翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

≪プロローグ≫ 八月三日


 頭上を走るトラックの音で目が覚めた。
 一日の初めとして今田友和が見たのは、辺り一面に広がるセメントの空とコンクリートの地面だった。
 普段なら、あの赤く安っぽい目覚まし時計の乾いた金属音が夢半分、現実世界半分の心地の中に飛び込んでくるはずが、存在していたのは灰色ただ一色だったので、しばし放心し、これは夢なのか、違うのか、自問せざるを得なかった。しかしそんな自問は発せられたが最後、もう意味を持たない空気と混じって言ったそばから忘れるのだ。
 いつもそうだ。無意識のうちに独り言を繰り出していて、気が付いた時には内容もくそもなく、だだ自覚だけが足元に転がって落ちているかのようにそこにある。そしてどこからか低く、くぐもった声を聞き、あぁまたかと思う。どこが異常であるか。
 救いようのない、爆発一歩手前の脳味噌は本当に頭部の頭蓋骨に収まっているのか、と友和は考えた。きっと脳味噌は時々頭蓋骨を飛び出して、そこら辺を独りでよちよちと歩いていることだろう。自分で自分の呟きを把握できていないという事は、頭の中が空っぽである何よりの証拠であるし、その時一方の脳味噌は端から自分を見、せせら笑いながらベラベラと喋りだすに違いない。自分はその声を口に出すことで聞き、ふと我に帰ると残っているのは何かを発していたという自覚だけで、肝心の「何か」は分からないまま、また脳味噌はどこかへ飛んで行き、また自分はその声を聞くだけだ。だから先程の自問が影も形もなくなっても何の問題はなく、この頭が通常通り運行停止の重りであることに変わりはなかった。
 しかし今日は、この腐りに腐りかけた脳味噌の野郎は膨張していつもの何倍もの質量であるが如く、地面にのめり込んで沈んでいくようだった。昨夜に酒を飲んだせいだと思ったが、たかが缶ビール二本を一気に呑んだ程度でここまで重くなるか?流し込まれた麦色の液体が胃袋には行かずに頭蓋骨へと逆流したか、本当に脳味噌が爆発するかのどちらかだ。いや、いっそのこと爆発でもして頭部ごと吹っ飛ばして、何メートル記録が出ましたと競ってみてもいい。あっても無いような頭なのだから最後に少しでも役に立てたら十分な出来だ。そうだ、そいつはいいな———。
 しばらく暇に任せて当てどない夢想をしており、同時に珍しく独り言を繰り出していないことに気付いた。人がいようがいまいがお構い無しだった以前の自分ではありえないことが現実に起きている。ちょっと気味悪いような、それでいて新鮮な心地になったりもしたが、一方で頭上を時折通り過ぎていく車の騒音を聞きながら、呟きはかき消されていただけで実際はいつもと同じくブツブツしていたのかもしれないと冷静に分析している自分もいた。
 どちらにせよ普段はあるはずの自覚すらなかったのはいい兆しだと言ってもいいと思う。独り言を言っていたにも関わらず自覚もなかったのなら末期だという考えもできなくはないが、今はやめておこう。確かに自分は独り言を言ってはいなかったのだ!
