんなものだ。

もちろん箸だが、尚一郎はきれいな箸使いで食べている。
いまは胡座をかいているが、本邸では正座をしていた。
外国人は正座が苦手だと聞いたことがあるし、きっと並々ならぬ努力をしたのだろう。

「しかし、あの人たちも意地悪だよね。
わざわざ懐石にしてくるなんて」

「それって……?」

意味がわからなくて首を傾げてしまう。

尚一郎に嫌がらせをしようとしたのならば、無駄じゃないかと思えるからだ。

「朋香に恥をかかせようとしたんだよ。
たとえば、まるまる一匹の焼き魚が出てきたら、朋香は正しいマナーで食べられるかい?」

「……うっ」

改めて問われると困る。
日本料理の正しいマナーなんて、よく考えたら洋食以上に知らない。

「そういう人間なんだ、あの人たちは。
ごめんね」

尚一郎に謝られて、慌てて首を振る。

……悪いのは尚一郎さんじゃない、祖父母の方だ。
それに、尚一郎さんはこういう事態を見越して、私に野々村さんからいろいろ習うように指示してくれた。

そう気付くと、尚一郎の心遣いが嬉しかった。

 
寝具は敷き布団じゃなくベッドだったが、二つ並んでいた。

……別の部屋で、とか言ったらさすがに今日は怒られるよね。
悩む朋香に尚一郎はさっさとベッドに入ると、空けた自分の隣をぽんぽんした。

「おいで、Mein Schatz」

意味がわからないというか、わかるけど理解したくない。

「なにもしないから、今日は一緒に寝てほしいんだけど。
ダメかい?」

くぅーん、まるでそんな声が聞こえてきそうな顔で、しかも涙で瞳をうるうると潤ませて尚一郎が見てくる。

……だから。
あの顔には弱いんだって。

「今日だけですよ」

仕方なく朋香は尚一郎の隣に滑り込む。
途端に後ろからぎゅーっと尚一郎に抱きしめられた。

「なにもしないって言いませんでしたか?」

「なにもしないよ?
これ以上のことはね」

ちゅっ、ちゅっ、つむじに、うなじに、尚一郎が口付けを落としてくる。
言い返そうと口を開きかけた朋香だったが、はぁっ、小さくため息をついてやめた。
きっと言ったところでやめてくれないし、それに。

祖父と父をCEO、COOと呼んでいた理由もわかった。

酷く疎まれていることも、父親をよく思っていないことも。

どうして自分なのかは誤魔化されてわからなかったが、きっと、淋しい尚一郎が欲しかった存在。

自分のために怒ってくれたことも嬉しかった。

たぶん、これからはもう少し、尚一郎に優しくできる気がする。

「Gute Nacht,Träume Schones(おやすみ、よい夢を)」

優しく落ち続ける唇に、ゆっくりと眠りに落ちていく。

……あ。
そういえばもう一つ、なんかあった気がするんだけど。

気にはなったけれどめまぐるしい一日を過ごしたせいか、そのまま朋香の意識に幕が落ちた。

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