別世界の人間は自分が無力だということを知らない
最終話 この世にメシアはいない
え! と叫んだのはAさんだった。
教室の喧騒に紛れて誰も気にしていなかったが、私の耳にはなぜかしっかりと入った。
そちらを見ると、レイナルドがAさんと話していた。Aさんはレイナルドの言葉を噛みしめて頻りに頷いている。表情も晴れやかだ。
女の子がああいう顔をするときは、どういうときか決まっている。レイナルドも真剣な顔つきをしている。具体的な会話はわからなかったけど、二つだけ聞こえた。昼、と北校舎、だ。北校舎は美術室や音楽室が集まっていて、お昼休みの時はその部活生でもない限りそこには行かない。つまり内緒話をするには適している。
我ながら随分都合の耳だなと思った。
レイナルドはAさんと別れ、席に着いた。AさんはBさん達に嬉しそうに報告していた。朝から元気なことだ。
そういえば、今日は上靴が下足箱の中に入っていたし、机の中に何も変なものは入ってなかった。
「聞いてた?」
レイナルドがこそっと私に耳打ちした。Aさん達は話に夢中になっている。
「少しだけ」
「そっか」
それ以上は何も言わず。レイナルドは男子の談笑に参加した。
レイナルドの金髪はきっとどこにいても目立つ。まるで自己の存在を過剰にアピールしているみたいだ。俺に会いたければ、どこにいるかすぐにわかるだろ? と。
私は、そういうところが……。
◆ ◆ ◆
あっという間に授業が四回終わった。
つまり、昼休みだ。
朝の、彼らの会話。興味がないわけではない。私は先日、レイナルドの申し出を断った。いや、断るというより、保留だ。咄嗟のことでうまく返事ができなかった。
レイナルドは文句も言わずに「じゃあまた今度にしよう」と言った。
そんな彼が、今、彼女たちにどんな用事があるのか。聞きたくなった。それを聞いてからでも、返事は遅くないと思う。
授業のお休み時間、奇妙なことがあった。Aさんが私に向かって「そのペン私に渡してもいいけど」と訳の分からないことを言っていた。どういうつもりかは知らないが、照れ隠しならもう少しうまくしてほしい。
レイナルドは男子達に「すまん。ちょっとトイレ行ってくる」と言って教室を出た。男子達に「うんこ?」「がんばれよ!」と茶化されていた。
続いてAさんが教室を出た。その少し後に、B、C、Dさんがその後を追う。その彼女たちを追う。情報は北校舎ということしかないので、何階かわからない。彼女たちについていけば、距離は離れるだろうが話ぐらいは聞けるだろう。
彼女達は階段を下りて、一度外に出て北校舎に入った。距離をとってついていくと、渡り廊下にAさんの姿が見えた。
Bさん達は正面の階段を上らずに、北校舎の反対側へ歩いて行った。おそらく、正面から登るとレイナルドとAさんと反対側に出てしまって鉢合わせになるかもしれないと考えたのだろう。
何階か確認するため、足音を立てないようにこっそり彼女たちの後をつける。階段をいくつか上ると、彼女たちの話し声が大きくなってきた。四階以上歩くのは結構疲れるのでありがたい。
そう思って私は一つ下の階に降りて、反対側から元の階に上る。
徐々に男女が会話している声が聞こえ、窓越しに曲がり角の向こうを見ると、レイナルドとAさんはちょうど真ん中あたりで話をしていた。他に人はいなかった。
レイナルドと目が合った気がした。慌てて窓の下に隠れたけど、一瞬だったから気のせいかもしれない。
「それで、話って言うのは……?」
Aさんの声だった。ここでも問題なく聞こえるようだ。Aさんは体をよじらせていた。とてもわざとらしく見えたけど、男子にはあれがかわいく見えるのだろうか。
「うん。実は俺、最近思うことがあって、川上さんに言っておかなきゃって思ったんだ」
「大丈夫。なんでも聞くよ」
「ありがとう。嫌なことかもしれないけど、言いたいんだ」
告白にしては違和感のある前置きに、Aさんこと川上さんの笑顔の均衡が崩れた。レイナルドの言いたいこと。まさか本当に告白なのだろうか。
「川上さん、船川さんにちょっかいかけるの、やめなよ」
「……え?」
「正直見ていて嫌な気持ちになるし、船川さんだって一見平気そうに見えるけど、きっとつらいと思ってる。何か気に入らないことがあるなら、直接船川さんに言ってあげなよ。それに―――」
「ちょ、ちょっと待って!」