 友和は一種の興奮物質を身体中に撒き散らしながら、十九年と七ヶ月もの間動かし続けた脳味噌がここに来て変わり始めているのを感じていた。それがいい方向に変化しているのか、悪化しているのかは釈然としなかったが、変化の結果は友和にはあまり関係がなく、変化そのものに意味があり、これで一日を気持ちよく過ごせるならば明日は雪が降る。恐らくこのまま先の人生を生きても、これほどの強運はやってこないだろう。まだ野郎は腐り切っていなかったか———。
 視界を覆うセメントの空の上から乗用車やトラックの騒音が降り注ぎ、そこまで暑くない大気に含まれる空気が排気ガスに飲み込まれて汚れていく、朝が始まったばかりの時刻だと、うごめく臓腑の興奮が覚めた頃、友和はそう思った。
 いや正確には友和の早朝の基準は午前六時から八時の間のみが該当し、日付が変わる深夜が一日の初めだという発想は持ち合わせていなかった。近所の寝起き具合や明るさ、気温と湿度を鑑みた結果、その辺りの時刻が妥当だと判断しただけだった。また、毎朝目覚まし時計のけたたましい金属音が鼓膜を震わせ、自ら設定したとはいえ半強制的に叩き起こされる時刻が六時半というのもあり、目が覚める動作自体がすなわち早朝であることを示していると勝手に片付けられてきたのも、とっさに六時から八時の間だと思った要因の一つであった。
 そうだ、赤はどこに行った?いつもなら何よりも先に目に入る目覚まし時計の赤を感じるが、どうした事か。設定するのを忘れたという可能性も一パーセントぐらいなら残されているが、ほとんど生まれてきた時からの習慣であるそれを忘れるか?いや、それよりもここは?
 友和は頭上から降って湧いてくる騒音を聞き、辺り一面に広がるセメントの灰色を見、ここはどこかの橋の下かと思った。それにしても何という気付きの遅さ。生来たいした頭じゃない頭がさらに鈍感になり、これも昨晩の酒のせいだと訝ってみたが、果たして真実か否か分からなくなった末、脳の野郎のいい方向への変調と酒による鈍さの促進という矛盾を笑う結果となった。
 再び車の騒音に耳を傾けることに意識を向け、交通量が少し増したかと思われる橋の上には通り過ぎていくというよりかは、信号に阻まれて止まった車が群がり始めたらしく、数秒から一分ほどの間、静寂が訪れる機会が度々あった。
 今は何時か。めざましテレビのお天気キャスターの可愛い顔を拝見できる七時半ごろであるなら今すぐ飛び起きて家に帰らなければと思い、スマホの液晶画面に表示されるデジタル時計を見ようと、近くに転がるコンビニの袋を手繰り寄せるために上半身を起こしたのが間違いだった。
 頭を浮かした途端、激しい頭痛と吐き気が襲い、天地がひっくり返るのに敵うわけもなく、そのまま地面へ呻きながら倒れた。脳味噌が飛び跳ねる、爆発する、頭蓋骨が割れる、とっさに思い、いや声に出したか、しばらく痛みと苦しみは続いた。
 ちくしょう。思考の回転の鈍さといい頭痛といい、どいつもこいつも酒のせいか。いや、元を辿れば≪アイツ≫のせいか。≪アイツ≫がこの脳裏に棲みついていなければ、ヤケになって酒を浴びることはなかったし、こんなわけも分からねェ場所で一人うずくまって呻くことも当然なかったのだ。ちくしょう、≪アイツ≫のせいで———。
 不可解な現状を引き起こした≪アイツ≫とは、友和の脳内で靄のようにふわふわ揺らめきながら、輪郭を定めずに落ち着かない男のイメージのことだった。
 顔も名前も知らない、ただ母と男女の関係まで至り、妊娠、出産させた挙句に出て行った、この世の終わりに見るようなクソがつく実父は昨日、なんらかの事情で必要な金一五〇〇万のうち五〇〇万だけ肩代わりしてくれと友和が外出中に訪ねてきたらしかった。
