世界は「 」にあふれている
第2章3
後の祭りという言葉が嫌いだ。
後悔するのに何故、祭りとつけるのだろうか。
あの時の選択を間違えていたのかと、考えてみても俺には解らない。
しかし、もしやり直せる機会があるとするならば、選択を変えたいと心の底からそう願う。
そんな時は永遠に、おとずれる事はないと知りながらも、願わずにはいられなかった。
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頭から血を流す少年は、不気味な笑みを浮かべている。
さっきまでとはまるで別人のようだと、犯人の男は覚った。
「・・一丁前にヤル気満々だなぁオイ。何なら一緒に楽しむかぁ?」
「・・・」
「・・・何か言えよ!ビッビッてんのか?」
イーヒッヒッヒっと高笑いする男。
その言葉が、彼の最後の言葉であった。
「・・ゴン太今だ!!」
不気味な笑みを浮かべていた少年が、いきなり声を荒げた。
視線は自分の後ろ、犬がいる壁に向けられている。
その声に犯人の男はバッと、後ろを振り向いてしまう。
振り向かずにはいられなかった。
何故ならさっきまで、痛めつけていた犬の名前を男は知らない。
もしかしたら、ベッドの下に誰かがいた可能性もある。
人か犬か解らないが自分の背後から、自分に向けて、攻撃を仕掛けようとしていると考えてしまったら、振り向いてしまうだろう。
何より伊織の迫真の演技に、振り向かずにはいられなかったのだ。
振り向いた男の視線の先は、壁であった。
やられたと思い、視線を急いで少年に戻すも時既に遅く、振り向いた男の視線の先には、少年がベッドの上からモップを振り上げている姿であった。
「死ねよ」
自分が楽しむ際に聞く、骨が折れる音が犯人の男の耳に響いた。
一度ではなく、二度、三度と音が聞こえる。
視線の先は赤く染まりながらも、ハッキリと見えている。
赤い涙を流す、少年の姿がそこにはあった。
赤い涙だったのか、頭から流れる少年の血だったのかまたは返り血だったのか、犯人にも伊織にも解らない。
唯一二人が解ったのは、犯人の男の人生はここで終わるということであった。
ーーーーーー
どれぐらいそうしていたのだろうか。
軽く息を切らせながら、伊織は両手を見る。
攻撃をやめたのは満足してではなく、両手がヒリヒリと痺れてしまっているからだ。
ヒリヒリしているのは、皮が剥けているからだ。
皮が剥けているのはモップで、何度もクズを殴ったからだ。
両手が剥けているのは、途中でモップが折れてしまい、2本になったモップの棒を、二刀流のようにしていたからだ。
嫌、アレは二刀流ではないな。
例えるのであれば太鼓を叩いている、そんな感じだ。
ハァ、ハァと、息を整えながら男を見る伊織。
顔はぐちゃぐちゃに潰れ、辺り一面に広がる赤い液体。
赤い液体の上にプカプカ浮いている白い物体は、犯人の骨か歯だろう。
そこまで考えた伊織は、右手で口元を抑えフタをするも意味はなく、右手の指の隙間から異物があふれ出される。
一度ではなく、何度も何度も嗚咽を漏らす。
(はぁ、はぁ。しっかりしろ・・あきな。)
吐いている場合ではない。
あきなの元に急がなくてはと、伊織は口元を拭い、ゴン太の元へ歩み寄る。
「・・・ごめんな。こんな飼い主でよ」
ゴン太は舌を出したまま、横になっている。
呼吸をしていないのは、お腹や口元を見て解る。
またロッカールームから見ていた時に、様子がおかしかったのも解っていた。
ゴン太は死んだのだ。
もう少し散歩をしてやれば良かった。
もっと美味しいご飯を、食べさせてあげれば良かった。
もっと・・もっと・・。
数々の思い出が蘇る。
そして・・。
「母さん・・何で・・」
何で死んでしまったんだと、伊織は母親の死体に向けて呟いていた。
とても優しく、怒られた事などほとんどない。
溢れ出す涙を、おさえる事が出来なかった。
「・・クソ。母さん、俺、行くよ」
また来るからと言い残し、ゴン太も大好きだった母親の隣に、ゴン太をそっと置いてやる。
天国でも母さんを頼んだぞと、ゴン太に告げて、伊織は両手を合わせた。
あきながいなければ、この部屋でずっと泣いていただろう。
今になって解る事だ。
そして、伊月香織が、香月伊織に変わるきっかけは、次の瞬間であった。
「ブラボー、ブラボー。やるなぁ少年」
パチパチと拍手をしながら、伊織に対して賛辞を送る。
「誰だ!?」
慌てて、声のする方へと振り向く伊織。
黒いスーツを着ていて、髪型を、オールバックにしている長身の男が、廊下から手を叩いて入ろうとしていた。
入る寸前で、壁に背中を預け、両腕を組む男は、ニッコリと微笑んでいる。
「誰だって聞いてい・・るんだ・・よ」