川上さんが言った。声が震えている。動揺しているのがはっきりとわかる。
「話って、そのこと? それを言うために朝私に話しかけて昼に呼び出して教室から連れ出したの? もっと、その、伝えることとか、あるんじゃないの?」
やめておけばいいのに、縋るような声を川上さんはレイナルドに向ける。きっと、あんなこと言うつもりじゃなかったのだろう。どんな言い方をされたか知らないけど、いい話を期待していたところにあんなことを言われたら動揺もしてしまう。
川上さんの青くなった顔が容易に想像できる。
「ないけど……?」
レイナルドはあっさりといった。間とか時間を一切空けずに。あまりにも平淡だった。まるで、意識してそうしているかのように。
「そう、なんだ」
川上さんは若干覚束ない足取りでレイナルドの横を素通りしていく。
「あ、待って」
レイナルドの声に川上さんの肩が少し上がる。しかし、レイナルドの言葉は川上さんにとって残酷すぎるほど残酷だった。
「やめるって、約束してくれる?」
「……うん」
泣きっ面に蜂といった追い打ちを喰らった川上さんは絞り出すように答えた。
「ありがとう」
優しいほほ笑みだった。責める気など毛頭ないとでも言いたげだった。
川上さんは今度こそ歩いて行った。頼りない足取りで廊下を曲がり、その向こう側でかすかに話し声が聞こえたのでBさん達と話をしているのだろう。なんでいるの、とか、最悪だったとか。
「船川さん、いるよね?」
レイナルドが言った。
さっき目が合ったのはやっぱり気のせいじゃなかったみたいだ。疑問形ではあるけど、私の存在をレイナルドは疑っていないだろう。大人しく出ることにした。
「朝の会話聞こえてて」
「いいよ。むしろ聞こえるように言ったからね」
「それは、酷いな。何て言ったんだ?」
普通に呼び出されたのなら、女の子があんなに舞い上がるはずがない。
「今日の昼、川上さんに伝えたいことがあるから、いいかな? って」
「それも酷い」
「断られたら駄目だったからね。まあ、あいつらには正直に話すかな」
あいつらとは、レイナルドが転校してきてから主に話している男子達のことだろう。見た目が完全に外国人なこともあって最初こそ遠慮気味だったが、一週間も経った今ではまるでずっと同じ教室にいたかのように溶け込んでいる。適応力が高い。見た目が違うというハンデを補うためにそうなったのだろうか、などと邪推してみる。
「一つだけ聞いてもいい?」
「いいよ」
「なんで私を助けるんだ?」
普通。ラブホテルから同級生が出て来たからと言って助けようとは思わない。虐められているクラスメイトを助けようなどと思わない。精々、立場が上の大人に報告する程度だ。それができるだけ上々。自分で動こうなど、通常の人間なら考えはしても実際に行動はしない。
面倒に巻き込まれるのが嫌だからだ。
援交現場を押さえることで大人の男とトラブルになるかもしれないし、虐めを止めることで今度は自分にターゲットが移るかもしれない。今回に関してはその可能性は低いかもしれないが。
助ける側にはあまりにもメリットが少ない。ましてや、出会ったばかりの他人なんて助ける義理もない。
それをこの金髪転校生はやってしまう。その理由はなんだ。まさか、一目惚れだとかいうはずもない。自慢じゃないけど、私の見た目は平々凡々だ。よく見たらいいところもあるかもね、というフォローという名の皮肉を授かるほどだ。
そんな私をどうして。
「理由か」
レイナルドは自分の拳を握りしめる。それはすぐに解かれた。
「大した理由じゃないよ。ただ、あんな悲しいことをしてほしくないだけだ」
そう言ったレイナルドは見たことのない表情をしていた。学校の誰にも見せたことのない表情。普段の明るく、人当たりのいいレイナルドからは想像できないほどに寂寥とした顔だった。
何かただ事じゃない様子を感じさせるレイナルドに、柄にもなく踏み込んでみたいと思った。
「何かあったの?」
言うと、レイナルドは少し驚いた表情になった。私に聞かれるとは思っていなかったのだろう。事実、私も聞く気はなかったし聞きたくもなかった。正直、レイナルドのしていることに私は特に感謝していない。嬉しいとも思っていない。
私が援助交際をしていたのは退屈な毎日を変えてみたかったからで、それは成功していたしついでにお金も貰えた。見知らぬ男の体を触られる不快感を除けば別に不満はない。
