忠犬コタ公物語

小鳥 薊

最終話 生きとし生けるもの

僕は、カヨちゃんと暮らし始めてからすぐに高熱を出し、寝込んでしまった。

医者に掛かったがインフルエンザではないと言われ、解熱鎮痛剤を処方してもらい、暫く様子をみるように言われた。

カヨちゃんは僕が熱を出した間も、仕事を休む訳にはいかなかった。
心配しながらも毎日出掛けていくカヨちゃんを、大丈夫だよ、と見送って、僕は一日の大半を一人で真っ白な天井を見ながら過ごした。

身体は辛かったけれど、僕はちっとも不安ではなかった。カヨちゃんはどんなに遅くても必ず帰ってきてくれるのだから――。

僕は少しぼんやりしてそのまま眠ってしまったようだ。


卵粥とキャベツスープの匂いで僕は目を覚ました。

カヨちゃんが帰ってきて、僕のために作ってくれているのだ。
僕はしっかりと目を開けたのに、どうしてか視界がぼやけていた。
白い天井に手を翳してみたが、手の甲の皺や血管すら確認できないくらいに靄がかかっている。熱のせいだろうと思おうとした。
その時、カヨちゃんがこちらへやって来た。

「コタ、調子はどう?」
「うん、薬が効いたんじゃないかな、身体はだいぶ楽だよ、でも」
「でも、なに?」
「目が、なんだかぼんやりしてて見えにくい」
「……なんだろね」
そう言って、カヨちゃんが僕の瞳を覗き込む。近くに来た彼女の顔もやっぱりピントがブレブレでちゃんと見えない。
カヨちゃん、きっと今日も綺麗なのにね。
「コタの目、なんだか白く濁っているような気がする……。ひょっとして、白内障かな……ありゃ、コタ! ちょっと」
「な、なに?」
「睫毛に、白髪!」
カヨちゃんは、すごーい、と言って和やかに笑った。
そんなカヨちゃんの顔を狙って、僕は口づけする。
口を狙ったつもりが、ちゃんと見えないから随分ずれた場所にしてしまった。


「僕の好物、覚えていてくれたんだね」
「もちろんよ、キャベツの芯、捨てないで冷蔵庫にとってあるから、元気になったら食べて。卵粥にもね、ササミ細かくして入れてみたのよ」
「ありがとう」
「目もきっと熱のせいだよ、見えにくいなら私が食べさせてあげる」

僕はお言葉に甘えて、彼女に食べさせてもらった。

「私ね、ずっと後悔していたの。コタが犬だっていうことをいつの間にか忘れて、人間の常識を、というより私のエゴを、コタに押し付けようとしていたんだね。そんなんだもの、上手く行くわけがないわよね」

「別に、カヨちゃんが気に病むことじゃない」
「おばあがいてくれたらって思ったこと何度もあった。間違いに気付いたときには……もう、遅かったよね。」
「遅いとか早いとか、僕はわかんないや。でも今は君がここにいる。それで僕はいいと思う。」
「コタは、こんな人生で良かった?」
「……僕さ、一人になって、食べて生きていくことが大変で、結構な頻度で犬に戻りたいなあって思うことはあったんだ」
「うん」
「人間って、思った以上に生きていくことが大変なんだ」
「そうだね……」
「でもね、またこうしてカヨちゃんと暮らせたから人間のままでよかった」
「うん」
「カヨちゃんは、僕が犬と人間のどちらでいた方がいい?」
「今はもう、どっちでもいい」

カヨちゃんの、表情は分からないけれど、きっと笑っている。それを確信して僕もまた笑った。
「カヨちゃん、また抱かせてくれる?」

「はい、どうぞ」

そう言ってカヨちゃんは、僕の腕を片方ずつ自分の首元まで導き、僕は彼女を出せる限りの力で思い切り抱き締めた。その力の弱さも、彼女には伝わったらしい。


それからの僕は、回復が芳しくなく、おばあみたいになってしまった。
わざわざカヨちゃんの世話になるために、のこのことやって来たわけじゃないのに……。それなのに、どうしても身体に力が戻らない。視力も一向に落ちたままだった。
最近では、耳の中で蝉が鳴き、真夏の林の中にいるように、カヨちゃんの言葉をちゃんと聞き取れないときが増えた。

