翼が無ければ鳥でない
八月四日 Ⅰ
二度目に鳴る目覚まし時計はいつになく不快だ。ただでさえ暑い陽差しの中二度寝するのは体力の浪費であるのに、そこへウザったい金属音が潜り込んできたら、起き上がる気力すら残っていなかった。ほとんど無意識にそれを止めるとまた目を瞑り、今度は寝れるだろうと思った。
しばらくして三度目の目覚まし時計が反応した。
たいして寝た気がしないことに腹が立ち、ムカデが耳に入り込んでくるような不快感から逃れるため、ウッセェなと耳ん中をほじくり回しながら止めた。気休めにもならねェ、と毒付いて頭皮をボリボリかくと、フケが落ちた。
昨日頭洗ってねェんだ、くそッ。
爪の間にはフケの塊が溜まっていた。それをかき出すと、親指の表面がテラテラとヌメってまた不快になったりした。味のしないプラスチックをかじっていた方がまだマシの、どうでもいい目覚めだった。
そこら辺の木造住宅を上から押しつぶしてぺちゃんこにさせたような賃貸住宅の角にあるお風呂場で髪を洗い、それでもワックスでガチガチにセットさせたみたいに硬くてテカっていたので、何度か洗うが、結局諦めた。
ドライヤーで乾かすも毛にまとわりつく皮脂が邪魔して水気が飛んでいかない。半分ヤケになって、半分生理的な嫌悪から犬が体を震わして水を弾くように乾かす。それでもいつも通りの髪ざわりとはほど遠く、どこかベタベタした感じは否めなかった。掌からは加齢臭に似た臭さが立ち込める。石鹸をつけるも虚しく、皮脂が水を弾くので、掌を陽にかざすと見事にテカっていた。
居間には一人分の朝ごはんが並べられていて、テレビをつけながらそれを食べた。
ご飯茶碗の脇に置き手紙が置いてあり、内容そのままお母さんはすでに仕事へ出ていた。夕飯の残りとスーパーの惣菜が主なおかずだった。
昨日は一日中頭痛と吐き気が治まらず、大島陸橋までお母さんが車で迎えに来てくれた後は、布団にくるまって喚いていただけだった。ろくに食べず、気が向いたらポカリを飲むぐらいという具合だったので、おかげさまで胃袋は両側が引っ付くほどに空腹だ。冷めた味噌汁をはじめに飲み、野菜を食べ、おかずとご飯を口に放り込んだら、そこからはエンドレスだった。
不意にテレビの方から「かやちゃーん」という掛け声がかかり、画面に映し出されたお天気キャスターは笑顔で今日の天気を報道していく。「今日も暑くなりそうですねー」とスタジオに呼びかけた時、それが友和に向けてのものだと勝手に勘違いすれば寝起きの不快など胃液に溶けて、クソ同然。二の腕をさらけ出したノースリーブにニヤニヤが止まらず、柔らかそうな全身を触りたい衝動に駆られるものの叶わないのがたまらない。経験人数一人の男子にとって朝からあの胸は刺激が強すぎる。重力に抗うかのようにツンと張る山は服の上からでも存在感があった。
しかしどこか子どもっぽい雰囲気すら感じてしまうのは彼女が童顔であるせいで、よそよそしい笑顔が映し出されると、勃起は免れなかった。膨らむ陰部をズボン越しに触りつつ、口いっぱいにご飯を詰め込んだ。いつもと同じくわずか五分ほどの出番はすぐに終わり、あとは興味がないのでテレビを消して適当に朝食を済ませた。
食器を洗ってLINEを開くと、優流から三件通知があった。いずれも昨日の朝に送られたものだった。≪体調はどう?≫≪昨日の夜、斉藤っていう人ん家にお金を持っててたけど≫≪どうしたの?≫とある。
受け流すのが得策だと考え、≪まぁ、ちょっとね≫と当たり障りのないセリフを送った。食器を片付けていると返信を寄越してきた。
≪ちょっとねって何だよ≫
≪たいしたことじゃないから≫
≪借金してんの?≫
≪全然≫
≪じゃあなによ?≫
≪んー≫
≪ワイロ笑≫
≪そういうのいいから笑≫
≪でもまじで何でもないんだ≫
≪ふーん?≫
≪てかなんで知ってんの?≫
≪カズを尾行してた笑≫
≪うわ、キモっ笑≫
≪たまたまだかんな!?≫
≪べつにいいけど≫
≪そっか≫
