別世界の人間は自分が無力だということを知らない

奈宮伊呂波

三話 自己犠牲

 そろそろこいつと会うのはやめたいと思ってきた。
「今日はこんなとこでごめんね、うさぎちゃん」
 彼は上着をテーブルに放り投げて、シャツのボタンを開けながら言った。
「いえいえ。私はいつも通りお小遣いがもらえればいいですから」
「そう言っても本当はこんなとこじゃ嫌だろう?」
 彼はビジネス然とした安い部屋を見て言った。一応ラブホテルだが、ここはよく大学生とかが使っていることで有名だ。安いから。
「場所はどこでもいいですよ。本当に。そう言ってくれるだけでうれしいです」
 健気な笑顔を浮かべると彼は申し訳なさそうにはにかむ。
 鍛川鍛造、と明らかに偽名を名乗ったこいつは会うごとに顔が死んでいっている。
 どこかの会社の営業職らしいが最近は全く結果を出せず、その分給料も立場も厳しいらしい。成果がなくても基本給は貰えるから余計に気後れするし、同僚の態度も少しずつ、本当に少しづつ冷ややかになっているという。
 こいつ、そのうち自殺とかしそうだ。だから会わないほうがいい。でも、私はあの映画館の前で客が来るまで待っているようにしている。それが楽だから。
 そのスタイルを変えるのは面倒だ。
 シャワーも浴びず、私は服を脱いでベッドに座った。こいつも同じような姿になっている。
「相変わらずうさぎちゃんはかわいいね」
「ありがと。鍛造さんもかっこいいよ」
 こいつは褒められると嬉しそうに性器を昂らせる。こういう単純なところは鍛造の少ない美点だ。
 私は彼の性器を軽く握る。答えるようにこいつの指が私の体を撫でる。
 そして言葉はなくなり、お互いの体を貪りあった。
 私はその間、ずっと鍛川鍛造とどうやって手を切るか考えていた。


 ◆ ◆ ◆


 行為が終わると私はお小遣いをもらう。
 最初の時は貰う必要はないと思っていたけど、これには口止め料という意味も持っているらしい。そのほうが先方が安心するのだ。
 ところが今日は少し違った。
 鍛川鍛造は服を着終わると備え付けの椅子に座っていた。
「どうしたんですか?」
 いつもならすぐにお金を渡して逃げるように別れるところを中々動こうとしない。
「ちょっと話したいことがあるんだ」
「話したい事……また今度でもいいですか? そろそろ帰らないと親も心配しますし」
 よからぬ雰囲気を察知して帰る方向に促した。
「友達と遊んでるっていえば大丈夫だから」
「うーん、そこまで言うなら」
 ここで断るのも不自然かな。興味なんて全くないけど。
「ありがとう」
 私は彼の反対側の椅子に座り、切り出すのを待った。
 彼は小さく息を吐いてまっすぐに私の目を見る。
「うさぎちゃん。こういうのはこれで最後にしないか?」
 彼は関係の断絶を提案した。
 驚いた。私のほうから切り方を考えていたのに、まさか向こうのほうから言われるとは。
 私の思いついた切り方は「親にばれそうだからやめる」というものだった。彼だってほかの男だって私との遊びは他人に知られるとまずい。この言い方なら後腐れなく別れられるだろうと考えていたけど、無駄なことだったようだ。
 しかしここで素直に頷くのはよくない。いつもの「私」なら悲しい目をして、
「どうしてですか?」
 一応食い下がる。
 別に鍛川鍛造の事情なんて知りたくもないが、こうすれば角は立たない。どうせ罪悪感が膨らんできたとかそんなだろう。求めてきたのはそっちだというのに。
 前に別れを切り出された人に「わかりました」と言うと、切れ気味に声を荒げてきたのでその反省を生かす。危険の種は極力蒔きたくない。
 ところが彼は私の予想を大きく裏切った。
「こんなことはやめて、僕と付き合おう」
「それは……」
 やばい。やっぱりこいつやばい奴だ。ただの援交にマジになってやがる。完璧に引き際を間違えた。
「どうして。僕は君のために一生懸命働いてお金を作ってきたのに?」
 お前の欲望のためだろうが。
「だって、私未成年ですし」
 ツイッターのプロフィール欄にも書いてある。さすがに制服を着てきたことはないけど。向こうもそれは了承済みだ。そのはずだ。
「そんなの関係ないさ。とりあえず援交はもうやめよう」
「ですから。それは、できないんですよ」
「なんで? お金は僕に任せてくれればいい。ご両親のことも説得するから」
 そういうことじゃないって。
「私、そんなつもりないです。鍛造さんのことはいい人だと思いますけど、付き合うとかはちょっと違います」
「あんなに僕のこと愛してくれたじゃないか。そんなこと言わないでくれよ」
 だめだ。話が通じない。
 誰か教えてくれ。どうすればこいつは引き下がってくれるのだ。
「本当にダメですから。考え直してくれませんか?」
「馬鹿にしないでくれ。僕だって考えてきた。リスクがあるのはわかってる。でもね、君はこんなことするべきじゃないし、今日で終わりにすべきなんだ」
 わかってないだろとか、だったら行為の前に言えよとか、突っ込みどころはあるが堪える。すでにおかしくなっていそうなこの男にそんなことを言えば爆発しかねない。
 逃げるべきだ。言葉で説き伏せることはできそうにない。隙を見て逃げ出そう。荷物はさっきまとめてある。持ってきたのは鞄一つだけど。それも背負ってあるし、後は扉から出るだけだ。
「なあうさぎちゃん。僕は君のことを思って言ってるんだよ? そんな僕に君は応えるべきじゃないかな? だって君だってそんなに嫌じゃないだろ?」
 どうしてこうなったか。最初は優しそうなお兄さんって感じだったのに。
 ここまで厄介になるなら注意書きでもしておいてくれ。
「……すみません。ちょっとお手洗いに」
 矢継ぎ早に言葉を吐き出す彼を遮って、私は立ち上がる。
 直後に、右腕がぐいっと引っ張られる。私は体勢を崩し左手でテーブルを掴むことでよろけるのを防ぐ。
「待ってくれ。まだ話は終わっちゃいない」
「いい加減にしてください!!!」
 急に大声を出したことで彼の手が緩む。私はそれを見逃さず、両腕を使って彼の手を振り払う。そのまま扉に向かって駆け出した。ドアノブには鍵が掛かっていなかった。そのまま捩って、扉を前に押し出すと、無関心な廊下の壁が見えた。勢いのままに体を滑り込ませ、振り返りながら扉を閉めた。
 足を止めずにエレベーターの中に逃げ込み、疲労から手を膝について息を整える。
 鍛川鍛造がストーカーになったらどうしようとか、お金をもらってないとか色々懸念事項はあったけれどラブホテルを後にして思った。
 今日、履いているのがスニーカーでよかった。



コメント

コメントを書く

「現代ドラマ」の人気作品

書籍化作品