「嗚呼!青春の大根梁山泊!」~東海大学・僕と落研の物語~
「嗚呼!青春の大根梁山泊!」~東海大学・僕と落研の物語~①
「はじめに」
私は、偶然の出会いに何かの意味を感じてしまう。
何気なく、電車を一本乗り過ごした時、車内で昔の友人に出会ったりするからである。
なぜ、あの時一本乗り過ごしたのか? それは、自分にも分からない。でも、何か目には見えない運命がイタズラしているような気がするのである。
私は、偶然人と出会うことが多い。初めて旅した札幌の街で偶然大学時代の後輩と出会ったり、初めて行った長野駅近くの映画館で先輩に声をかけられたりするのである。しかもそういう時は、決まって行き当たりバッタリで行動した時である。
スケジュール通り行動したコンサートやイベント会場では、こういった出会いはない。当日、気が変わって行き先を変更した時には、偶然の出会いが増えるのである。まるで予知能力でもあるかのように…
そして、私は偶然の出会いに何か運命を感じてしまうのだ。
私は現在、放送作家という職業についている。
しかし自らこの仕事に飛び込んだ憶えはない。何か目に見えない運命に導かれて、自然となってしまった感がある。
その運命の出発点が大学のクラブであった。
これから書き綴る物語は、ごく普通の私立大学の落語研究部になぜか集まった変な若者たちのエピソードである。
何故、こんな奴らが、ここに集まってしまったのか? そこには何の意味があったのか? それは誰にも分からない。
ただ昭和の末期に、毎日笑いに包まれ、試験も留年も就職も、全てを笑い飛ばして生きた馬鹿な大学生たちの偶然の出会いと運命の不思議を記録しておきたかったのである。
「入学」
昭和55年4月。
私、小林哲也(18才)は静岡県の磐田市から、大学に入学するため小田急線の「大根(おおね)駅」へと降り立った(神奈川県秦野市のはずれ。現在は「東海大学前駅」へと改名)。大根(だいこん)と書いて「おおね」と読む。まったく、田舎丸出しの駅名である。
ここには全国に付属校を持つマンモス大学「東海大学・湘南校舎」がある。そう、どちらかと言うと勉強よりスポーツで有名な、あのTOKAIである。大学の住所は神奈川県平塚市。つまり駅と大学は別の住所。市と市の境にある大学なのだ。
昭和55年当時、のちに巨人軍の四番を打つ原辰徳選手が四年生。大学院には、後の金メダリスト・柔道の山下泰裕さんも在籍していた。
私は、人生においてこれといった目的もなく大学へと進学していた。
しいて言えばドラマ「俺たちの旅」に影響され、大学というものに通ってみたいと思ったのが動機だった。私はドラマの中のオメダ(田中健)が自分に近い性格だと思っていた。そこで、カースケ(中村雅俊)やグズロク(秋野太作)との出会いを求めていたのだ。
私は、初めての一人暮らしを始めた。
人生の展望は何もない当時の私は、大学生活に小さな夢を抱いていた。
それは大学で落語をやるということだ。しかも世間知らずとは恐ろしいもので、落語をやれば女の子に「モテる」と思っていたのである。でも、そんな小さな夢が私にはとても大きなものに思えた。普通に考えれば落語研究部というサークルに入るだけのことだが、私には何故か人生を左右する一大事だったのである。
話は遡るが、昭和53年。私が高校二年生の時である。
日本テレビ系の特番で「第1回全日本学生落語名人位決定戦」という番組が放送された。
その名の通り全国の予選を勝ち抜いた落研(落語研究会)の代表が「学生名人位」の称号を目指して競うコンテストである。私は当時、落語の知識は皆無。どうせ、素人の落語などヘタクソだろう! と、どこか蔑んだ目で見ていた。
しかし東海大学落語研究部・頭下位亭(とうかいてい)獅子頭(ししがしら)と名乗る学生の(「素人鰻(しろうとうなぎ)」には驚きを隠せなかった(一般には「鰻屋」と言われている演目。別名「士族の商法」とも呼ばれる名人・文楽でお馴染みの「素人鰻」ではない)。
その学生の親指は、本物の鰻のように左右に揺れながら手のひらからすり抜け、躍動感タップリに、つるつると前にすり抜けて来るのである(この動きは、文章で表現するのが難しいが、要するに親指を鰻の頭に見立ててその動きを表現する古典落語の仕草である)。
落語オンチだった私にとって、この噺を聞くのは初めて。当然、鰻の仕草を見るのも初めて。しかし素人落語ながら、あの鰻の動きは芸術品に思えたのである。もちろん、動きだけではなく、くすぐりもよくウケていた。