≪まぁ、相談することがあったら≫
≪いつでものるから≫
≪おう≫
≪サンキュー≫
≪あんま周りに言うなよ?≫
≪分かってるって≫
≪あー、ちょっと待って≫
≪?≫
≪これだけなら教えられる≫
≪知りたい?≫
≪もったいぶんな≫
≪ユリカに関係はしている≫
≪ユリカって元カノの?≫
≪それしかいねぇだろ≫
≪まぁ、そっか≫
≪確かにいい話ではないな≫ 
≪これ以上は教えない≫
≪こっちも知りたくねぇよ≫
≪首突っ込んだら出てくるのは蛇どころじゃなさそうだ≫
≪亡霊?笑≫
≪呪われそう笑≫
≪呪われて死ねよ≫
≪お互い様な≫
優流からの返信を既読にして、無視を決め込む。何回かバイブ音がしたが、そのままにしておいた。あいつにはなんら関係ない問題だった。四年前の、過ぎた問題。友和とユリカ、いや、ほぼ友和が責任を取らなくてはいけない問題。
ユリカはリストカットを繰り返した果てに死んでいった。葬式は親族のみで行われたらしいから最期の姿は見られなかったが、きっと悲哀の表情を浮かべたまま火葬されたのだろう。一度だけ墓へ行って合掌したことがあるが、灰は土くれに還り彼女の面影すら残していなかった。安らかに眠っている、なんて到底信じられず、御供物の線香や一輪の花をさす花瓶を蹴り飛ばしたくなった。
リストカットするたびに泣きついてきてやんなきゃよかった、と胸元で叫ぶユリカはもういない事実に初めは困惑したが、今ではすっかり慣れたものだ。変化を受け入れることができなくてもそれが日常になれば人は意志とは関係なしに適応するものといえばいいのだろうか。いや、いくら現実を受け止めることができなくても、いつまでも生きていると信じていても、欠落のある日々が日常となれば、思考と感覚が麻痺していくのかもしれない。慣れるとはすなわち適応するという意味ではなく、むしろ諦めに近いのかもしれない。
何度か友和も死のうと思った。けれど生に未練があるのか、ただ覚悟が足らないだけか結局死にきれず、逃げ場を探していると「諦め」の洞窟がこの身の丈に合った居場所だった。
ジャージに着替え、汗臭いパジャマを洗濯機に放り込むとそのままスイッチを入れ、食器を片付けた。やることがなくなり所在なさを紛らわすためにテレビを点けるも、すぐに消した。あァーあ。自分は一体なにを求めて毎日を生きているのだろう。夢はおろか暇つぶしさえ見つからないなんて
「腐ってやがる」
一瞬なにが起こったか分からなかった。
突然自分の声が心境のそれと重なり、そして今しがた独りで呟いたのだと気がついた。
まただ。脳味噌の野郎め。勝手に喋り出すんじゃねェよ。
独り言を吐き出すたびに脳味噌が何者かに乗っ取られ、自身の色素が口から抜けていく気がするのは幻か。頭蓋骨を真っ二つにトンカチで割ってみれば、脳味噌は限りなく無色に近い白色であろう。それともカビが繁殖しているのか。であるならば末期症状の色に違いない。
汚ねェな!ハハ!まったく、ため息が出るどころの話じゃねェ。
死んだらやっぱり後悔すんのかな。ユリカはどうだったのだろうか。死んで清々したはずはないだろう。かといって後悔は?生きていて苦しいなら死ぬ。そんな単純な理屈であっていいのか?それに基づくと日本人のほとんどが窒息死であの世行きということになる。仕事だ肩書きだ名誉だなんて綺麗事ばっかで、若者までが肩身の狭い思いをしなければならない。見た目は自由を装っているが、本質は社会が求める優等生を育むことが絶対条件の教育に息苦しさを覚える。友和のような人間は、襟を正して前倣えするエリート枠から除外された「問題児」とみなされているのだろう。
ちょっと悪さを働いただけで大人からこっぴどく叱らるのはしょっちゅうだった。誰にも迷惑をかけちゃいない、と反発すると、お前のその態度が目障りなんだ、と火に油を注ぐ形となる。