それをレイナルドの一方的な都合によって止められたことはむしろ不快感さえ感じる。
褒められたことではないけど、学校という狭い世界で生きるよりはよっぽど有意義だった。
虐めのことだってそうだ。ちょっと悲しい気持ちになるが、他人とは違う体験をするという意味では面白いとさえ思える。レイナルドが勝手に止めた。
そんな彼の背景を聞いてみたいと思ったのはほんの気まぐれだ。それ以外にない。
レイナルドは瞑目し、口を開いた。
「転校する前のことだ―――」
話はレイナルドが幼稚園にいたころから始まった。
レイナルドの家族が住む家の隣には、レイナルドより三つ年上の幼馴染の家族が住む家があった。
レイナルドと彼女は小さなころから一緒に遊び、学校の放課後も休日もよく出かけていたらしい。気が合ったそうだ。好きなゲームも、好きな遊びも、得意な科目も、好きな番組も、好きな芸能人も。嫌いなゲームも、嫌いな遊びも、嫌いな科目も、嫌いな番組も、嫌いな芸能人も。何もかもが同じだった。
レイナルドの見た目を彼女はよく褒めてくれたそうだ。他と違ってかっこいい。純粋に金色と碧色が美しい。顔がかっこいい。レイナルドはそんな風に褒めてくれる彼女が好きだった。
年は離れていても距離はとても近かった。
子供ながらに、レイナルドは一生この人と過ごしていたいと思っていた。
小学校、中学校、高校、と上がるにつれて遊ぶ時間は減っていった。レイナルドは男で彼女は女だったということをお互いに意識し始めていたのだ。彼女はレイナルドの好意にも気づいていた。自分に向けられている感情が特別だということを口にすることはなくともわかっていた。
そんなある日に彼女は殺された。
ラブホテルで男に殺されたそうだ。警察からは痴情の縺れ、と説明されたらしい。その事件には私も聞き覚えがあった。
それからレイナルドは知った。彼女が数か月前から何人かの男にお金を貰って自分の体を売っていてことを。
レイナルドは後悔した。なぜ自分は彼女の変化に気づかなかったのか。何日も喉に何も通らなかった。涙が枯れても涙があふれた。物が散乱して歩くところがなくなった自分の部屋に閉じこもるようになった。
レイナルドの気持ちは、気づかれていたのに自分は彼女の気持ちに気づかなかった。その事実が耐えられなくて、たまらなく辛かった。
数週間がたって、ようやく動くことができた。
頭の中で彼女が言ったらしい。元気出して。それは彼女がレイナルドによく言う言葉だった。金髪が原因で虐められたときにそう言って励ましてくれたらしい。
転校は、親の都合ですることになった。
「だから、船川さんにはそんなことになってほしくない。これが僕のすべてだよ」
チャイムが鳴った。
授業が始まる五分前だ。そろそろ戻らないとまずい。
「大変、だったんだな」
「うん。まあ。今も立ち直ったわけじゃないけど、いつまでも死んでるみたいにしてたら申し訳ないから」
「話してくれてありがとう」
「……教室、もどろっか」
レイナルドはそれ以上は言わずに歩き始めた。その背中を私は見つめた。男の子の大きな、それでいて子供っぽい背中だった。
レイナルドの肩には重い何かがのしかかっている。
私は、レイナルドに謝らなければならない。
長い時間、自分の心の弱い部分を曝け出して話してくれた。にも変わらず今の話を聞いても心何て動かなかった。持てた感想は「あっそ」。ただこれだけだ。
私に死んだ幼馴染を重ねて、自分の欲望を埋めるために私を利用したに過ぎない。私のことなど、一切目に入っていない。綺麗な言葉ばかり並べて自己陶酔に浸っているだけの自分勝手な気持ち悪い私を買うような惨めなおっさんと何ら変わらない。ただの偽善者。
そんな人間の歴史はあまりに薄っぺらくて、まるで共感できないことだった。
レイナルド、私はお前に謝らないといけない。興味何てまるでないのに興味のあるふりをして、知りたくもない過去を暴いて、あたかも好きであるかのように振る舞ったこと。だって、私はお前のことが心底嫌いなんだから。
私は確かに私を助けてくれる誰かを待っていたのかもしれない。でも、それはお前じゃないんだよ。この世にメシアはいない。
今日から私はまたあのポルノ映画館の前に座っているだろう。自分に足りない何かを求めて。
結局。人間はそう簡単には変わらない。
