翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

八月二日  I


 いつもは寝る前にカーテンを閉めるはずが、それを忘れてしまったので日差しが眩しく、すでにかおりの部屋は暑かった。
 早く起きたと思い、入り口のドアから向かって左斜め上にかけてある時計の針を見ると、普段目を覚ました時に見る位置とは違って見えた。だがどれぐらい早いのかは分からない。まだかおりは時計の見方を知らないのだ。
 ママが毎晩、風邪引かないでね、と言いながら掛けてくれるタオルケットは随分離れたところに放られてあった。きっとおもしろい夢を見たせいだろう。あるとき海の中で足を動かしながら若い男の人となぜか一緒に泳ぎ、あるときはまた同じ人ととても広い公園で走ったりしていたら、空の上から幼い声が聞こえたとたん自分の体がふわりと浮かんで、青い空に吸い込まれたという夢だ。空へ向かっている間、男の人の顔は悲しそうだったが、悲しむ理由なんてかおりには見当もつかなかった。そういえば男の人は自分のことを「かおり」と呼ばず、別の名前で呼んでいた気がするがどうしてだろう?
 タオルケットをたたみ、布団を片付け、下の階へ行くとママが朝ごはんを作っていた。いったいママはいつ起きているんだろうか。誰にも気付かれずに起き、ご飯を作り、かおりが降りてくると「おはよう」と笑顔で言う。夏はまだ朝でも明るいから夜との区別がつくけれど、冬なんて夜なのか朝なのか分からないほど暗くて静かだ。
 いつの日か、真っ暗の時に目が覚めたことがあり、その時はまだかおりは冬の朝がこんなに暗いなんて想像したことも教えられたこともなかったので、下の階からママの気配を感じると夜なのに寝てなくて大丈夫かな、と心配したことがあった。すぐにママの元へ行き、夜なのに寝なくて大丈夫なのと尋ねると、ママがきょとんとした表情で「大丈夫だよ。ぐっすり寝たからね」かおりに優しくそう言った。
 冬の朝は暗い。
 一つ新しく覚えた日だった。
「おはよう」
「おはよう。かおり、今日早いね。まだ寝てていいんだよ?」
「もうねむくない」
「あ、そうなの?そっか、じゃあ、パジャマ脱いで着替えてね」
 ママがいる台所から少し離れた場所に家族みんなでご飯を食べるテーブルがあり、その下にかおりが今日着る服が置いてある。
 明日になれば勝手に服が床から出てくるのだとばっかり信じていたが、ママが夜のうちに用意してくれているということを知ったのは最近のことだ。
 せっせと用意された服に着替え、顔を洗面台で洗い、ママが髪を整えてくれるまで一人、読み欠けの絵本を開いた。表紙には、ちょっと太っている白いヒゲモジャのおじいさんが大きな袋を担ぎ、おじいさんのそばに茶色い角の生えた動物が描かれてある。ヒゲモジャおじいさんの名前はたしか「サンタさん」と言うらしい。
 文字は読めないが読み欠けであるのは、寝る前にママがかおりにそれを読み聞かせてくれ、お話の途中で大抵の場合、かおりが寝てしまうからだ。だから最後はどんな感じで終わるのか知らない。でも唯一かおりが「サンタさん」に関して確信を持って誰かに教えられることがある。クリスマスの日に靴下を木に下げると翌朝、その中にプレゼントが入っているということだ。
 それはこの本に出てくる男の子が実際そうしてプレゼントをもらっているからで、かおりはこの場面に限っていつもうとうとしてしまい、プレゼントは男の子が欲しかったものなのか違うのか、聞き逃すのが常だっが、きっと「サンタさん」は男の子の期待を裏切らないはずだと、かおりは強く願っていた。
 だからだろう、いつもの場面の先を見れる今でさえ、大きな木にぶら下がる赤い靴下の中にプレゼントを発見し、喜ぶ男の子の挿絵を見たら本を閉じて表紙を眺めた。
「何読んでるの?」
「これ」ママに向かって表紙を見せる。
「ああ、それね。面白いよね。でも今は夏だから冬になるまでサンタさんは来ないよ?」
「うん。知ってる」