それを学んでからは勉強こそしてこなかったが、少なくとも大人や先生に口答えすることは億劫になった。だから進学校でもヤンキー校でもない、県内の高校を選んだ。そこだったら自分と同類項で括られるヤツらがごまんといて、そいつらの影にひっそりと身を隠していれば、ダラダラと時が流れると思った。波乱万丈の生活ではないが反吐が出るくらいのレベルではあった。
そんな中ユリカを意識し始めたのはいつ頃だっただろうか。同じクラスであったけれど最初の一、二ヶ月は特別なにもなかったように思える。
校内でクーラーの使用が認められた七月中旬、夏休み前の最後のテストを寝て過ごし、恒例の席替えを迎えたあの日が転機だったのかもしれない。
その年は例年よりも月平均気温が数度高く、本来ならば夏休み前はクーラーの使用が認められないのだが、生徒の安全を考慮した結果、学校全体でそれが許可された。
クラスに必ず居座る不良見習い少年達がその日を境に連日ガンガンつけっぱなしにするので、野外は猛暑といえども教室内は肩に毛布をかける生徒が続出する異常事態となった。温度調節がしづらい制服は内外問わず適していなかったのだ。
友和はせめて汗だけはかきたくないと屋外対策として半袖で登校していたから、室内では極寒だった。そんな友和を気にして、ユリカは声をかけたのかもしれない。ちょうどクーラーの真下の席になり、教卓からも近くなかったので内心大喜びしていた時だ。
「よろしくね、今田くん」
と声がかかり、後ろを振り向くと、制服の襟から伸びる首が一般よりも長いのが目に引くユリカがいた。
「ああ、よろしくね」
「よかったぁ。ここだったら寒くないね」
「そうだね。教卓も近くないし」
「ねぇー。前の席はクーラーがガンガン当たって、めっちゃ寒かったの!もう死ぬかと思った」
「俺も。超絶寒くて鳥肌が止まらなかった」
「半袖だもんねー。いっつも寒くないのかな、って思ってたの」
「めっちゃ寒い」
「今も鳥肌立ってない?」
「え、そう?」
「ここら辺とか」
人差し指で二の腕をピトッと触り、その体温が異常に低かったのを覚えている。
「え、これは元々だよ」
「あ、そうなの?ニキビってやつ?」
「んー分かんない。けどちっちゃい時からずっとあるんだ」
「それだったらニキビじゃないね」
「多分ね」
「そういえば、なんて呼べばいい?あだ名とか呼んで欲しい名前とかある?」
「なんでもいいけど、中学校の友達からはカズって呼ばれてたけど」
「じゃあカズで。よろしく!」
「#桝井__ますい__#さんは?」
「普通にユリカでいいよ」
「じゃあユリカで」
「ねぇカズってさあ、頭いい?」
「全然」
「テストで何番目くらい?大体平均して」
「………五十、とかかな?」
「え、すご!アタシなんかよりもよっぽどいいよ?」
「あ、そう?えーと、ユリカは?」
「それ聞いちゃう?笑わないでね?百二十位………です」
一学年二百四十人の内の半分だからそこまでアホじゃないけれど、少し軽蔑の眼差しを送ってしまった。偏差値五十もない高校でいわゆる上位層にいる友和も他人をバカにはできないと評価しつつ、自分より下の人間を発見してしまうとどうしても口角が上がってしまう。それにユリカは気づいたのだろうか。
「大丈夫!まだ始まったばかりだし、それに俺も今回ずっと寝ていたから、かなりヤバいし」
「またまたぁ。そういう人に限って頭いいんだよねぇ」
「そんなことないよ!マジでヤバいから。数学以外」
「やっぱ嘘じゃーん。数学できてるんだからいいじゃん………。アタシなんて全部ダメダメだよ」
「いやいやいや、むしろそう言ってる人ができてたりして」
「なわけないじゃん!」
と軽く友和の肩を叩いて、すると前方には先生が現れたので会話は中断せざるを得なかった。「授業を始めるぞー」という号令と同時に肘を机について窓の外を眺めていると、姿は見えないけれどグラウンドからやんちゃな声が聞こえた。
