隣に引っ越してきた金髪美女

奈宮伊呂波

1話 金色の彼女

 午後十三時。
 覚醒と共に上瞼と下瞼を仲違いさせる。
 だるさで十倍ほどに感じる体を起こし、台所の水道から水分を補給する。何秒か飲んだらうっとおしくなって口を離す。
 ―――ドンドン!
 パジャマの袖で口の周りに残った水を拭き取った。喉の渇きを解消すると今度はお腹の虫が鳴った。面倒だけど何も食べないわけにはいかない。俺は下宿しているので当然飯を作ってくれる母親はいない。
 俺はカップヌードルを開けて小鍋をコンロに乗っけてお湯を沸かした。沸騰したらそれをカップの内側の線まで注いでちょっと待った。
 そろそろいいだろうとある程度時間が経ったらそれを腹に突っ込む。本当は三分待つべきだけど待つのもだるいので多分実際は二分ぐらいしかたっていない。そのせいで麺がちょっと硬い。
 パジャマに知るが飛ぶのも気にせず麺を啜る。黒いパジャマだし別にいいだろう。
 食べ終わると布団に戻って面白くもないスマホのゲームのログインボーナスを貰ってデイリーミッションをこなす。
 これが大学三回生の夏休みを過ごす阿部翔太の日常である。いやちょっと違うな。昨日までの俺ならこの時間はバイトに行っていた。勉強は好きではなく容量も悪く、趣味もなく特技もなく彼女もいなければ友達もいない。友達はいるっちゃいるが、なんというか上辺だけの友達? みたいな。同じ講義を受ける時は一緒にいるし、テスト前は一緒に勉強したりするが休日や放課後に遊んだことはない。
 ―――ドンドン!!!
 何もない俺が唯一人並みだと言えるバイトも辞めた。何でもないただのコンビニバイトだったが、辞めた。二年間勤めていたが、辞めた。
 わかりやすく原因と呼べるものはない。ただきっかけはあった。
 前期のテストが終わった日だ。


 ◆ ◆ ◆


 最後のテストは難しかった。どのテストでもテスト開始から三十分経つと退出許可が降ろされる。他のテストは大体すぐに退出したが最後は時間をフルに使ってなんとか空白を埋めたて回答を終えた。
 筆記用具を鞄に戻している時に加藤宏かとうひろむがこっちにやって来た。おおかた普通の奴だが唯一、外見の特徴として茶髪という属性を持っている。内面で言うと明るい、とか。

「なあ阿部。そういや俺さ」

「思い出したかのようにどうした」

 加藤は言おうか迷っているみたいだった。

「さっさと言えよ。そんなに言い辛いことなのか?」

「まあそんな感じ」

 俺の数少ない友人はなかなか踏ん切りがつかないようだ。
 そう言えばここ数日は様子がおかしかった気がする。
 テストがある教科のレジュメを丸ごと忘れてきたことがあった。幸い持ち込みなしで論述タイプのテストだったから問題はなかった。いや、問題あったな。加藤の態度だ。忘れてきたくせに嬉しそうに「あっれー! ねえわ! あははは!」となぜかテンションが高かったのだ。
 こいつは俺よりはいくらか明るい奴だがレジュメを忘れて喜ぶほどアホではなかったはずだ。
 昼飯を挟むときも「悪い。俺別の奴と飯食べる約束してんだ」と言ってどこかへ行ってしまった。加藤は俺と違って他にも友達がいるらしいがご飯は静かに食べるのが好きなので昼食は俺と二人でいることが多かった。それが急に別の奴と。決して寂しかったり腹が立ったりはしないが「なんだあいつ?」と誰だって思うだろう。
 以上、おかしかった点。
 加藤は決心したのか視線を俺に定める。