 ママがかおりの後ろに回り、髪を結び始めるとお互いにしゃべりかけることはなくなった。
 頭が少しひっぱられるしばらくの間、くしでなでられ、毛の流れが整えられていくのを感じ、髪を結ぶママの指先の動きを思い、鏡を見たときの自分の様を想像した。だいたい後ろにしばるか左右にしばるか、あるいはミッキーマウスになるかの規則正しい周期なので、昨日の髪型から考えて今日はミッキーマウスだ。
 なんだかいいことが起こりそう!
 ママは決まってしばり終わった髪の毛をさわるくせがあり、束になったお団子二つをポンポンと揺らしてみせて「おわったよー」楽しそうに言った。そうなるとかおりも嬉しくなって洗面所の鏡まで一直線だ!
 足もとにある土台に飛び乗り、ひんやりと冷えた白い陶磁器のように光る滑らかな縁に手をかけて、全てはこの一瞬のためにあったのだと言わんばかりに腕の反動を使って、いざジャンプ!
 そこに映ったのはわずかな、しかし確かに拳をちょうど頭の上にちょこんと乗せたほどの大きさの、ミッキーマウスの耳だった。
 顔全体こそ見えなかったので似合っているのかいないのか分からず、何度も飛び跳ね、その度にミッキーマウスの耳も飛び跳ねた。
「ママ」
「ん?何?」振り向いたかおりの顔をよく見ながら優しく尋ねる。
「だっこして?これ、みたい」
「鏡?よぉし、いくよ!」
 かおりの腰あたりの位置まで足を曲げ、わずかに厚さがあるだけの皮一枚、その内側の臓器の膨らみがわかるほど柔らかく、ふっくらした腹に手をかけ、上へ思いっきり持ち上げた瞬間、かおりの顔が少々歪んだ。それは腹が潰れて息が詰まる、あるいは軽い嗚咽に戸惑い吐き出す息苦しさを感じたためだが、瞬き一つする間に過ぎ去っていき、とって変わったようにやって来たのは足場が消えて落ち着かない、自分の体はママの腕のみに預けているのだというふうな不安と浮遊感の狭間であった。
 鏡で容姿を確認したかおりは、この髪型が気に入ったらしく、昨日よりかわいい自分に半分浸りながら、もう半分はそんな自分に照れた笑みを浮かべながら、浅く斜め下を見つめていた。
 三日に一度の髪型のはずで、珍しくはないのだが、とは言っても毎回左右対象の大きさの「耳」ができるわけでなく、一方は大きく、一方は小さいという具合で不均衡アンバランスなのが常であった。
 また、かおりの顔立ちが幼すぎるせいあって周りからは愛らしいと好評であったものの、本人は言葉に表せないにしても何かと不満が募り、正直に似合っていると感じたことがなかったのだった。
 いいことが起こりそう。
 それは全身から噴き出てきた、文字どおりワクワクする「楽しさ」の粉末がかおりの周辺に舞い上がり、耳元でささやいたというべきだろうか、いつもとなんら異変はない朝食にしろ、適当に済ませてしまう歯磨きにしろ、訳も分からないがこれをキラキラと輝いて見えずにはいられないのはどうしてだろう!
 ママ!何か手伝う!
 スラスラと言葉にできないけれど、この勢いに乗れば何でもできるようなこの感じ!
 苦手なお花への水やりだって、大嫌いな通りすがりの犬にでさえ、いまならなでなでして、てっぺんの毛をぐしゃぐしゃにしてみたら、あっという間にイイ気分!
 そら、ママを見れば笑顔でしょ——!
 もう一度鏡に向かって飛び跳ねる。二、三繰り返し飛んでみたものの、やはり先ほどと同様の結果に帰結したので、顎を上へ傾け、再度跳ねてみると眉のあたりまで見ることができた。だから何かが変わるわけでないが、少し自分が誇らしく思えてきて、そっと小ぶりな「耳」を掌の中に包み込んだ。
 崩れてしまわないか一抹の不安が過ったけれど、構わず包み続けたのは、ささやかな幸せがこの中に潜んで胎動しているが如き感覚を抱いたからだ。大切に忘れずに、心という形はなくとも自身に確かに存在する箱にしまっておきたい衝動に駆られるのは、ごく自然な体の運びだった。
 ちょっぴりお姉さんになったかな。



 

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