この部屋に入ってきて、この光景を見て、こんな言葉と態度をとる人間は、警察関係者ではないと伊織は考えたのだが、そんな事はどうでもいい。
(ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな)
繰り返し、繰り返し、三度繰り返される5文字の言葉。
この男はいま、左から部屋に入ってきた。
左から・・。
「・・あ・・あきなに何をした」
聞いてしまう。
嫌、聞かずにはいられなかった。
この男は左から、あきなが逃げて行った廊下の方からやってきたのだ。
それは、伊織達がこの部屋にやってきた方角であり、この事が何を意味するのかを伊織は瞬時に覚った。
ここまで、ほぼほぼ一本道であった事。
仮に部屋があったとして、この状況で部屋に入って隠れる可能性は低い。
何故なら、後から自分が追いかけて来るとわかっていながら、隠れる可能性は無いと言ってもいい。
つまり、あきなはこの男と鉢合わせた可能性が高く、だとするならば・・。
「少年、君の名前は?」
「・・・。」
伊織の質問は無視され、逆に質問をされるも、伊織は無視する。
「この世の中はとても残酷だ。平等、平等、平等と、美しい言葉を奏でるクセに、やっている事は虫ケラ以下だ」
「・・・。」
「この世界は弱肉強食社会であふれている。おっと、弱肉強食ということわざを知っているかな?」
「・・・。」
「君が殺したのは私の知人でね。いやはや、ここで喰われてしまうなんて」
「あきなはどうしたって聞いているんだよ!!」
吠える伊織の怒声を、男はニッコリ笑いながら返す。
「死んだ。嫌、これだと違うかな?私が食べた。うん。これだ」
「し、死ねよクズがぁぁあ」
走り出しながら、伊織は叫ぶ。
両手には何も持っていない。
武器がなかったからだが、もしあったとしても使わなかっただろう。
取る余裕がなかったのもあるが、両手が剥けている為、武器を取りに行ったとしても、掴めなかっただろう。
男の顔面目掛け、飛び蹴りを繰り出す伊織であったが、片手だけで軽くあしらわれてしまう。
(上がダメなら・・)
着地と同時に男の足首目掛け、下段廻し蹴りを繰り出した。
「ほぅ。やるなぁ少年・・だが・・甘い!」
伊織の攻撃をジャンプしてかわした男は、そのまま伊織の胸に着地する。
「ぐはっ!」
溢れ出す空気。
男の足をどかそうとして、男の足首を掴むも意味はない。
80キロあるであろう男を、子供の伊織では持ち上がらない。
両手が剥けていて、思うように力が入らない。
「くっくっく。落ち付きたまえ少年。嫌、伊織君」
「何でだよ。何であきなを殺した!!」
「ふむ。何でと言われてもなぁ。答えるなら、これは自然の摂理だよ」
「自然の・・摂理・・」
伊織が聞き返すと、スーツを着た男は両手を広げ、演説しだした。
「君は常日頃から誰かの命を奪っているという自覚はあるかね?豚や牛、鳥などなどだ」
「・・・。」
「お肉に限った事ではない。卵や魚もそうだが、歩く時にアリを踏み潰した事はないかね?ん?我々は常日頃から上を向いていて下など見ない。つまり、気づかないうちに踏んでしまっている事だってあるのだよ」
「・・・。」
「しかしだ伊織君。社会は何て言うかね?上を向いて、前を向いて歩けと教えていないかね?無能な教師達は下など向いて歩くなと教えているだろう。つまりこの社会は地面を這いつくばる事しかできない虫達の命など、これっぽっちも考えてなどいない」
「あきなは・・あきなは虫なんかじゃない」
「彼女は勇敢であった。震える両手足で、私を見るなり両手を広げて言うのだ。この先には行かせないと」
「・・・!?」
「どうやら君の恋人だったようだね。それは悪いことをした。私はね伊織君。無闇に命を奪う者ではない。そこのクズとは違ってね。ここにはあのクズを殺す為に来たのだが、どうやら君が彼を殺したようだ」
悪びれた様子もなく、スーツを着る男は続ける。
「伊織君。ここは君に謝罪と敬意を表して取り引きといこう。君の命は保障してあげよう。聞きたい事がある。そこの女性は君の母親か?」
「・・せよ」
「ん?」
「殺せって言ってんだよ!!」
「ふふふはっははは。嫌はや失礼。伊織君。命の使い方を間違えてしまってはいけない。君は今、命という大切な物を得たのだ。それはお金には変えられない価値のあるものであり、死なせてくれなど間違っても考えない事だよ」
「クソ!クソ!クソーー!!」
「君の態度でおおよその事は検討がついた。嫌、この部屋の惨劇を見た瞬間、あきなという少女の態度でだいたいの予想はついていたのだがね」
あきなを逃して、見ず知らずの男と戦う事はあるといえばあるだろう。