教室の喧騒に紛れて誰も気にしていなかったが、私の耳にはなぜかしっかりと入った。
そちらを見ると、レイナルドがAさんと話していた。Aさんはレイナルドの言葉を噛みしめて頻りに頷いている。表情も晴れやかだ。
女の子がああいう顔をするときは、どういうときか決まっている。レイナルドも真剣な顔つきをしている。具体的な会話はわからなかったけど、二つだけ聞こえた。昼、と北校舎、だ。北校舎は美術室や音楽室が集まっていて、お昼休みの時はその部活生でもない限りそこには行かない。つまり内緒話をするには適している。
我ながら随分都合の耳だなと思った。
レイナルドはAさんと別れ、席に着いた。AさんはBさん達に嬉しそうに報告していた。朝から元気なことだ。
そういえば、今日は上靴が下足箱の中に入っていたし、机の中に何も変なものは入ってなかった。
「聞いてた?」
レイナルドがこそっと私に耳打ちした。Aさん達は話に夢中になっている。
「少しだけ」
「そっか」
それ以上は何も言わず。レイナルドは男子の談笑に参加した。
レイナルドの金髪はきっとどこにいても目立つ。まるで自己の存在を過剰にアピールしているみたいだ。俺に会いたければ、どこにいるかすぐにわかるだろ? と。
私は、そういうところが……。
◆ ◆ ◆
あっという間に授業が四回終わった。
つまり、昼休みだ。
朝の、彼らの会話。興味がないわけではない。私は先日、レイナルドの申し出を断った。いや、断るというより、保留だ。咄嗟のことでうまく返事ができなかった。
レイナルドは文句も言わずに「じゃあまた今度にしよう」と言った。
そんな彼が、今、彼女たちにどんな用事があるのか。聞きたくなった。それを聞いてからでも、返事は遅くないと思う。
授業のお休み時間、奇妙なことがあった。Aさんが私に向かって「そのペン私に渡してもいいけど」と訳の分からないことを言っていた。どういうつもりかは知らないが、照れ隠しならもう少しうまくしてほしい。
レイナルドは男子達に「すまん。ちょっとトイレ行ってくる」と言って教室を出た。男子達に「うんこ?」「がんばれよ!」と茶化されていた。
続いてAさんが教室を出た。その少し後に、B、C、Dさんがその後を追う。その彼女たちを追う。情報は北校舎ということしかないので、何階かわからない。彼女たちについていけば、距離は離れるだろうが話ぐらいは聞けるだろう。
彼女達は階段を下りて、一度外に出て北校舎に入った。距離をとってついていくと、渡り廊下にAさんの姿が見えた。
Bさん達は正面の階段を上らずに、北校舎の反対側へ歩いて行った。おそらく、正面から登るとレイナルドとAさんと反対側に出てしまって鉢合わせになるかもしれないと考えたのだろう。
何階か確認するため、足音を立てないようにこっそり彼女たちの後をつける。階段をいくつか上ると、彼女たちの話し声が大きくなってきた。四階以上歩くのは結構疲れるのでありがたい。
そう思って私は一つ下の階に降りて、反対側から元の階に上る。
徐々に男女が会話している声が聞こえ、窓越しに曲がり角の向こうを見ると、レイナルドとAさんはちょうど真ん中あたりで話をしていた。他に人はいなかった。
レイナルドと目が合った気がした。慌てて窓の下に隠れたけど、一瞬だったから気のせいかもしれない。
「それで、話って言うのは……?」
Aさんの声だった。ここでも問題なく聞こえるようだ。Aさんは体をよじらせていた。とてもわざとらしく見えたけど、男子にはあれがかわいく見えるのだろうか。
「うん。実は俺、最近思うことがあって、川上さんに言っておかなきゃって思ったんだ」
「大丈夫。なんでも聞くよ」
「ありがとう。嫌なことかもしれないけど、言いたいんだ」
告白にしては違和感のある前置きに、Aさんこと川上さんの笑顔の均衡が崩れた。レイナルドの言いたいこと。まさか本当に告白なのだろうか。
「川上さん、船川さんにちょっかいかけるの、やめなよ」
「……え?」
「正直見ていて嫌な気持ちになるし、船川さんだって一見平気そうに見えるけど、きっとつらいと思ってる。何か気に入らないことがあるなら、直接船川さんに言ってあげなよ。それに―――」
「ちょ、ちょっと待って!」
川上さんが言った。声が震えている。動揺しているのがはっきりとわかる。