やっぱり、歳を取ってからの風邪を甘く見ると駄目だね。
僕は、もしかするとこのまま回復しないのかもしれない。


カヨちゃんは今、マネージャーにお願いして仕事の量を減らしてもらっているらしい。
カヨちゃん、ごめんね。僕は、カヨちゃんのために今一度元気になりたい。

「カヨちゃん、」
「なに?」
「僕ね、カヨちゃんを一人にはさせないよ」
「うん」
「カヨちゃんは、この世界に一人ぼっちじゃないよ」
「うん」
「僕がいるからね」
「うん」
「だからカヨちゃん、僕が元気になったら、また抱かせてね」

僕がそう言うと、カヨちゃんは泣いた。僕は、それがどうしてかわからない。

「うれし泣き?」
僕が聞くと、彼女はうんうん、と頷いた。

カヨちゃんは僕らの結末を悟ったみたいだ。




〜〜〜〜〜〜〜〜

身体が思うように動かせなくなった。
声が小さくなった。
目も耳も役に立たない。
外の世界が遠く感じる。カヨちゃんと、カヨちゃんの住んでいる世界が遠い。

僕は、もう認めるしかなかった。僕はこのまま骸になる。

僕は、想像した。
もしも僕の目が再び見えるようになって、この深い霧の中からカヨちゃんを見つけたら、どうだろう。
今までの、カヨちゃんを見つけたときの感動を思い出して、想像してみる。あのとき、あのときや、またあのときの感覚と同じだ。
僕はようやく本当に、カヨちゃんだけのハチ公になるのだ。


人間は、どうして生まれてきたのかを疑問に思って、考えることのできる生物だ。
それって素晴らしいことだと思う。
命の重さも生きる喜びも、身体で感じて表現することができるなんて素晴らしい。
答えなんてないのかもしれないけれど、もしかしたらその答えを見つけ出せる可能性を持つ、唯一の生物だよね。
僕は、そんなことやっぱり深くは考えない。だって、僕は犬コロだからさ。
生まれた意味とか、そんなのは、きっとないよ。
ただ、僕が産まれたとき、傍にはカヨちゃんがいた。そして今、おそらく、僕にとっての天寿、永遠の死という眠りが訪れようとしている今、やっぱり傍らにはカヨちゃんがいる。
生まれた意味があるとしたら、これが僕の意味じゃないかと思う。


カヨちゃん、僕は君を悲しませるために産まれたのではなく、君を楽しませるために産まれてきたのでもなく、君を幸せにできたら良かったのだけれど、それでも君にこうやって最後を看取ってもらえる幸せを感じられる、この瞬間のために、今まで生きてきたのだと思うよ。

あ、そうだ、そうだった。

僕は今、大切なことを思い出した。
僕が人間になった日のことを――。
僕があの時、何を思っていたのかということを――。
僕は、カヨちゃんに、カヨちゃんって呼び掛けたかったんだ。カヨちゃんの言葉に応えたかったんだ。

カヨちゃん。

カヨちゃん。

僕は、この身体で精一杯、カヨちゃんって呼び掛けた。そりゃあもうしつこいぐらい、呼び掛けた。僕は満足だった。

ねえ、カヨちゃん。
僕が死んだら、骸はどうしたっていいんだけどさ、もしも土に埋めてくれるならさ、僕の好きなキャベツの芯と、ソフトボール一個と、カヨちゃんのキャミソールをさ、一緒に埋めてくれると嬉しいです。

僕はこれから、カヨちゃん、君との約束を果たすため意気込んでいるよ。

カヨちゃんは覚えているかな。
昔、君が言った夜空の一等星を、取りに行くって話だよ。
だから僕は死がちっとも恐くない。絶対に取ってみせるから期待していてよね。嘘つきとか、ダメ男とか、いい加減な奴なんて言わせないよ。今回は自信があるんだ。

カヨちゃん、これ全部、目の前にいるはずの君に話し掛けているつもりだったんだけど、聞こえているかな、僕の声はちゃんと出ているのかな。
これで、長々と語ってきた忠犬コタ物語は一旦綴じるけれど、次は第二幕で、ね。



――少し寝るね、愛してるよカヨちゃん。ばあい。


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