正義感に溢れている者か、この部屋で死体を発見した所を犯人に見つかってしまった場合などである。
しかし、だからと言ってここまで犯人の顔を殴るだろうか?犯人の男の顔は、原型を留めていない。
極めつけは、死体の側に優しく置かれた犬の死体であり、犬の首には首輪が巻かれており、野犬でない事がわかる。
「さて伊織君。私はこれで失礼させてもらうとするよ。君の命は君の物だ。しかし、使い方を間違えてはいけない。自殺なんて馬鹿な事は考えるな。それは二人の女性に失礼な事だよ」
二人の女性とは、あきなと母親の事だと伊織は理解した。
理解すると同時に叫ぶ。
「必ずだ。必ず俺が、必ず俺がお前を殺してやる」
そう叫ぶと、スーツを着た男は嬉しそうに微笑んだ。
「そうだよ伊織。その気持ちを忘れてはならない」
まるで諭すように、ゆっくり語りかける男。
「私はバロンと呼ばれている。いつか探し出して殺しにくるといい。では取り引きは成立した。そうそう。失礼する前に二つ君に教えてあげよう」
伊織から足をどかす男。
好機と思った伊織はすぐさま男の急所、金的を狙って右足を振り上げるが、男に軽くあしらわれてしまう。
お返しにと男から鋭い蹴りを貰い、壁まで吹き飛ばされる伊織。
壁と衝突した伊織は、意識が朦朧としてしまう。
「さて一つは死体についてだが、そこの女性は縛られているので持っていけないが、もう一人の方は私が殺してしまった死体だがらね。私が処理しよう」
待て!と答えたい伊織であったが、身体が動かない。
薄れゆく意識の中で、次の言葉だけは忘れない。
嫌、忘れさせてくれない言葉であった。
「二つ目は、そこの女性を殺した人物だが、君も知っているシーサーという男だよ。その男をどうするかは君の自由だが、決して死んでくれるなよ」
そうでないと生かした意味が無いからねと言う男の声は、伊織には届かなかった。
意識のブレーカーが落ちてしまっていたのだった。
ーーーーーーーーーー
誰かが呼んでいる。
その声で、伊織は意識を取り戻した。
目を開けると、白い天井が目に入る。
急いで身体を起こそうとするも、全身に痛みが走り、苦痛の声があがった。
その声を聞いて、意識が戻ったと気付いたらしく、女性が声をかけてくる。
「起きたか。どうだ?自分が誰だかわかるか?」
金髪の髪、綺麗な青い瞳をしている事から、アメリカ人だとわかる。
綺麗な顔立ちなのだが、黒い眼帯を左目にしていた。
不思議に思う伊織であったが、そんな事を考えている場合でないと気づいた。
「ここ・・は?」
「ふー。病院に向かっているところだが、いいか少年。私は質問をしている。自分が誰だかわかるか?」
ここは?と聞かれたら、車の中だと答えるべきなのだが、女性はそれを省略した。
車の振動や車の音で、車の中だと説明しなくてもわかるだろう。
それに、病院に向かっていると伝えれば、車で向かっていると思うだろうと判断しての事でもあった。
「か・・伊月・・香織」
香月伊織と名乗ろうとして、伊織はやめた。
甘い香りが漂う女性の胸元に、警察バッジが目に見えたからである。
甘い香りは、女性が吸っているタバコからか、女性がつけている香水なのかは解らない。
「そうか・・やはり君がか。私は君のお父さんの同僚だったエルザという者だ。気分はどうだ?話せる状態か?」
気分は最悪である。
無論、エルザもそれは理解しているだろうと伊織は解釈した。
今ここにいるという事は、誰かがあの部屋から自分を連れ出したという事である。
つまりあの現場、母親とゴン太、犯人の男の三っつの死体がある部屋で、全身返り血を浴びた少年が倒れているという奇妙な出来事があれば、一刻も早く情報を集めるべきであり、その情報を持っている人物は他ならぬ自分であった。
「と、とうさ・・父は何処ですか?」
説明をするのであれば、父親が最も理解が早いだろうと伊織は考えた。
それに、これ以上は一人では抱えておけそうにない。
エルザはその言葉を聞くと、とても悲しそうな顔をしていたのを、今でも覚えている。
「親父さんに話したいのは解るが、まずは私に」
「親父だ!親父は、親父は何処で・・すか?」
思わず興奮して、エルザの言葉を遮る伊織であったが、エルザが優しく抱きしめてきた事で、少し落ちつきを取り戻した。
落ちついたというよりは、驚いたと表現するべきなのかもしれない。
「落ちつけ。いいな?これから何があっても私はお前の味方だ。いいか、忘れるな」
何があってもとはどういう意味なのかは解らない。
解る事があるとするならば、これから何かがあるという事であった。
「話したくない気持ちは解る。しかしだ伊月。我々は犯人を捕まえないといけない」
だから情報を寄越せと言いたいのだろうか?