「話って、そのこと? それを言うために朝私に話しかけて昼に呼び出して教室から連れ出したの? もっと、その、伝えることとか、あるんじゃないの?」
やめておけばいいのに、縋るような声を川上さんはレイナルドに向ける。きっと、あんなこと言うつもりじゃなかったのだろう。どんな言い方をされたか知らないけど、いい話を期待していたところにあんなことを言われたら動揺もしてしまう。
川上さんの青くなった顔が容易に想像できる。
「ないけど……?」
レイナルドはあっさりといった。間とか時間を一切空けずに。あまりにも平淡だった。まるで、意識してそうしているかのように。
「そう、なんだ」
川上さんは若干覚束ない足取りでレイナルドの横を素通りしていく。
「あ、待って」
レイナルドの声に川上さんの肩が少し上がる。しかし、レイナルドの言葉は川上さんにとって残酷すぎるほど残酷だった。
「やめるって、約束してくれる?」
「……うん」
泣きっ面に蜂といった追い打ちを喰らった川上さんは絞り出すように答えた。
「ありがとう」
優しいほほ笑みだった。責める気など毛頭ないとでも言いたげだった。
川上さんは今度こそ歩いて行った。頼りない足取りで廊下を曲がり、その向こう側でかすかに話し声が聞こえたのでBさん達と話をしているのだろう。なんでいるの、とか、最悪だったとか。
「船川さん、いるよね?」
レイナルドが言った。
さっき目が合ったのはやっぱり気のせいじゃなかったみたいだ。疑問形ではあるけど、私の存在をレイナルドは疑っていないだろう。大人しく出ることにした。
「朝の会話聞こえてて」
「いいよ。むしろ聞こえるように言ったからね」
「それは、酷いな。何て言ったんだ?」
普通に呼び出されたのなら、女の子があんなに舞い上がるはずがない。
「今日の昼、川上さんに伝えたいことがあるから、いいかな? って」
「それも酷い」
「断られたら駄目だったからね。まあ、あいつらには正直に話すかな」
あいつらとは、レイナルドが転校してきてから主に話している男子達のことだろう。見た目が完全に外国人なこともあって最初こそ遠慮気味だったが、一週間も経った今ではまるでずっと同じ教室にいたかのように溶け込んでいる。適応力が高い。見た目が違うというハンデを補うためにそうなったのだろうか、などと邪推してみる。
「一つだけ聞いてもいい?」
「いいよ」
「なんで私を助けるんだ?」
普通。ラブホテルから同級生が出て来たからと言って助けようとは思わない。虐められているクラスメイトを助けようなどと思わない。精々、立場が上の大人に報告する程度だ。それができるだけ上々。自分で動こうなど、通常の人間なら考えはしても実際に行動はしない。
面倒に巻き込まれるのが嫌だからだ。
援交現場を押さえることで大人の男とトラブルになるかもしれないし、虐めを止めることで今度は自分にターゲットが移るかもしれない。今回に関してはその可能性は低いかもしれないが。
助ける側にはあまりにもメリットが少ない。ましてや、出会ったばかりの他人なんて助ける義理もない。
それをこの金髪転校生はやってしまう。その理由はなんだ。まさか、一目惚れだとかいうはずもない。自慢じゃないけど、私の見た目は平々凡々だ。よく見たらいいところもあるかもね、というフォローという名の皮肉を授かるほどだ。
そんな私をどうして。
「理由か」
レイナルドは自分の拳を握りしめる。それはすぐに解かれた。
「大した理由じゃないよ。ただ、あんな悲しいことをしてほしくないだけだ」
そう言ったレイナルドは見たことのない表情をしていた。学校の誰にも見せたことのない表情。普段の明るく、人当たりのいいレイナルドからは想像できないほどに寂寥とした顔だった。
何かただ事じゃない様子を感じさせるレイナルドに、柄にもなく踏み込んでみたいと思った。
「何かあったの?」
言うと、レイナルドは少し驚いた表情になった。私に聞かれるとは思っていなかったのだろう。事実、私も聞く気はなかったし聞きたくもなかった。正直、レイナルドのしていることに私は特に感謝していない。嬉しいとも思っていない。
私が援助交際をしていたのは退屈な毎日を変えてみたかったからで、それは成功していたしついでにお金も貰えた。見知らぬ男の体を触られる不快感を除けば別に不満はない。
それをレイナルドの一方的な都合によって止められたことはむしろ不快感さえ感じる。