「阿部さー。俺、彼女出来た」

「そうか。よかったな」

「まあな。ありがとう」

「じゃあ俺帰るわ」

「そうだな……ってそんなけ?」

 鞄を持ち上げると加藤が間抜けな声を出した。

「なんだよ。驚いて欲しかった?」

 こう言えば大体の人はムッとして切り上げるのが楽になる。

「いや別に」

「ならいいだろ。じゃ、また後期で」

「え、あ。ああ。じゃあまた」

 加藤は困惑した様子だったが俺は無視してそのまま家に帰った。
 その後、俺は家で一人悔しさのあまり枕に向かって喉が枯れるまで叫び続けた。
 叫び終えた俺は、自分について考えた。自分とは、俺とは一体何なのか。なぜ存在するのか。いていいのか? 俺に生きていて欲しいと思ってくれる人間がいるだろうか。このからっぽで上辺でさえ碌に取り繕えない空気が具現化したような俺は存在価値があるのか。人に勝っている所と言えばこの卑屈だけ。
 死んだほうが良いんじゃないか。そう何度も思った。
 仕事だってろくに出来やしない。俺より勤務日数の短い年下の女子は目立ったミスはないというのに、俺は何度も何度もミスを繰り返す。
 無能と言う言葉は俺のためにあるようだ。俺の辞書には無能しか載ってないんじゃないかというぐらい無能が頭の中で回る。
 自分は鬱なんじゃないだろうか。そう疑ったこともある。でも違う。だって俺は元気がある。飯はよく食べるし、カラオケにもよく行く。ゲームも続けているし本だってよく読む。友達は少ないけれど充実した生活を送っている。
 だから、俺は鬱じゃない。友達に彼女が出来てちょっと劣等感を味わっているだけだ。劣等感? 何だそれ。加藤に彼女が出来て俺はそんなものを感じているのか? バカバカしい。
 彼女なんて性欲の捌け口でしかないじゃないか。見た目と性格が自分の好みだとしても関係ないね。そのうち「何でライン返さないの?」とか「このまえ美香と二人で会ってたでしょ?」とか面倒なことを言いだす。そうなったらもう終わりだ。飽きてポイだ。
 ……今のはごめん。加藤。

「あー」

 部屋の気温に項垂れる。
 蒸し暑いせいで余計に思考がドロドロになっている気がする。
 そういえばクーラー付けんの忘れてた。でも面倒だからいいや。

「バイト辞めたい」

 その日、俺はバイトをやめることを店長に伝えた。


 ◆ ◆ ◆


 契約上、すぐにはやめることは出来ないらしく一か月働かされた。
 で、最後のシフトが昨日だったと。
 正直、肩の荷が下りてすっきりしたとはいいがたい。一か月「あいつやめるってよ」と話のネタにされて針の筵みたいだったし、店長からは「やめて欲しくない」とずっと言われた。まるで俺が悪者みたいだった。
 ―――ドンドン!!!
 さっきからうるせえな。どこから鳴ってるんだよ。
 音に気を向けてみるとどうやら俺の部屋の隣の部屋から鳴っているらしい。
 そういや最近この下宿に引っ越しする学生がいるとか前に大家さん言ってたっけ。
 朝っぱらから(午後一時)うるせえな。文句言ってやろう。

 玄関の扉を開けると熱波が部屋に舞い込んできた。近頃の暑さと言えばまさに殺人級だ。神様が人を殺すためだけにこの暑さにしてるんじゃないのだろうか。
 滅茶苦茶熱いしこれだけでもういいんじゃない? と思わなくもないがさっきからドンドンドタドタうるさいお隣さんに一言文句をぶつけてやらないと気が済まない。
 億劫ではあるけど、生まれてしまったイライラを解消するためにも俺は自分の家から出てしまった。
 瞬間、俺は何かとぶつかりそうになった。通路はそんなに幅広と言うわけでもないので相手は突然部屋から飛び出した俺に対応できず体のバランスを崩し、そのまま転んでしまった。