ちなみに、この獅子頭と名乗る学生は現在の柳家一九(いっく)師匠。今や寄席で定期的に主任(トリ)を勤め、上野・鈴本演芸場や池袋演芸場で独演会を開く古典の実力派である。
私は、この学生の落語に魅せられてしまった。「この人、優勝するぞ!」これが素直な感想だった。
番組の司会は、当時日本テレビの看板アナ・徳光和夫さん。さらに審査員には、桂米丸師匠、笑福亭松鶴師匠など、東西の大看板が五人ほど揃っていた。
私はエンディングの各賞の発表をドキドキしながら見ていた。
縁もゆかりもない学生に何故ここまで入れ込んだのかは分からない。接点があるとすれば私が東海大学の付属校の生徒だったことぐらいである。
賞が貰えるのは3人だけ。敢闘賞、技能賞、名人位の三つである。要するに三位から一位までが賞の対象なのだ。
「東海大、こい!」私はいつの間にか、馬券を握りしめたオヤジのように興奮していた。それだけ、自分の評価に自信があったのだ。
しかし結果は、上方落語を演じた、甲南大学の学生が敢闘賞(3位)で、東海大学は技能賞(2位)。
優勝したのは「道具屋」を演じた関東学院大学の学生であったと思う(関東学院大学は他にもう1人出ていて「強情灸」を演じていた)。他に東北大学も出ていた様な気がする。
悔しかった、何で負けたのか私には分からなかった。当時の私には優勝者の地味な芸の上手さは分からなかった。東海大が負けるとすれば派手に演じた日大かな? と思っていた。
それだけに、自分の見る目を否定されたようでとても悔しかったのだ。
なおこの3人の中で現在プロとして活躍しているのは頭下位亭獅子頭こと、現在の柳家一九師匠だけである。
その点では、私の眼力はなかなかのものだったと自負している。
話は、昭和55年の大学入学時に戻る。
私は、高校時代テレビで見た、あの東海大の学生の落語が脳裏に焼き付いて離れなかった。
あの人はまだ大学にいるのだろうか? 駅からメインストリートを歩き、大学へ向かう急勾配の階段を登ると、大学の外塀に「新入部員募集! クラブ説明会」の看板がギッシリと並んでいた。中には当然、落語研究部のものもある。看板はかなり達筆な橘流寄席文字でキッチリと書かれていた。
「落研か…」、春の心地良い朝日が看板の文字を斜めから照らしていた。あの学生の鰻の動きが青空に浮かんで見えた。
私は、偶然の出会いに何かの意味を感じてしまう。
何気なく、電車を一本乗り過ごした時、車内で昔の友人に出会ったりするからである。
なぜ、あの時一本乗り過ごしたのか? それは、自分にも分からない。でも、何か目には見えない運命がイタズラしているような気がするのである。
私は、偶然人と出会うことが多い。初めて旅した札幌の街で偶然大学時代の後輩と出会ったり、初めて行った長野駅近くの映画館で先輩に声をかけられたりするのである。しかもそういう時は、決まって行き当たりバッタリで行動した時である。
スケジュール通り行動したコンサートやイベント会場では、こういった出会いはない。当日、気が変わって行き先を変更した時には、偶然の出会いが増えるのである。まるで予知能力でもあるかのように…
そして、私は偶然の出会いに何か運命を感じてしまうのだ。
私は現在、放送作家という職業についている。
しかし自らこの仕事に飛び込んだ憶えはない。何か目に見えない運命に導かれて、自然となってしまった感がある。
その運命の出発点が大学のクラブであった。
これから書き綴る物語は、ごく普通の私立大学の落語研究部になぜか集まった変な若者たちのエピソードである。
何故、こんな奴らが、ここに集まってしまったのか? そこには何の意味があったのか? それは誰にも分からない。
ただ昭和の末期に、毎日笑いに包まれ、試験も留年も就職も、全てを笑い飛ばして生きた馬鹿な大学生たちの偶然の出会いと運命の不思議を記録しておきたかったのである。
「入学」
昭和55年4月。
私、小林哲也(18才)は静岡県の磐田市から、大学に入学するため小田急線の「大根(おおね)駅」へと降り立った(神奈川県秦野市のはずれ。現在は「東海大学前駅」へと改名)。大根(だいこん)と書いて「おおね」と読む。まったく、田舎丸出しの駅名である。
ここには全国に付属校を持つマンモス大学「東海大学・湘南校舎」がある。そう、どちらかと言うと勉強よりスポーツで有名な、あのTOKAIである。大学の住所は神奈川県平塚市。つまり駅と大学は別の住所。市と市の境にある大学なのだ。
昭和55年当時、のちに巨人軍の四番を打つ原辰徳選手が四年生。大学院には、後の金メダリスト・柔道の山下泰裕さんも在籍していた。