夏休みを前に控えるこの時期、不良見習い少年達にとっては女子に一目置かれる絶好のシーズンらしく、まだ一時間目だというのに早々とグラウンドに出て、大声で叫ぶのも珍しくなかった。教師も連中を咎めることはせず、淡々と残りの真面目くん相手に授業を続ける。生徒も内心うるさいと毒付きながら素知らぬ顔で寝たり、ノートを取ったり、ゲームをやったりだった。
暗黙の了解はそれのみならず他にもあった。校内でのカツアゲ、部活内での先輩によるイジメや暴力などなど、一つ一つ丁寧に対応していたらそれだけで日が暮れてしまうくらい日常的に、かつ細々と長期にわたって行われていた。
室内を冷やすために窓は閉められていたから常に声が聞こえてくるわけではないが、時折耳に飛び込んでくる高揚した叫び声につられ、何をやっているんだろう、と考えてしまった。
今律儀に席に座り寝ている不良気取りのヤツらと、アホ全開で外で遊んでいる不良先輩との間にはカースト制度と似た階級があるらしく、身分が高いほど自由度は高くなるという。授業中にグラウンドに出てはしゃぎまくる連中は下から数えて三番目の身分だ、とそのような制度に詳しいと豪語するクラスの人が勝手に知識を披露していた。といってもそいつは不良集団に所属しているわけでなく、ただ部活の先輩が以前にボコられた際に「サードクラスが」と愚痴っていたのを横目で見ていたただけで、根性のなさにも程があるヘタレ野郎だった。その証拠にそいつは今、「ファーストクラス」という名前だけが取り柄の格下階級相手に、角っちょでこそこそカツアゲの被害者となっている。
あと数日で梅雨明け宣言がなされるとニュースで聞いたのをふと思い出した。昨日か一昨日に大雨が降り、今朝はその後遺症のジメジメした湿り気が大気を覆っていた。登校中では半袖でありながら腕や額、脇の下にじっとりと汗がまとわりつき、そんな人間がうじゃうじゃ教室に閉じ込められたら、気分が重くなるのは免れない。そら見ろ、いつもならネクタイを限界までキツく締める数学教師が今日はだらしなく緩めており、ワイシャツもシワを刻んで廃れていた。
クーラーをつけてからまだ一時間もたっていないので、周りには毛布をかぶっているヤツはいなかった。席替え前は死ぬかと思ったらしいユリカがなんとなく気になって後ろを覗くと、シャーペン片手に赤べこのように首をこっくりさせながら仮眠中。ペン先で頭を突いてやろうかと企んだが、やめた。ついさっきまで会話と呼べる会話をしてこなかった仲だからだ。さすがに席替え初日に嫌われたら夏休みまでもつ気がしなかった。授業が終わったらからかおうかな、と段階を踏んでいくべきだと思った。
黒板にはy=f(x)の二次関数のグラフが描かれていたが、友和は無視した。進学校だったら一時間で済ませてしまうほど簡単で基礎的な部分だった。未だに平方完成のやり方さえ理解してない生徒が何人もいるから先に進めず、しかし友和はすでに残すは応用問題のみというところまできていた。大学には行きたくなかったから応用問題まで手をつける必要はなかった。いや、そもそも勉強などしなくても良いのだ。大学に行くための勉強しかやらない高校になんの意味があるのだろう、と最近になって疑問に思った。
ここにいる何割の生徒が大学を志望しているのか。あいつとあいつは受験を迎え、そのほかは毎日をドブに捨てた果てに就職するだろう、とざっと未来を予想してみた。しかしそれもくだらなく思い、また外を見つめることにした。
終了を知らせる鐘はあと二十分。それまで自分の忍耐が持つかどうかわからなかった。
鳥が二羽空を横切り、友和は目で追った。羽音が窓を通り抜けて聞こえてきそうだった。
真っ直ぐ前を目指して飛ぶ。なぜかその姿にユリカと友和自身を重ねみると、案外悪くないとすら思ってしまった。
どんどん前へ。
次第に二羽は点になっていき、ユリカを重ねた鳥はマンションにぶつかって、堕ちた。もう一羽はそのまま青空へ消えた。
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