「あ、すみません」

 普段ならそんなことで転ぶなよボケ、と思うところだが相手は大きな段ボールの箱を抱えていたので謝っておいた。

「こちらこそごめんなさい」

 と相手は段ボール越しに言った。女の声だった。
 俺は女が苦手だ。大学に入ってから彼女も女友達もいないので接し方がわからない。中学高校ではそこまでではなかったが、今は何を言うべきかととても考えてしまう。だから苦手だ。まるで俺とは別の生き物のように感じる。
 体裁だけは整えたいという僅かな社会性に従っていえいえ謝らないでください、とか言おうとしたがそんな場合じゃなかった。なんか立ち上がろうとしてプルプルしている。おそらく段ボールの中身が重たいのだろう。
 俺は慌ててその箱を持ってやった。

「あーごめんなさい」

 って何だこれ重いな。よくこんなの女の人が運んでたな。
 感心しつつ俺は段ボールを持ち上げるのでいっぱいいっぱいで女の言葉など聞こえてなかった。
 持ってしまったので最後まで運んでやろうと義務感に駆られて俺は目的地を尋ねた。

「これどちらまで……」

 思わず、俺は息をのんだ。動揺してしまったのだ。
 原因は明白だった。
 目の前の女、いや、女性があまりに美人だったからだ。俺は文字通り目を奪われた気分だった。自分のものであるはずの目が女性に釘付けになり、動けなくなってしまったのだ。
 年は俺と同じくらいだろう。つまり若い。まあ、見た目からの判断でしかないが。顔の輪郭も、どんな物も真っ直ぐ捉えていそうな大きな目も、日本人にしては高い鼻も、桜色の柔らかそうな唇も、何をとっても綺麗と言える。体だって綺麗だった。太いか細いかで言うと細いほうで、健康的に育ったことが伺い知れる細さだ。
 俺の好みの女性だった。思わず胸の奥が熱を持つほどに。
 駄目だ。目を離せ。大体見てたって何になる。普段街中ですれ違うどころか遠くに歩いていた所を偶然視界に入ってしまうだけのものがたまたま目の前にいるだけじゃないか。俺のような下級民族が手に入れられるような安い人じゃないだろ。どう見ても。見てたって悲しいだけだ。
 ふう、と俺は息を吐いた。
 なんとか彼女の顔から視線を逸らす。逸らした先にあった彼女の髪は染髪料で金色に輝いていて、肩の辺りで水滴を滴らせている。その水滴を辿ることでようやく俺は現実に引き戻された。

「えっと、大丈夫ですか?」

「え、あ。ごめん。で、どこまでだっけ」

 やばい。何でため口なんだよ。

「じゃあ。そこまでお願いします」

 と言って彼女が指差したのはまさに、俺が部屋から出た原因のお隣さんだった。
 まじかこの人か……。
 でも言うぞ。わざわざ家から出たんだ。苦情を言わずのこのこ帰れるか。よし、言え。

「わかりました」

 ……無理なのかよ。
 そりゃそうか。女と話すのだっていつぶりだってぐらいだ。いきなりこんな美人に強く言うことなんてできるわけがない。
 案内されるまま、というか隣だから案内もくそもないけど、俺は段ボールを持って彼女の家の扉の前に立った。
 え、俺もしかしてこの人の家の中に入るの?

「あー、その失礼してもいいですか?」

「そこに置いといてください」

「あ、そうですね」

 何言ってんだ俺。
 初対面の人を家に入れる奴がどこにいる。ましてや家主が女性で、入ろうとしているのがパジャマみたいな服を着た小汚い男ならなおさらだ。
 段ボールを扉の前に置くとドスンと重量感に即した音が腕を伝った。久しぶりに重い物を持ったせいで腕がピリピリとしている。電気が走ったみたいだ。

