翼が無ければ鳥でない
八月二日 Ⅲ
鼻腔から吐き出された空気は、海水の中で大粒の気泡を膨らませ、海面へ上昇するほどに小さくなって、消えていく。
かおりは波の振動で微細に揺らぐ青空に向かって目を開けていた。
呼吸をするごとにかおりの口内から生み出される気泡の行方を、双眸凝らして追っていたが、次第に見えなくなるのは、それ自体が消えてしまったからなのか、日光と重なり、球の曲面の影が侵食されてしまったからなのか。おそらく両者が原因だろうと考えられる所以は、この海が翠緑色に染まり、小舟を浮かべたら海底に影をひいて浮遊しているが如き錯覚を思い起こさせる程、透き通っているところにあった。
魚群の気配などとは無縁の、閑静な海中にはかおりただ一人、漂流してからしばらく時が過ぎていった。
そのうちに気泡を吐き出す音に加えて、さざ波、人の話し声が近くなり、体が空に吸い込まれていると思った。なんだか空気の膜らしきものに包まれたかおりには空へ引き寄せられていく感はなかったが、次第に耳を過ぎる物音が増えていくことから、ああ上昇しているのだな、と実感せざるを得なかったというのが正直なところであった。
水飛沫ひとつさえ挙げずに海から飛び出した瞬間、何をするでなくただ佇む男の人がおり、かおりは目の前の彼を知っていると直感したが、顔はよく思い出ず、鼻下から臨める口元がにこり歪んで、この優しい笑顔は見たことがあると、変な親近感を味わった。しかしそれも束の間、頭上で煌々と輝く太陽が浮かぶ青空から幼い泣き声が響き渡り、同時に頭の芯のあたりに男声の低音が言葉ともつかない音響となって頭蓋の髄で反響した。
海中で人の話し声が聞こえたように思えたのは、この頭の中に男の人の声が入り込んだためだとその時理解し、しかしなぜ口を動かさなくとも声が聞こえるのだろう、と考えている間にも空へ向かって上昇、いまだに泣き止まない青空の産声は一層盛大に盛り上がり、耳を塞いでも指の隙間から漏れ出してくるほどだった。
うんと遠かった薄い雲はもう目前、下を見れば男の人の姿は水彩画に滲んだ黒いしみのように、翠緑色とは釣り合いを保てないまま浮かんでいた。
日光を微かに遮る雲を抜け、いよいよ眩い陽光で満たされた白紙を網膜に貼り付けた感覚に陥るころ、かおりは瞼を閉じながら鼓膜にひっついて離れない産声に混じって頭に響く男の声を聞いた。いや正確には声の主はその人だったが、頭ではなく下方から声があがり、しかしただ発声しているだけだと実感してからも幾つか同じ長さの響きが届いた後、それは確かな意味を持つことばに変容した。
音のみをたよりに発する生後間もない幼児が、次第に子音と母音を区別し始め、音から声に、声からことばと段階をふんでことばの像を結ぶ、まさにその過程のように男の声も最後には「かおり」という単語を示した。
途端に瞼の外が明るく———今までも眩しかったからこの表現は変ではあるけれど、差し込む光が増してさらに輝きを帯びたのだ。
かおり———下から叫ばれる自分のなまえはいつしか頭上の産声よりも鮮明に聞こえ、笑顔が優しいこの男の人をかおりは知っていた。
かおりは波の振動で微細に揺らぐ青空に向かって目を開けていた。
呼吸をするごとにかおりの口内から生み出される気泡の行方を、双眸凝らして追っていたが、次第に見えなくなるのは、それ自体が消えてしまったからなのか、日光と重なり、球の曲面の影が侵食されてしまったからなのか。おそらく両者が原因だろうと考えられる所以は、この海が翠緑色に染まり、小舟を浮かべたら海底に影をひいて浮遊しているが如き錯覚を思い起こさせる程、透き通っているところにあった。
魚群の気配などとは無縁の、閑静な海中にはかおりただ一人、漂流してからしばらく時が過ぎていった。
そのうちに気泡を吐き出す音に加えて、さざ波、人の話し声が近くなり、体が空に吸い込まれていると思った。なんだか空気の膜らしきものに包まれたかおりには空へ引き寄せられていく感はなかったが、次第に耳を過ぎる物音が増えていくことから、ああ上昇しているのだな、と実感せざるを得なかったというのが正直なところであった。
水飛沫ひとつさえ挙げずに海から飛び出した瞬間、何をするでなくただ佇む男の人がおり、かおりは目の前の彼を知っていると直感したが、顔はよく思い出ず、鼻下から臨める口元がにこり歪んで、この優しい笑顔は見たことがあると、変な親近感を味わった。しかしそれも束の間、頭上で煌々と輝く太陽が浮かぶ青空から幼い泣き声が響き渡り、同時に頭の芯のあたりに男声の低音が言葉ともつかない音響となって頭蓋の髄で反響した。
海中で人の話し声が聞こえたように思えたのは、この頭の中に男の人の声が入り込んだためだとその時理解し、しかしなぜ口を動かさなくとも声が聞こえるのだろう、と考えている間にも空へ向かって上昇、いまだに泣き止まない青空の産声は一層盛大に盛り上がり、耳を塞いでも指の隙間から漏れ出してくるほどだった。
うんと遠かった薄い雲はもう目前、下を見れば男の人の姿は水彩画に滲んだ黒いしみのように、翠緑色とは釣り合いを保てないまま浮かんでいた。
日光を微かに遮る雲を抜け、いよいよ眩い陽光で満たされた白紙を網膜に貼り付けた感覚に陥るころ、かおりは瞼を閉じながら鼓膜にひっついて離れない産声に混じって頭に響く男の声を聞いた。いや正確には声の主はその人だったが、頭ではなく下方から声があがり、しかしただ発声しているだけだと実感してからも幾つか同じ長さの響きが届いた後、それは確かな意味を持つことばに変容した。
音のみをたよりに発する生後間もない幼児が、次第に子音と母音を区別し始め、音から声に、声からことばと段階をふんでことばの像を結ぶ、まさにその過程のように男の声も最後には「かおり」という単語を示した。
途端に瞼の外が明るく———今までも眩しかったからこの表現は変ではあるけれど、差し込む光が増してさらに輝きを帯びたのだ。
かおり———下から叫ばれる自分のなまえはいつしか頭上の産声よりも鮮明に聞こえ、笑顔が優しいこの男の人をかおりは知っていた。
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