カラード
薔薇色の瞳の少年(1)
BOAT INNから最も近い国際的大手ファストフードチェーン店で、ダンは遅めの朝食を貪る。
あの船の朝食は早い者勝ちで、「いつまで寝てんだ」とキュビーに十時に叩き起こされたときには、既に跡形もなく片付けられていた。
ゲームの日課をこなしながら、目を擦り擦りぼうっとフライドポテトを口に運ぶ。結局明け方までネットサーフィンを続けていたから、異常に眠い。気を抜くとカク、と舟を漕いでしまう。
そんな調子でいたから、自分のドリンクのコーラに肘が当たったのにも気付かなかった。
「、」
「……?」
カウンター席の並びで左隣に座っていた、ダンとそう背丈の変わらないように見える少年に、ドリンクを渡される。それが、自分の購入したものであると気付くのに、たっぷり三秒はかかった。
ああ、肘が当たって落ちたのか? と思い至る。ダンはそれを彼の手から受け取って、Thanksと小さく言った。彼は頷くと、自分のトレーに向き直り、スマートフォンをいじりながら、ハンバーガーの残りを食べる。
それにしても不思議な少年だ。英語も広東語も喋れないのか、終始無言。髪色も奇抜で、―勿論キュビーには劣るが、淡いシルバーグレーだった。ついでに言うと前髪がやたら長くて表情が全く窺えない。
そして荷物が大きい。旅行客なのだろうか、背負ったままのリュックサックは普段使いというよりか、バックパッカーのそれに近いサイズだ。
―変なやつ。
ドリンクを危機一髪で救われたことに、大した感謝はなかった。床にぶちまけたところで、また買い直せばいいだけの話だ。
ダンがまたゲーム画面に戻り、暫く経った頃には、隣席の彼はいなくなっていた。
香港は凄い。大都会だ。ストックホルムとは比べ物にならない高い建造物が無数に立ち並んでいる。
「……」
はぁ、ふわぁ、と声にならない感動が震える唇からこぼれそうになるのを呑み込みながら、周囲の高層ビル群を見回す。青い空の色を映すガラス張りのビルが、いくつも、いくつも、ぐるりと、少年の世界を埋め尽くす。
今朝街に降り立ったときからもう何度目か分からない。心奪われてしまって歩みが進まない。
―すごいなぁ。すごいなぁ。
こんな場所、初めてだ。勿論、某大手検索サイトのマップツールで大方の景色も道順も予習済みだが、それでも実際にこうしてこの地に立ってみると、全く見え方が違う。聞こえる声や音も、匂い、流れる時間も。
―外国って、すごい。
観光は、けれどまぁこれからたくさんできるから、まずは、と重いリュックサックを背負い直して少年は足を動かす。十分充電してあるスマートフォンのナビゲート通りに、目的地を目指す。タクシーを拾えばもっと早いのだろうが、真新しい景色への興奮と高揚で足が軽かったので、少年は歩くことにした。
街の東の外れ、桟橋の先に、それはあった。
―ここだ。
『INN』と高々と看板の出た、木造船。インターネットで存在を知ってから、ずっと来たかった場所。
「……」
事前に連絡も入れたから問題無いはずだが、…大丈夫だろうか。受け入れてもらえるだろうか。不安と緊張に駆られながらも、少年は岸から船に渡されている小ぶりな板に足をかけた。
甲板から、じゃらじゃらとビーズの下がった暖簾を分けて船内に入ると、アジアンでカジュアルな雰囲気の内装が迎えてくれた。南国らしい色鮮やかな植物がふんだんに飾られていて、なぜか懐かしい香りがする。
これまで住んでいた場所とは全くの異空間だけれど、不思議と居心地の悪い気はしない。広間の真ん中には巨大なコの字型のソファが置かれていて、深緑色の長い髪の女性が何か弦楽器を演奏していた。美しい音色が風に乗って流れていく。
―すごいなぁ。
息を呑み立ち尽くしていると、奥のカウンターで作業をしていた女性がこちらに気付く。
「?」
暖かみあるアイボリー色の髪をポニーテールにした、褐色の肌の彼女は不思議そうな顔で少年に近付いてきた。
「旅の人? 予約はしてる?」
ティーシャツにデニムのラフな恰好の彼女は、そう英語で尋ねてきて、くっきりとしたイエローの瞳を瞬いた。少年は用意してきたメモ書きを、ポケットから出して彼女に手渡す。
「……」
すると彼女は「あぁ!」と合点のいった声を出した。
「あなたがブランクね。待ってたよ。…本名は、カイル、ね。どっちでも呼ばれたい方で紹介していいよ。わたしはベネッタ。よろしくね」
微笑む彼女に少年、カイルは安堵して頷く。
そのあどけない素振りにか、単に身長のせいか、
「ふふ、本当に十八歳?」
「……」
軽い口調の率直な問いが飛び出す。回答に詰まるカイルを待たず、ベネッタと名乗った女性はくるり踵を返し、
「ま、どの道あとでパスポート確認させてもらうけどね。さ、こっちだよ」
と、カイルが今晩泊まる部屋を案内した。カイルは大きな荷物を背負い直して、ベネッタに続き階段を上る。
どうぞ、と通された小さな部屋には、ベッドがひとつ、机がひとつ。それとクローゼットがあって、少年ひとりが寝泊まりするには十分に思えた。
足を踏み入れ、ベッドの脇に荷物を下ろす。
「気に入った?」
気さくに尋ねるベネッタに、カイルは頷いて返す。開け放された窓辺に寄って、外に身を乗り出した。
「……」
―きれい。
只今の香港は雨季には珍しく快晴に恵まれ、さんざめく陽光がきらきらとヴィクトリア・ハーバーに反射している。対岸には同様に日射しに輝く摩天楼群が見えた。ふわり吹く潮風が、心地良い。まるでカイルの到着を祝福するかのようだ。
スマートフォンでぱちり、世界を映す。ここから、新しい生活が始まる。
「ここはうちで唯一の個室。あとは全部ドミトリーなの。予算を抑えたかったらいつでも変更できるよ。あと、基本的に毎朝八時に掃除に入るから、触られたくない物があったら自分の荷物の中にしまっておいてね」
カイルはベネッタの説明に頷いた。
「朝食は五時半から用意されてるけど、早い者順でなくなり次第終了。昼と夜は、食べたいときはわたしか、下の受付カウンターで言っておいてね」
こくり、また頷く。ベネッタはそれを確認してにっこりと笑んだ。
「あとは…あなたの上司になる人を紹介しないとだね」
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