 母はもちろん潰れたゴキブリを見る目をして追い出したが、何日も風呂に入っていなかったのだろう、毛穴という毛穴から異臭を放ちまくり、数時間が経過したその日の夜も以前として家中に悪臭をこべりつけたまま、友和は母と共に夕食にありついた。しかし鼻をつく獣臭に耐えきれず母に、この臭いは何だと尋ねたところ父の臭いだと分かり、我慢ならず飛び出したのだった。
 憤りよりは不気味さ、不気味さよりはウザさに身を任せ、近くの酒屋で缶ビールを二本買い、息が止まるかと思うほど夢中でアルミ缶を傾け続けた。
 一週間に客が一人くれば万歳だというそこの店主は、金の欲しさに負けてどんな客だろうと酒を売る。真夏だろうが真冬だろうがいつでも薄暗い店内には、年中無休のコンビニエンスストアも顔負けの、年中無休で座り通し、死んだように息をするじいさんがぽつねんと座っていた。 
 呑み干して空になった空き缶を地面へ落とし、唐突に今度はコンビニ、かおりの家と目的地が勝手に定められ、飼い犬よろしくそれに従った友和はまずコンビニにて一九八円のおにぎり一個、ペラッペラの千円札で買った。いやその前に酒を買おうとしたのだが断られ、腹いせにお釣りを受け取る瞬間、金欠の大学生風の店員に唾をお見舞いし、そこを後にした。
 熱帯夜でない代わりに墨を垂れ流した空が厚い雲を抱き、それらに覆われた月の方はぼんやりと滲んで光っていた。その空の下ではちらほら照明を灯した住宅が点在していたことから、本格的に夜中に突入するにはまだ早い頃だと判断できたが、友和の記憶はそれまでだった。
 おにぎりを買った理由はたしか札を小銭に替えたかっただけで、鮭だろうが昆布だろうがどうでもよかったのは覚えているが、さて自分はそれを食べたのだろうか、捨てたのか、ビニール袋の中を頭が揺れない程度に探ってみても、スマホと小銭数枚しか残っていなかった。
 さらに小銭数枚に関してもお釣りで受け取った額より確実に少なかった。実際に目で勘定しなければ正確な額は分からないが、しかし指先の感覚だけでも昨晩はあったはずの五〇〇円玉が消えていた。一にかおりの家へ行ったか、一にどこかで失くしたか使ったか。どれも可能性としては現実味を帯びており、友和はかおりの家まで行って確かめるのが手っ取り早いと思ったが、こんな吐き気と頭痛が続くなかで探したって見つかるものも見つからない、てやつだ。
 少し動いただけで脳味噌が悲鳴を上げやがる。それにぐわんぐわんと歪むこの視界もどうかしてる。俗に言われる目眩めまいかなんだか知らねェが、オシロスコープのいくつもの波形が目の前に広がるセメントの空に溶け込み、山をつくっては谷をつくる上下動をし続けた勢いのまま、周期的に波打っていやがる。
 きっとお天気キャスターの出番はとっくに終わっているだろう。あァ、気分がいいうちにあの笑顔を見られたら歓喜は最高潮に達し、脳味噌よりも先に心臓が破裂したろうに、惜しいことをした!
 脳味噌に電流を流したような痺れの中で野郎は叫び、例の如くそのセリフを口に出して反芻しながら、全くその通りだと友和は思った。また、心臓が破裂するほどの幸福とはいかなるものなのか、歓喜に包まれたと仮定したら自分は正気であるのか否か、等と同時に脳裏に浮かんだ疑問をざっと並べてみたが、考える度に頭痛の程度とそれに耐える神経がじりじりと削られ消耗する程度が激しくなる一方だったので、嫌気がさして腕で額を拭った。
 これ以上頭痛を促進させないために脳裏に浮かんだあれやこれを帳消ししようと額を拭ったはずが、腕にびっしりと汗が滴り横へ擦られた後を見て、はてどちらの理由——痛みを和らげようとしたのか、汗を拭いたかったのか——がより衝動に近いだろうか、と考えを巡らせ、余計にひどく痛みが脈を打ち始めたら、もう、顔をしかめることしかできなかった。
 頭痛に気を奪われ、時刻や日付、橋の下にいるというこの不可解な現状さえもどうでも良い友和は、空を仰ぐのが疲れたのだろうか、意を決して寝返りを打ち、背中で隠れていたコンクリートの地面を露わにした。
