カラード
キュビーとダン(8)
「あぁ、なんだ、またお前か」
「だーれ? お客さん?」
「なんて言ったっけ、名前?」
「キュビーだ」
「そうそう、彼はキュビーくん。えっと、ダンの世話係だったかな?」
香港、太古城地区の高層マンション。随分と見晴らしのよい三十二階の、空調のよく効いたその部屋を、キュビーは一週間ぶりに訪れる。
気さくに笑いかけてくるこの『3225号室』の家主、マイクの発言を、キュビーはYesともNoとも答えず微笑で流す。「あら、そうなの?」と、マイクの隣でネイルをいじっている女性が長い睫毛を瞬いてキュビーを見た。
―また。
別の女性だ。先週は見なかった顔。色白のすっと鼻筋の通った美人。キュビーは目の合った彼女に、軽くキャップを上げて挨拶する。
「イケメンね」
微笑む女性に、マイクが即座に「おいおいおれの方がカッコイイだろ~?」と声を上げる。
そういう思わせぶりで甘えたな態度が、乙女心やら母性本能やらをくすぐるのだろうか。彼の周りには女性が絶えない。
明るい月色の金髪に、淡い碧の瞳。ダンが成長したらこうなるんだろうな、という大人びた横顔の優男に、彼女はうふふ、と愛情深い眼差しを向ける。
甘く漂う雰囲気に構わず水を差して、
「―ダンは?」
キュビーが尋ねると、マイクは女性の淑やかな黒髪に触れながら見向きもせずに軽く答える。
「まだ寝てんじゃねえ?」
知らねえけど、と言う彼の興味の対象は目の前の女性だけだ。実の息子が部屋に引きこもって日夜ゲームに明け暮れても、学校へ行かず知らぬ街を出歩いても、ましていつ何を食べていてもいなくても、彼は気にしない。
キュビーは奥の部屋へ足を向けた。
どうやらここへはマイクの愛人をはじめ多数の人間が出入りするようで、キュビーが勝手に歩き回っても咎められたことはない。勿論、それぞれの部屋には鍵がかかるようになっているだろうが。
閉まった扉を叩く。
「……」
中から応答はない。
「―ダン? 寝てるのか?」
コツコツ、ともう一度手の甲でノックする。しかし返事はない。
ガチャ、とドアノブを回すと鍵は閉まっておらず、そのまま扉が開く。
「ダン、入るぞ」
キャップを取って部屋に入り扉を閉める。
「起きてるなら返事くらいしろ」
床に散らかっている菓子の袋を拾ってゴミ箱に入れる。とはいえさほど部屋が汚れていないのは、恐らくヘルパーの誰かが片付けているからだろう。
ダンは、ベッドの上に寝そべって、相変わらずスマートフォンの画面と向き合っている。キュビーには目もくれない。
どうせ昼過ぎまで寝ていたのだろう。閉まったままのカーテンを開けて日を入れる。生憎、快晴ではないが、それでも薄曇りの雲の上から光がこぼれている。
彼が寝そべるベッドに腰掛け、わしゃ、と彼のふわふわした金髪に触れる。嫌がる彼はすぐにその手から逃れようと頭を振る。
「さわんな」
「元気か?」
「―全然」
一切、目を画面から離さず、しかしようやく彼は口を利く。
「学校は、今週は行ったか?」
「……」
「飯は?」
「……」
「食った?」
「…ピザ待ち」
「そうか」
宅配のピザを注文したのだろう。規則的でないにしろ何か腹に入れているなら、ひとまず許容範囲だろうか。
彼は特に喋ることはない、といった様子で黙々とゲームを続けている。あっち行けよ、と言われなくなったのは、言ってもその程度ではキュビーが帰らないことを学んだからだ。会話を拒否する姿勢は変わらない。
「おれも食っていい?」
「…は。やるわけねぇじゃん」
「金半分出すよ」
ぱち、と彼は碧い瞳を瞬いてキュビーを一瞥した。長い睫毛が揺れる。
彼の画面の中では、厳めしい装備を着込んだ剣士が巨大な怪物に刃を振るう。かと思えばいきなり表示が切り替わって、多量に並んだアイテムが素早く処理されていく。キュビーにはよく分からないが、そうやって装備を強化しているらしい。
ダンは画面を見たまま言った。
「…ヒマなの」
「暇じゃねえよ」
「ウソだろ。毎週来てんじゃん」
「忙しい合間を縫って来てんだよ」
「は? ただのバカじゃん」
六月の雨の日にダンがBOAT INNを去ってからひと月以上が経つ。
立場からしたら別に様子を見に来る義務もない。むしろ世間から見れば放っておいていい他所様の事情に踏み込んで、家に上がり込んで、親戚でも何でもない赤の他人の子供に構うなんて、ただのお節介者だろう。最悪、執拗な変質者と解釈されても文句は言えないかもしれない。
さっさと警察に通報して、児童養護施設に保護してもらうべきだろうか。はたしてそれにはどれだけの法的強制力があって、ダンの権利はどれだけ保障され得るのだろう。
彼の父親には、父親としての務めを果たす責任能力がないと、訴える? ―おれが?
〝父親〟がどういうものなのか、自分だってよく分かっていないのに?
