カラード

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ダンの日常(2)

 ドラム缶の上に板を打った桟橋には所々水たまりができていて、昨夜届いたばかりのナイキのスニーカーは既にどろどろだ。ここまで来ると少し開けて、魚市場の生臭さも潮風が吹き飛ばす。目立つ金色の髪が白い肌に映える青色の目に入り、ようやくダンはスマートフォンの画面から顔を上げた。

 ここは香港の東の外れ。

 海に寄りそう漁村の端、活気溢れる市場に紛れて、でかでかと『INN』の看板が出た船がある。一見船とは思えない、ヤシの葉を基調としたまるで南国リゾートのヴィラのような見掛けで、入口はひとつ、岸から小さな橋が架かっている。橋と言っても人がひとりやっと通れる渡し板のようなものだ。

 ダンは再びスマートフォンのゲームに戻りつつ、その橋を渡り船上の宿泊施設へ躊躇なく足を踏み入れる。じゃらじゃらと幾本もの縄に粒の大きなビーズを連ねて作られた暖簾を、手ではなく額で突っ切りそのまま右に折れる。

 が、またしてもここで構造上通らねばならないエントランス、というか、リビングルーム、というか、フロントなのかロビーなのかよく分からない広間で、「お」と声を掛けられた。しかし面倒なので無視する。喋りたいときに喋りたいやつとだけ喋ればいい、そういう主義さ、とダンは胸の中で肯く。

 右手にも別に部屋があるわけではなく、ただラタンの間仕切りやソファでなんとなく適当に空間ができているだけだ。

 くわぁ、欠伸をして腹を掻きながら、そこに置いてあるテーブルのいつもの席に着くと、気付いた青年がダンに近付く。

 彼は自身をキュビーと名乗っている。

 鮮やかな黄みがかった緑の頭髪と、片目を覆う謎のレンズが特徴的で、誰でも一度で顔を、というよりはその風貌を覚えるだろう。彼は大抵ここで仕事をしている。

 作業の手をとめ腰を上げると、キュビーはレンチを持ったままダンに英語で尋ねた。

「どーこ行ってたんだ」

「靴取りに」

 ダンはスマートフォンの画面から目を離さないまま答える。

「やった仕事は」

「え、知らん」

 キュビーはレンチを握った手の甲でダンの頭を殴る。

「イ゛ってェ」

 さすがに気が削がれてダンはすぐにキュビーの腕を殴り返す。

「何すんだてめェ」

 それを片腕であしらって、キュビーは同じテーブルでパソコンの画面に向かい合っている女性、李舜鳴リ・シュンメイに指示する。

「あとでベネッタに飯一減メシいちげんって伝えてきて」

「了解」

 彼女は画面から目を上げふふ、と微笑む。どうやら彼女にはじゃれているように見えるらしい。

 笑い事じゃないんだが、とキュビーは内心辟易しつつ、殴りかかって来るダンの頭を片手で押さえ込む。彼はその手から逃れて、どっかと椅子に座り直した。

「はん、何それ罰のつもりぃ? 別に食ってきたから要らねぇーし」

「あ?」

「かぁっこわるぅ」

「…で?」

 敢えて冷たく見下ろすと、ダンも顔から嘲笑を消してふいとスマートフォンに向き直る。

 まぁーたゲームか、と思いつつキュビーは何も言わず作業に戻る。経緯はよく知らないが、自転車の修理を頼まれているのだ。〝代表〟曰く、ご近所の奥様からの依頼らしい。

 と、ダンが通ってきたあとに泥がこぼれ落ちているのを発見する。

「あーっ! おいお前、少しくらい泥落としてこいよ、いくら土足でいいっつっても汚ねえ」

「……」

「…おい聞いてんのか?」

 返事もなく何の行動も起こそうとしないダンに、キュビーはため息混じりに尋ねる。しかし完全に無視。ふふ、とまた李舜鳴が笑う。キュビーは今度こそ、「笑い事じゃねーの」と口に出した。

 さっき取り合わなかったから拗ねてんな、と諦めて、「それで歩き回るなよ」とだけ注意して自転車の修理を再開した。

 ダン―ダニエル・アシュレイがここに出入りするようになって二年以上が経つ。彼ももう十三歳だ。そろそろ真面目に、自分で自分に向き合う必要があるだろう。そういう思いで本や仕事を与えてみるものの、どれも全く続かず、三日ともたずにやめてしまって一向にやる気がない。ゲームへの意欲だけは一人前のようだが。

 彼には、キュビーやこのハウスボート〝BOAT INNボート・イン〟で暮らす殆どの住人と違って、別の場所に居住空間がある。丸二日三日、いやそれどころか一週間、ひと月といないこともしばしばだ。

 もう来ないのでは、と何度も思ったけれど、なぜか時折思い出したようにふらっと現れる。それで居心地が悪くなければ、しばらく滞在することもある。

 ―その程度の関係だ。

 油を差して自転車の全体を磨いていると、何を思い立ってか急にダンが口火を切った。




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