褒められたことではないけど、学校という狭い世界で生きるよりはよっぽど有意義だった。
虐めのことだってそうだ。ちょっと悲しい気持ちになるが、他人とは違う体験をするという意味では面白いとさえ思える。レイナルドが勝手に止めた。
そんな彼の背景を聞いてみたいと思ったのはほんの気まぐれだ。それ以外にない。
レイナルドは瞑目し、口を開いた。
「転校する前のことだ―――」
話はレイナルドが幼稚園にいたころから始まった。
レイナルドの家族が住む家の隣には、レイナルドより三つ年上の幼馴染の家族が住む家があった。
レイナルドと彼女は小さなころから一緒に遊び、学校の放課後も休日もよく出かけていたらしい。気が合ったそうだ。好きなゲームも、好きな遊びも、得意な科目も、好きな番組も、好きな芸能人も。嫌いなゲームも、嫌いな遊びも、嫌いな科目も、嫌いな番組も、嫌いな芸能人も。何もかもが同じだった。
レイナルドの見た目を彼女はよく褒めてくれたそうだ。他と違ってかっこいい。純粋に金色と碧色が美しい。顔がかっこいい。レイナルドはそんな風に褒めてくれる彼女が好きだった。
年は離れていても距離はとても近かった。
子供ながらに、レイナルドは一生この人と過ごしていたいと思っていた。
小学校、中学校、高校、と上がるにつれて遊ぶ時間は減っていった。レイナルドは男で彼女は女だったということをお互いに意識し始めていたのだ。彼女はレイナルドの好意にも気づいていた。自分に向けられている感情が特別だということを口にすることはなくともわかっていた。
そんなある日に彼女は殺された。
ラブホテルで男に殺されたそうだ。警察からは痴情の縺れ、と説明されたらしい。その事件には私も聞き覚えがあった。
それからレイナルドは知った。彼女が数か月前から何人かの男にお金を貰って自分の体を売っていてことを。
レイナルドは後悔した。なぜ自分は彼女の変化に気づかなかったのか。何日も喉に何も通らなかった。涙が枯れても涙があふれた。物が散乱して歩くところがなくなった自分の部屋に閉じこもるようになった。
レイナルドの気持ちは、気づかれていたのに自分は彼女の気持ちに気づかなかった。その事実が耐えられなくて、たまらなく辛かった。
数週間がたって、ようやく動くことができた。
頭の中で彼女が言ったらしい。元気出して。それは彼女がレイナルドによく言う言葉だった。金髪が原因で虐められたときにそう言って励ましてくれたらしい。
転校は、親の都合ですることになった。
「だから、船川さんにはそんなことになってほしくない。これが僕のすべてだよ」
チャイムが鳴った。
授業が始まる五分前だ。そろそろ戻らないとまずい。
「大変、だったんだな」
「うん。まあ。今も立ち直ったわけじゃないけど、いつまでも死んでるみたいにしてたら申し訳ないから」
「話してくれてありがとう」
「……教室、もどろっか」
レイナルドはそれ以上は言わずに歩き始めた。その背中を私は見つめた。男の子の大きな、それでいて子供っぽい背中だった。
レイナルドの肩には重い何かがのしかかっている。
私は、レイナルドに謝らなければならない。
長い時間、自分の心の弱い部分を曝け出して話してくれた。にも変わらず今の話を聞いても心何て動かなかった。持てた感想は「あっそ」。ただこれだけだ。
私に死んだ幼馴染を重ねて、自分の欲望を埋めるために私を利用したに過ぎない。私のことなど、一切目に入っていない。綺麗な言葉ばかり並べて自己陶酔に浸っているだけの自分勝手な気持ち悪い私を買うような惨めなおっさんと何ら変わらない。ただの偽善者。
そんな人間の歴史はあまりに薄っぺらくて、まるで共感できないことだった。
レイナルド、私はお前に謝らないといけない。興味何てまるでないのに興味のあるふりをして、知りたくもない過去を暴いて、あたかも好きであるかのように振る舞ったこと。だって、私はお前のことが心底嫌いなんだから。
私は確かに私を助けてくれる誰かを待っていたのかもしれない。でも、それはお前じゃないんだよ。この世にメシアはいない。
今日から私はまたあのポルノ映画館の前に座っているだろう。自分に足りない何かを求めて。
結局。人間はそう簡単には変わらない。
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