そうやって、彼にとって何が良いのかとか、どの環境がふさわしいとか、自分の物差しで測って勝手に選んで押し付けるんだろうか。
マイクはきっと簡単に、命じられればいますぐにでも、親権を手放すだろうけれど。
「だーれ? お客さん?」
「なんて言ったっけ、名前?」
「キュビーだ」
「そうそう、彼はキュビーくん。えっと、ダンの世話係だったかな?」
香港、太古城地区の高層マンション。随分と見晴らしのよい三十二階の、空調のよく効いたその部屋を、キュビーは一週間ぶりに訪れる。
気さくに笑いかけてくるこの『3225号室』の家主、マイクの発言を、キュビーはYesともNoとも答えず微笑で流す。「あら、そうなの?」と、マイクの隣でネイルをいじっている女性が長い睫毛を瞬いてキュビーを見た。
―また。
別の女性だ。先週は見なかった顔。色白のすっと鼻筋の通った美人。キュビーは目の合った彼女に、軽くキャップを上げて挨拶する。
「イケメンね」
微笑む女性に、マイクが即座に「おいおいおれの方がカッコイイだろ~?」と声を上げる。
そういう思わせぶりで甘えたな態度が、乙女心やら母性本能やらをくすぐるのだろうか。彼の周りには女性が絶えない。
明るい月色の金髪に、淡い碧の瞳。ダンが成長したらこうなるんだろうな、という大人びた横顔の優男に、彼女はうふふ、と愛情深い眼差しを向ける。
甘く漂う雰囲気に構わず水を差して、
「―ダンは?」
キュビーが尋ねると、マイクは女性の淑やかな黒髪に触れながら見向きもせずに軽く答える。
「まだ寝てんじゃねえ?」
知らねえけど、と言う彼の興味の対象は目の前の女性だけだ。実の息子が部屋に引きこもって日夜ゲームに明け暮れても、学校へ行かず知らぬ街を出歩いても、ましていつ何を食べていてもいなくても、彼は気にしない。
キュビーは奥の部屋へ足を向けた。
どうやらここへはマイクの愛人をはじめ多数の人間が出入りするようで、キュビーが勝手に歩き回っても咎められたことはない。勿論、それぞれの部屋には鍵がかかるようになっているだろうが。
閉まった扉を叩く。
「……」
中から応答はない。
「―ダン? 寝てるのか?」
コツコツ、ともう一度手の甲でノックする。しかし返事はない。
ガチャ、とドアノブを回すと鍵は閉まっておらず、そのまま扉が開く。
「ダン、入るぞ」
キャップを取って部屋に入り扉を閉める。
「起きてるなら返事くらいしろ」
床に散らかっている菓子の袋を拾ってゴミ箱に入れる。とはいえさほど部屋が汚れていないのは、恐らくヘルパーの誰かが片付けているからだろう。
ダンは、ベッドの上に寝そべって、相変わらずスマートフォンの画面と向き合っている。キュビーには目もくれない。
どうせ昼過ぎまで寝ていたのだろう。閉まったままのカーテンを開けて日を入れる。生憎、快晴ではないが、それでも薄曇りの雲の上から光がこぼれている。
彼が寝そべるベッドに腰掛け、わしゃ、と彼のふわふわした金髪に触れる。嫌がる彼はすぐにその手から逃れようと頭を振る。
「さわんな」
「元気か?」
「―全然」
一切、目を画面から離さず、しかしようやく彼は口を利く。
「学校は、今週は行ったか?」
「……」
「飯は?」
「……」
「食った?」
「…ピザ待ち」
「そうか」
宅配のピザを注文したのだろう。規則的でないにしろ何か腹に入れているなら、ひとまず許容範囲だろうか。
彼は特に喋ることはない、といった様子で黙々とゲームを続けている。あっち行けよ、と言われなくなったのは、言ってもその程度ではキュビーが帰らないことを学んだからだ。会話を拒否する姿勢は変わらない。
「おれも食っていい?」
「…は。やるわけねぇじゃん」
「金半分出すよ」
ぱち、と彼は碧い瞳を瞬いてキュビーを一瞥した。長い睫毛が揺れる。
彼の画面の中では、厳めしい装備を着込んだ剣士が巨大な怪物に刃を振るう。かと思えばいきなり表示が切り替わって、多量に並んだアイテムが素早く処理されていく。キュビーにはよく分からないが、そうやって装備を強化しているらしい。
ダンは画面を見たまま言った。
「…ヒマなの」
「暇じゃねえよ」
「ウソだろ。毎週来てんじゃん」
「忙しい合間を縫って来てんだよ」
「は? ただのバカじゃん」
六月の雨の日にダンがBOAT INNを去ってからひと月以上が経つ。
立場からしたら別に様子を見に来る義務もない。むしろ世間から見れば放っておいていい他所様の事情に踏み込んで、家に上がり込んで、親戚でも何でもない赤の他人の子供に構うなんて、ただのお節介者だろう。最悪、執拗な変質者と解釈されても文句は言えないかもしれない。
さっさと警察に通報して、児童養護施設に保護してもらうべきだろうか。はたしてそれにはどれだけの法的強制力があって、ダンの権利はどれだけ保障され得るのだろう。
彼の父親には、父親としての務めを果たす責任能力がないと、訴える? ―おれが?
〝父親〟がどういうものなのか、自分だってよく分かっていないのに?
そうやって、彼にとって何が良いのかとか、どの環境がふさわしいとか、自分の物差しで測って勝手に選んで押し付けるんだろうか。
マイクはきっと簡単に、命じられればいますぐにでも、親権を手放すだろうけれど。
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