忠犬コタ公物語

小鳥 薊

第9話 ひとり

それから、一年と半年が経った。

時間の流れはあっという間だった。

僕は、どうやって今までを過ごしてきたのだろう。あんまり記憶にないから分からない。
どんな状況でも、生命力というのは驚くべきものだ。
僕は、この図太い生命力と生まれ持っての犬の本能で、死は意外にも遠く無事に生きていた。
別に困窮した覚えもない。
おばあの口座には、僕が一人生活していくだけの十分なお金があったし、第一、僕ってお金の掛からない男だから。犬だけに。
僕は、人と犬の中間のような生活を送った。


人が住まなくなった家というのは、途端に寂れていくものだ。
僕は、何を待っていたのだろう。
決して帰らぬ人を待つように、過去を、遠い過去にしないよう悪足掻きしていたのは確かだ。
部屋は出来るだけ綺麗に、家を殺さないように、努力してきたつもりだった。

数週間やそこらでは流石に、おばあの匂いも、カヨちゃんの匂いも消えはしなかったが、それは確かに薄くなっていくのが鼻の利く僕には分かる。
そこからまた数ヶ月経つと、もう家に染みついた匂いしかしなかった。
カヨちゃんの匂いも、埃の匂いに塗れて、曖昧になった。おばあの仏壇の、線香の匂いだけしぶとく、確かに残っている。

カヨちゃんの匂いも、カヨちゃんの表情も、思い浮かべることはできるはずなのに、それは全て僕の脳内の不確かな記憶なので、もしも現実で再現したら随分違うかもしれない。

僕は、日が経つにつれて、自分以外のいろんなことに自信がなくなる。

待つ身とは、何と言おうか、今の僕の心は、思いの外、平穏で冷静だった。
それは秋の湖のように、音も立てずに何かが終わるその瞬間を待っているように、堂々とした心持ちだった。
それでも、この境地に至るまでにはそれなりに心が乱れる瞬間はあったし、今でもたまに悲しい気持ちで眠れない夜がやってくる。

僕は一度、カヨちゃんが去ってちょうど半年して、とうとう我慢ができなくなった。
カヨちゃんに会いに行くと決め、当てもない、カヨちゃんの捜索に出歩いた。
けれども、世界っていうのは、想像以上に広い。
カヨちゃんが出て行った翌日なら、せめて数週間後くらいなら、僕の良く利く鼻でカヨちゃんの足取りが何か掴めたのかもしれないが、もう半年も経てば何もかもが手遅れだ。
僕がカヨちゃんを探しに歩けば歩くほど、現実のカヨちゃんとの物理的距離はどんどん遠くなるような気がした。
ハチ公先輩が、一つ所でずっと待っていた気持ちが分かる。きっと、それしかできなかったんだ。
やっぱり家が一番だよね、思い付く限りでは。そこで待っていることが、得策なのかもしれない。その考えに行き着くと、自然と心も秋の湖になる。やがてくる極寒の冬をどうするか。
カヨちゃんに、帰ってきてほしい。
けれども僕は、この寄る辺ないカヨちゃんの捜索で、奇跡的にもカヨちゃんを見つけたのだ。でも、それは今思えば、幻かもしれない。


その数日、お金も何も持たず途方もないルートを彷徨っていた僕は、さすがにお腹も空くし喉も乾いて倒れそうだった。
馬鹿なことをしたものだ。
あと一日が限界だろうと思って、名前も知らない公園のベンチに座った。ここは、カヨちゃんが行ってしまった都会の何処かである。

「はあ、水うまいなあ」

公園の水飲み場でごくごくと水を飲み、火照った顔を冷やした。そうすると、先ほどよりも空腹が気になった。

「腹減ったー」
顔を上げて何の気なしに見たゴミ箱の中に、食べ掛けのパンが捨ててあるのを見つけ、少し悩んだけれど、僕の手は自然と伸びていた。
手に取ったそれの賞味期限は昨日だったし、一見汚れてもいないし、僕はそれをじっくり見ている間にも今潤したばかりの口に唾液が滲み出て来たのを感じる。
いいよね、僕、お腹壊したりしたことないし、犬だし……きっと強いんだ、そう決意は固まった。

僕はベンチに座り、それを口に入れようとした。その瞬間、後ろからすごい剣幕で誰かに怒鳴られた。
「おめえ、そのゴミ箱のものは俺のものだぞ、食ったりしたら承知しないぞ!」

びっくりして後ろを振り返ると、初老の、ホームレスのようだった。
髪の毛はぼさぼさで、顔の半分は髭で覆われていて表情が分かりにくい。服はボロボロの布切れで、黒なのかグレイなのかこげ茶なのか、ぱっと見では判断できない。

僕があっけに取られてその男を見ていると、男はずかずかと僕の前にやってきて、
「なんだよ」
と凄んできた。
「……いえ」
「それ、よこせ!」
僕が男から目をそらした瞬間、男は僕の手に握られていたパンの袋を、まるで猿みたいに俊敏に奪った。
「あっ」
僕は、指先も、口元ですらほとん反応できなかった。