私は、人生においてこれといった目的もなく大学へと進学していた。
しいて言えばドラマ「俺たちの旅」に影響され、大学というものに通ってみたいと思ったのが動機だった。私はドラマの中のオメダ(田中健)が自分に近い性格だと思っていた。そこで、カースケ(中村雅俊)やグズロク(秋野太作)との出会いを求めていたのだ。
私は、初めての一人暮らしを始めた。
人生の展望は何もない当時の私は、大学生活に小さな夢を抱いていた。
それは大学で落語をやるということだ。しかも世間知らずとは恐ろしいもので、落語をやれば女の子に「モテる」と思っていたのである。でも、そんな小さな夢が私にはとても大きなものに思えた。普通に考えれば落語研究部というサークルに入るだけのことだが、私には何故か人生を左右する一大事だったのである。
話は遡るが、昭和53年。私が高校二年生の時である。
日本テレビ系の特番で「第1回全日本学生落語名人位決定戦」という番組が放送された。
その名の通り全国の予選を勝ち抜いた落研(落語研究会)の代表が「学生名人位」の称号を目指して競うコンテストである。私は当時、落語の知識は皆無。どうせ、素人の落語などヘタクソだろう! と、どこか蔑んだ目で見ていた。
しかし東海大学落語研究部・頭下位亭(とうかいてい)獅子頭(ししがしら)と名乗る学生の(「素人鰻(しろうとうなぎ)」には驚きを隠せなかった(一般には「鰻屋」と言われている演目。別名「士族の商法」とも呼ばれる名人・文楽でお馴染みの「素人鰻」ではない)。
その学生の親指は、本物の鰻のように左右に揺れながら手のひらからすり抜け、躍動感タップリに、つるつると前にすり抜けて来るのである(この動きは、文章で表現するのが難しいが、要するに親指を鰻の頭に見立ててその動きを表現する古典落語の仕草である)。
落語オンチだった私にとって、この噺を聞くのは初めて。当然、鰻の仕草を見るのも初めて。しかし素人落語ながら、あの鰻の動きは芸術品に思えたのである。もちろん、動きだけではなく、くすぐりもよくウケていた。
ちなみに、この獅子頭と名乗る学生は現在の柳家一九(いっく)師匠。今や寄席で定期的に主任(トリ)を勤め、上野・鈴本演芸場や池袋演芸場で独演会を開く古典の実力派である。
私は、この学生の落語に魅せられてしまった。「この人、優勝するぞ!」これが素直な感想だった。
番組の司会は、当時日本テレビの看板アナ・徳光和夫さん。さらに審査員には、桂米丸師匠、笑福亭松鶴師匠など、東西の大看板が五人ほど揃っていた。
私はエンディングの各賞の発表をドキドキしながら見ていた。
縁もゆかりもない学生に何故ここまで入れ込んだのかは分からない。接点があるとすれば私が東海大学の付属校の生徒だったことぐらいである。
賞が貰えるのは3人だけ。敢闘賞、技能賞、名人位の三つである。要するに三位から一位までが賞の対象なのだ。
「東海大、こい!」私はいつの間にか、馬券を握りしめたオヤジのように興奮していた。それだけ、自分の評価に自信があったのだ。
しかし結果は、上方落語を演じた、甲南大学の学生が敢闘賞(3位)で、東海大学は技能賞(2位)。
優勝したのは「道具屋」を演じた関東学院大学の学生であったと思う(関東学院大学は他にもう1人出ていて「強情灸」を演じていた)。他に東北大学も出ていた様な気がする。
悔しかった、何で負けたのか私には分からなかった。当時の私には優勝者の地味な芸の上手さは分からなかった。東海大が負けるとすれば派手に演じた日大かな? と思っていた。
それだけに、自分の見る目を否定されたようでとても悔しかったのだ。
なおこの3人の中で現在プロとして活躍しているのは頭下位亭獅子頭こと、現在の柳家一九師匠だけである。
その点では、私の眼力はなかなかのものだったと自負している。
話は、昭和55年の大学入学時に戻る。
私は、高校時代テレビで見た、あの東海大の学生の落語が脳裏に焼き付いて離れなかった。
あの人はまだ大学にいるのだろうか? 駅からメインストリートを歩き、大学へ向かう急勾配の階段を登ると、大学の外塀に「新入部員募集! クラブ説明会」の看板がギッシリと並んでいた。中には当然、落語研究部のものもある。看板はかなり達筆な橘流寄席文字でキッチリと書かれていた。
「落研か…」、春の心地良い朝日が看板の文字を斜めから照らしていた。あの学生の鰻の動きが青空に浮かんで見えた。
コメント
瞳尻(ひとみしり)
二十年前に書いた文章をアップすることにしました。無料で楽しめます。昇太師匠の居た頃の落研物語。笑えるドキュメント。自宅待機の暇つぶしにどうぞ。