「ありがとうございます」

「いえいえ。それでは」

 俺は踵を返して彼女に別れを告げた。疲れたけど彼女の笑顔を見れたので良しとしよう。見た目も良ければ性格もいい。きっと家庭で大事に育てられてきたのだろう。
 今日はちょっとだけ良い一日だったな。隣人の重そうな荷物を運んだだけなんて世間から見たら、いや正直俺自身から見ても小さな出来事だけど、こういうことの積み重ねで人は生きているのだと思う。
 自分の部屋の前に立って思った。そういや今日は何で家から出たんだっけ。
 暑かったからだったっけ。なんか違うな。そもそも俺の部屋クーラーついてるし。じゃあなんだ。ビールでも買いに行こうと思ったんだっけ。いや、まだあったはずだ。
 まあなんというか。ほんとはわかってる。わかってるけどわかりたくない。あのドンドンと言う五月蠅い音は隣人の物で、隣人とはさっきの美人の事だ。あのような別世界の住人に「やかましい静かにしろ」などとのたまえるだろうか。無理です。
 いやでもさ、迷惑してるのは事実だし。それを指摘するのに美人かどうかは関係ない。
 やっぱり言っておこう。何を気後れしてるのか。そりゃあ俺と彼女ではレベルが違う。月とスッポンと言う言葉がちょうど当てはまる。スッポンが月に対して文句を垂れることはおかしなことだが、幸い見た目は同じ人間だ。ちょっとぐらい許してくれるだろう。
 そう思って俺は再び踵を返した。彼女はちょうど段ボールを部屋の中に運ぼうとしていた。重くて手こずっているみたいだ。

「あの、ちょっといいですか?」

 いや。駄目だろ。どう見ても。でも止めない。やると決めたのならすぐに行動に移す。そうじゃないと俺はすぐ決断が揺らいでしまう。
 彼女は動きを止めた。

「何ですか? まだ何か用が?」

 明らかにイラついている。そりゃそうだ。重い荷物を運んでいる時に声をかけられたら誰だって嫌な気持ちになる。
 彼女の綺麗な顔が歪んでいると思うと心苦しくなる。
 まあ言うけど。

「何をやってるか知りませんが、さっきから俺の部屋にドンドンって音が聞こえてくるんです。ちょっと静かにしてくれませんか?」

 何をやってるか知らない、だなんて白々しいにもほどがある。ちょっと前まで俺の隣の部屋は空き家だった。そこへ荷物を運びこんでいるのだ。大体察しはつく。というか一つしかない。
 彼女は引っ越してきたのだ。俺がそう思うのは自然なことだ。引っ越しなら家具の配置とかで騒がしくなるのは仕方がないと思う。ただ限度はある。何回も何回も何回もドンドンされたら流石にたまらない。
 彼女は段ボールの中身のことなどまるで考えずに投げるように地面に置いた。そしてゆっくりとこちらに振り返った。本当にゆっくりと。

「なら手伝ってくれない?」

「は?」

 と口が勝手に言っていた。
 人間の持つ無意識はとてつもない可能性を秘めている、とテレビで大学教授的な心理学者的な人が言っていた。その時は眉唾だと思っていたが、今なら信用していいと思う。

「手伝ってくれない?」

「いや、ごめん。聞こえてたけど」

「なら聞き返さないで」

「聞こえてた、けど。ちょっと何言ってるかわからなかった」

「そう。じゃあ今は理解できたんだろ? ならその箱持って」

「……はい」

 何と言うか。逆らってはいけないような気がした。いや違う。逆らって波風が立つことを恐れたのだ。人に悪意を向けられるのは怖い。
 きっと、彼女は最初から俺に対して好意など一切抱いていなかった。最初から嫌悪感一筋だったのだろう。
 自分でも思う。寝間着姿の男にいきなり親切に「荷物を運ぶよ」なんて言われたら不気味で仕方がない。不安だっただろう。それでも彼女は不審者を刺激しないように穏やかに接したのだ。
 それも我慢の限界に達したということだろう
 悲しい。あまりのも悲しい。この場に悪い人なんてどこにもいない。俺も彼女も出来る限りの事をした。それがこの結果だというなら俺は甘んじて受け入れよう。
 そう思って、俺は段ボールを持ち上げた。なぜかさっきよりも重たいような気がした。

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