ふざけやがって。
伊織の中でフツフツと湧き上がる感情であったが、ふとある事に気付いた伊織。
「同僚・・だった?」
エルザと名乗る女性は、確かにそう言った。
胸元の警察バッジは、偽物には見えない。
伊織の反応に、少し戸惑ったエルザであったが、一呼吸置いてからゆっくりと、語り始めた。
「落ち着いて聞け。お前の親父さんは昨日、殉職なされた」
殉職。
つまりは死んだということだと、伊織が理解したのは少しの時間がかかった。
「落ち着け。少しでいい。深呼吸をしろ」
荒い呼吸を聞いて、エルザは抱きしめながら、背中を優しく叩いた。
伊月香織は、家族を失ったのだった。
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病院に着く頃には、落ち着いていた。
落ち着いていたというより、気力も体力も失っていたが正しいだろう。
「病院に着いたぞ。伊月、何かあったら私を頼るといい。胸元に入れた名刺に電話番号も入っている」
「・・・」
「なぁ伊月。せめて犯人の特徴だけでも教えてくれないか」
エルザは後部座席を開ける寸前で、伊織に話しかけた。
エルザは、有力な手がかりが欲しかった。
また、この少年からしても、早く犯人を捕まえて欲しいと考えている筈だと考えての事である。
「あきなを殺したのはバロンという男だ。母さんを殺したのは・・」
バロンという男と言った伊織に対し、エルザは即座にメモを取るのだが、母さんを殺した人物の名前を聞いた途端、慌てて伊織の口元をおさえにかかる。
「場所を変える。いいな?」
もの凄い形相をしたエルザ。
有無を言わせないとはこういった時に使うのだろうと、伊織はうなずきながら考えていた。
エルザは運転席側に歩み寄り、何かを伝えると、再び伊織のいる後部座席にやってきて、ドアを閉めた。
「少し眠るといい。ただし、何も話すな。いいな」
普通であれば、訳も解らずパニックになるだろう。
しかし、今日ばかりはパニックになどならなかった。
家族を失った衝撃に比べれば、蚊に刺された程度の衝撃である。
そっと目だけを閉じて、寝たフリでもしながら、エルザから情報を盗み聞こうと考えていた伊織であったが、いつのまにか眠ってしまっていた。
今思えば、エルザが何かしたのだろうと思う。
深い眠りの中で見た夢は、この間家族でピクニックに行った時の夢であった。
それは、もう二度と味わえない温もりである。
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伊織が目を覚ますとそこは、家の中であった。
天井にはクルクル回る風車。
ふかふかのベッドに横たわっている自分。
ベッドだと理解した瞬間におとずれる吐き気。
「落ちつけ。大丈夫だ。大丈夫。ここはアソコではない」
伊織が、口元をおさえているのに気がついたエルザは、ベッドに腰掛けて優しく背中をさする。
吐き気に襲われたのは、母親の事を思い出してしまったからであった。
エルザもそうなると予想して、洗面器を用意していた。
上体を起こし、もらった水で口の中をすすぐ。
伊織が落ち着いたのを確認したエルザは、伊織のそばにある椅子に、腰掛けて足を組む。
「ここは私の家だ。さっきはすまなかったな。盗聴されている恐れがあったから・・さて」
よ
さてどうしたものかという、言葉はでてこない。
何故なら、伊織が遮ったからである。
「やっぱり、シーサーは、あのシーサーなんだな」
「・・・伊月。ここから先、その事について他言無用だと誓えるか?また、場合によっては証人保護プログラムを受けてもらわなくてはならない」
バロンという男は言っていた。
君も知る人物だと。
そして、ここまで用心しなくてはならないという事は、もはや間違いはないと断言できる。
シーサー。
嫌、シーサー大統領。
母親を殺したのは、アメリカ合衆国の大統領であった。
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