 そこにはくっきりと人型の#輪郭線__シルエット__#が描かれており、紛れもなく友和の汗によるものだったが、当の本人は知る由もなかった。
 そんな彼のもとに一対の靴音が近づいているのも勿論、知らなかった。


   今田友和の母、美紀は四畳半の洋室で積み立てられた文庫本と共に横になっていた。
 テラスに隣接する窓の方へ体を向けているせいで顔全体に陽が当たり、先程まで見ていたはずの夢はいつの間にか燃やされ、瞼の外で白く輝くその光に変わっていた。
 夢現つのまま「暑い」と感じ、思わず美紀は顔を背けると、僅かながら背中に吹きつける風を知った。
   昨夜七時頃、洋室の扉を開けた向こう側に位置する狭いリビングで、息子・友和と夕食をとり、平らげるのに三十分、後片付けに二十分ほど要した後、読み欠けだった『マークスの山』を三時間かけて読破した。水沢は最期まで昏い山の支配から抜け出すことはできず、真知子の一筆が添えられた約束のメモと拳銃の対比をなんと言おうか。血と暴力と死で閉ざされた水沢の心を支えた真知子という女性はどれほど強靭な精神の持ち主なのかと、同じ性別の身として驚かされたが、もう少し木原をドス黒く描いても良かったのではと評し、しかし名作であるのは確かであるなと一人納得したのだった。
   堅い文体が創り出すある特別な読後感というやつに浸かり、パタリと閉じて立ち上がった時、初めて友和がいないことに気づいた。               時計の長針は短針と一直線のところにあり、時刻は夜中だった。
 南アルプスを取り巻く無数のガスが臓器を冒し身震い一つさせたが、今しがた読み終えたばかりの合田雄一郎の白いスニーカーの足音が予感となってやってきたのかと笑い、すぐ戻ってくるはず、と自分に言い聞かせた。
   風呂に入り、布団を敷くために洋室に踏み出すと、そこは熱帯だった。茹で上がった蟹の様に全身を赤らめながら布団を敷き、手元にあった団扇を扇ぐ別の手で窓を十五センチほど開け、寝た———。
   その窓の網戸の網目の隙間から送り出される風が背中の神経を刺激するのを感じながら、こうして昨夜の記憶を呼び戻していた。 
 目を開けるとまず手前には『マークスの山』と書かれた背文字が見え、そのすぐ奥には何十冊という単位で一つの山を成している本の層が見える。寝る前に置くの忘れちゃったんだっけ、と『マークスの山』を手にとり、海老反りの格好で、腕の関節と関節の間隔を広げる思いで目一杯伸ばした。
 山のてっぺんにある本の表紙には薄く埃が被っているらしく、一冊新たに積み重ねた右手の掌にファンデーションのような白い粉がついた。そんな右手の掌に向けて、ふっ、と細く息を吹きかけた時、扉の奥の居間リビングから電話の機械音が鳴った。
   痛いほど眩しく、暑い陽射しは窓からよく射し、布団の上ですら全身に降り注ぎ続けるため、身体の細胞は目覚め、覚醒していた。 
 しかし、いくら覚醒しようとも寝起きであることに変わりはなく、電話の甲高い機械音一つに不快を抱き、誰であろうと関係なかった。
   扉を引き、四角い木製テーブルがある中央から左斜めにある電話機まで最短距離で行き、受話器の通話口に「はい、もしもし」と不快と一緒に吐き捨てた。
「あ、あの、今田さんのご自宅でしょうか。えっと、友和と幼なじみの平野という者なんですが。……はい、そうです、平野優流です。あの、今、大島陸橋で友和が倒れているんですが……顔が真っ青なんで、たぶん熱中症だと思います。……はい、あ、意識はあって、さっきポカリを飲ませたんで大丈夫だと思います。……それでですね、友和を迎えにきてもらいたいんですが。……いえいえ、たまたま通ってたら倒れているもんですから。……はい、大島陸橋の下です。……すみません、お願いします———」

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