カラード

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ダンの日常(1)

 生ぬるい夜風の吹く海沿いの遊歩道。対岸にさんざめく摩天楼の輝きなぞには一切目をくれず、彼はひたすら左手の親指をスマートフォンの画面に滑らせる。

 身なりも簡素なうえ、荷物らしい荷物はない、ただそのスマートフォンだけが彼の唯一の所有物のようだ。

 彼はもう随分と長い距離を、鼻腔をつく潮のにおいに慣れてしまうくらいには歩いていた。ちかちかと球切れしそうな街灯が続くだけの道は明かりに乏しい。暗闇に何が潜んでいても野性的な感覚が研ぎ澄まされていない限り見付けるのは困難だろう。

 そんな暗い夜道においても、彼の明るい頭髪は褪せることなく、まるで満月のようにくっきりとその金色を魅せる。

 液晶画面の光に寄る小さな虫を無意識に払い、彼は足早に行く。その右肩が唐突に、ドン、とぶつかった。

 相手の顔も見ずに軽い会釈のみで歩き続けると、

「―」

 どすの利いた声が、肩をつかんだ。

 彼は微塵も動揺せず、慌てず、怒らず、ただその肩に触れる太い指に強く力がこめられるより先に舗装路を蹴って、瞬時に走り出す。

「――!」

 よく聞き取れないが、ガキが、殺すぞ、といったニュアンスの暴言だろう。える男を無視し、一目散に遊歩道を駆け抜ける。そしてそのまま道を折れ、巨大なビルが立ち並ぶ香港の夜に溶けた。




 国際的大手ファストフードチェーンは今夜も繁盛している。オーダーやテイクアウェイの商品を待つ列を他所に、彼はカウンター席に腰掛け、右手で夕食のダブルチーズバーガーとフライドポテトLサイズをつまみながら、左手のスマートフォンで素早くチャットを返す。

《Mian37:なに色だとおもう?》

 Can you guess? アルファベットでテキストを打つと、すぐに返事が表示される。

《GGG:あてたら、ぬいでくれるの?》

《Mian37:あはは》

《GGG:白がいい》

 立て続けに、《GGG:で、フリル》とも来る。

《Mian37:ごめんフリルじゃない、レース》

《GGG:わー外した》

《Mian37:けど色はあってたから、》

《GGG:から?》

《GGG:なに?》

《GGG:見たい》

 逸る相手のチャットが次々表示される。画面を流し見ながら彼は塩気の強いポテトを口に運ぶ。

 ―大人はどいつもこいつも馬鹿。

《Mian37:どうしたらいい?》

《Mian37:ぬがなくちゃだめ?》

 大したことができるわけじゃない。

 ほんの小遣い稼ぎで始めたに過ぎないが、それで少し、人をたぶらかすのが上手くなった。

 文字の表示は単調なくせに、隠さない露骨な興奮は滑稽なほどだだ漏れだ。無表情に画面上のテキストを見下ろして、彼はひとり窓向かいのカウンター席でハンバーガーを貪っていた。




 左手でスマートフォンを操作したまま、タワーマンションの正面玄関を開錠し管理人室の前を素通りして、高層階止まりのエレベーターに乗る。三十二階で下り、『3225号室』へ向かって歩く。幸い、誰とすれ違うこともない。

 『3225号室』のドアを、今度はポケットの鍵を使わず、彼はそのまま迷うことなく開けた。広い玄関には、ふわり、ディフューザーの甘い香りが漂っていて鼻につく。

 一直線に自室へ向かうが途中構造上通らざるを得ない居間で声を掛けられた。

「ダン、お帰り」

「シェイミン、ナマ脚ごちっす」

 広東カントンなまりの英語で話しかけてきた女性に、彼はスマートフォンから目を上げ愛想笑いで応じる。彼女は今日もその美脚を人目に晒さんと短いタイトスカートを穿いている。

「そゆとこほんとそっくり。ご飯は?」

 誰と、そっくりなのかは聞かなくても分かっている。

「食べてきた。寝る」

「お休み~」

 手を振る彼女に片手を上げて気障きざっぽく返し、彼―ダンは今度こそ自室に戻った。

 スマートフォンを充電ケーブルに繋ぎ、そのままベッドに横たわる。

 アプリケーションのオンラインゲームを開き、課金して得たコインでひたすらガチャを回す。サーバ内での戦闘力は現在二位。最高ランクの武器を引き当て、今宵、王座を奪うのだ。




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