「これ、捨ててあったんです、だから別にあなたのじゃないのでは?」
「は? だったらやっぱり、俺のだ!」
「そんな……」
「お前みたいな兄ちゃんは、ちゃんと稼いでテメエの金で飯買いやがれ、俺らの食糧に手付けてひやかすような真似するんじゃねえよ」
「……すいません」
僕は、何だか分からないこのおじさんの理屈に言い包められて、謝った。

「十分だ、十分したら仲間連れてきて有り金もらっちまうぞ! それまでに出ていけ」

ホームレスはそう言い放ってどこかに行ってしまった。
僕はその間、あっけに取られ目をぱちくりさせていた。
男が去ってからも、経験したことのない出来事の対処方法を、頭の中で考えていた。

とりあえず、十分経つ前にここを去ろう。それが、いい。
世の中、家の外に出ればいろんなルールがあるんだな。

公園の柱時計は午後二時を示していた。僕は、ようやく緊張の解けた体を少し動かして、もう歩けそうだと思い、ベンチを立った。

さあ、これから、一体どこを歩けばいい。
気温は更に上昇したらしく、僕の全身は暑さで朦朧としていた。

そんなときだった。

(うそ、あれ、カヨちゃん――。)

僕は、見間違いじゃない、偶発的にカヨちゃんを見つけた。
少し遠くて、ここからでは彼女の声も表情も良くは分からない。けれどもあの佇まいと歩き方を、僕が間違えるわけない、彼女だった。
僕は、すぐにでもカヨちゃんの元へ走り寄ろうとしたのだが、二、三歩、駆け出した脚を緊急停止させた。

彼女は、一人じゃなかった。
男と、腕を組んで歩いていた。
僕はその男に見覚えがあった。高校生のとき、カヨちゃんと夕暮れの道に佇んでいた、笹原君に間違いなかった。
二人は何やら楽しそうに全身を上下に弾ませながら颯爽と陽射しの中を歩いていく。今の僕とは、確かに生きている世界が違うと思った。
彼等の軌道は、僕の歩む方角とは交わらず、どんどん僕から遠のいていった。

カヨちゃん。
カヨちゃんが、行ってしまう。
せっかく、奇跡みたいな確率で彼女を見つけたというのに、僕は、何もしないで、見す見すこのまま彼女と二度と会えないかもしれないのに。
カヨちゃん、と呼べば良かったのに、僕はそれすらできなかった。
そんなことが、できるはずない。
どうして僕にそんなことができるだろう。僕は、カヨちゃんに声を掛けられるほど、今の自分に自信がないのだ。僕じゃ釣り合わない……カヨちゃんの世界に踏み込めるだけの自信がないのだ。

僕は、そのとき、まさしく忠犬ハチ公先輩の銅像みたいに、ただ一点を見て立ち尽くしていた。
ハチ公の気持ちが、今分かった。
嘗ては散々失礼なことをぬかして、ごめんなさい。
僕は、僕は、あの家で、待とう。やっぱりそれしかできない。
僕の希望は、もしも何処かにあるとするのならあの家にしかないのだから、そう思って家に戻った。家までの道のりはそう遠くは感じなかった。足取りも、疲弊していた割にはよく動いていたと思う。


家に着いて僕はまず、汚い全身を洗い流すことにした。
浴室の鏡に向き合って自分の顔を見る。
随分久しぶりのように思える。そして、何だか別人のように、僕の顔は少し骨ばったような輪郭に代わっていて、その見覚えのない青年の顔つきに驚いた。
痩せたからだろうか。
僕の姿は、もう少年ではなかった。歳を取ったのだ。
僕はどうやら、姿は人間だけれども、時の流れは犬のまま、寿命が人間より数段早く尽きるのだろう。

(このままじゃ、どんどんカヨちゃんに釣り合わなくなってしまうなあ……。)

今日見たカヨちゃんと笹原君は、随分お似合いで自然で、溌剌としていた。
僕は、これからどんどんカヨちゃんから離れていってしまうのか。
僕とカヨちゃんが一番近しかった時代は、もうとうに過ぎ去った過去になってしまっていた。
思い返せば、僕がカヨちゃんと初めて結ばれたあの日、あの頃、あれが僕等の帰路だったのだろう。
これから僕は、どんどんカヨちゃん、君から離れていく。
僕は、本当に、何をやっているんだろう。

犬の姿に戻りたいな、と、ちょっとだけ思った。それから誰か、別の人になれたら、とも思った。
カヨちゃんが僕と距離を置いたみたいに、僕も、僕自身と距離を置いて、何も考えずに生きていくのも良いのかもしれない。


それから、家で過ごした一人の日々を、僕はあまり覚えていない。
ただ生きていたから、昨日と今日の違いがないから――。
僕はそれでも生きていかなければならない。何のためなのか、誰のためなのかとか、そんなのは、答えはきっとないのだ。

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