忠犬コタ公物語

小鳥 薊

第3話 僕が人間になった日

先に述べておく。
これは、忠犬コタの絵日記ではなく、僕が人間になった物語。

僕の、僕とカヨちゃんの奇跡の冒険譚だ。

そう、僕は或る日突然、人間になった。

一体全体、どうしてか。

僕が、カヨちゃん、カヨちゃんってうるさいから、この世界のどこかにいる本物の神さまが僕の願いを叶えてくれたのかもしれない。
それともこれが仕組まれた実験的奇跡で、僕は誰かに試されているのかもしれない。
世界のどこかに神様みたいな存在がいて、僕の一挙一動はときに嘲笑され、称賛され、記録されているのかもしれない。
それでも、どうあっても僕にとっては願ってもないチャンスだ。
僕は、人間の言葉が話せる!
カヨちゃんと話ができるのだ。
僕はまるでこのときの興奮が冷めやらぬまま、失速することなく人生を一気に駆け抜けたような気がする。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

結局のところ、どうして僕が人間になったのか、その答えを教えてくれる人は、僕が死ぬ瞬間までに現れなかった。
僕が人間になった日、それはおばあが、いつからか寝てばかりになった或る日のことだった。
カヨちゃんは、ときどき、おばあの立たないキッチンで、この世の終わりみたいな顔をして立っていることがある。
この世の終わりといっても、地球規模の世界の終末とかいう問題とは見当違いだ。
カヨちゃんが想像しているのはもっと小さな箱庭の、カヨちゃんを取り囲む全てで構成された世界。
僕には、おばあがあと数年もしないうちに弱って死んでしまうことが分かった。奇跡が起きない限りは。おばあは、今でも死と添い寝しているんだ。
カヨちゃんは、洗面器にお湯を汲み、タオルを浸しながら、足元でうろつく僕に言った。
「ねえコタ」
「ワン」
なあに、カヨちゃん。
カヨちゃんの両手が、洗面器の水の中でゆらゆらと揺れている。
小さな波が端にぶつかる度に、ちゃぽん、ちゃぽん、言っている。
僕はカヨちゃんのほっそりとした指の遊泳を見ながら、彼女の声に耳を向けた。
「私ね、おばあの背中とか腕とか、踵とか、拭いてあげるの好きなんだ」
「ウワン」
知っているよ。カヨちゃんは、偉いね。毎日、こうやっておばあに恩返ししながら生きている。
「この一日がずっと続いてくれればいいな」

カヨちゃんは、この世界で独りぼっちになることを恐れている。
一人、残されることを、想像して、悲しくなっているっていうことが、僕には分かる。
僕は、カヨちゃんの顔と洗面器の水面を交互に見比べながら、やがてカヨちゃんの方ばかり見つめていた。
カヨちゃんがそのことに気付いた。
「えいっ」
指先でぴん、とお湯を弾き、飛び上がった滴は、ちょうど僕の鼻筋の辺りに跳ねた。
その瞬間、強張った全身に僕自身も驚いた。
カヨちゃんは、うふふ、と悪戯っ子のように笑った。
カヨちゃん、ひどいよ。
僕はカヨちゃんの手首に甘く噛みつき、おばあの元へ先回りした。

おばあ、カヨちゃんったらひどいんだよ。
僕は、水があまり得意ではないんだ。
カヨちゃんは大好きだけど、水で悪戯するカヨちゃんは苦手だよ。
「あら、コタ、どうしたの、息を切らして」
「ワンワン、ワン」
おばあ、聞いてよ。カヨちゃんがお湯を掛けたんだ。
「カヨにササミでも貰ったのかい、はしゃいじゃって」
「……」

違うよ、おばあ。
もう、いいや。

その後すぐにカヨちゃんがやって来た。
おばあは、カヨちゃんといるときには、すぐに元気になるよ、すぐ元通りになるよって、何度も言っていたけれど、カヨちゃんが席を外してやがて僕と二人きりになると、カヨを一人にしないでねって僕に哀願するんだ。
それって、変なことだよね。

でも、それからもっと変なことが起きた。

「なんで、これ、誰……う、うわー!」

それが僕の、本当の第一声だった。
生まれたばかりの僕の声。これが、僕の声。
僕はこうして、本当に突然、気付いたら人間の姿になっていたんだ。

どうしてそんなことが起きたのか、皆目見当も付かなければ、ではどうしたら元の姿に戻るのかも分からない。
全く、解明不能な事態が起きてしまった。

「カヨちゃん、カヨちゃん! 助けて!」
僕は困惑してカヨちゃんを必死に探し、一目散に駆けていった。

「あ、あんた誰?」

カヨちゃんは、口をあんぐり開けて固まっていた。警戒している様子も見て取れる。
「僕、コタなんだけど」

「コタ……嘘でしょう」

「なんだこれ、どうしよう」
僕は、いつものようにカヨちゃんに駆け寄ったものの、この姿でカヨちゃんに向かって行くわけにはいかなかった。こんな大きな体ではカヨちゃんを押し潰してしまう。
そして僕は、とうとう、衝撃と混乱で泣きじゃくった。
それを見て、カヨちゃんはいくらか動揺していたものの、僕の肩を撫で、
「とりあえずさ、おばあのところへ……」

僕等は二人してあたふたしていた。
「おばあ、大変!」
「おばあー!」
おばあの部屋へ続く長い廊下を、二人して走り抜けた。
あの光景を、思い出すと今でも笑える。
我ながら、よくできた喜劇だ。おばあも笑っていたもの。

おばあは、さすがだな、伊達に八十年生きちゃいない、僕に起きたこの事態を目の当たりにしても、あんまり動揺していなかったな。
そして何より、おばあは僕が人間になってからも、すぐに死んだりはしなかった。
カヨちゃんをやっぱり置いては逝けなかったのだろう。
僕が人間の姿になったことを、おばあは受け入れ、嬉しそうに僕等、少年少女を静かに見守っていた。
おばあは、また少しだけ元気になったが、もう前みたいに立ち上がることができるまでの回復ではなかった。

僕等は、本当に、細々と生きてきたのだ。

おばあは、結果から言うと、カヨちゃんが成人するまで目を落とさなかった。
僕とカヨちゃんはその間、献身的におばあの世話をした。
僕等の関係は、少しずつ変わっていったけれど、それどもおばあの前では、カヨちゃんは愛しい孫、僕は愛犬。僕等は微妙に変わっていく僕等の関係性を、おばあには悟られないように接してきた。
だって、考えてもみてよ。ティーンエイジャーの女と男が、同じ屋根の家に住んでいるっていうシチュエーション。
僕だって、カヨちゃんだって、昔とは違う。僕等は戸惑いの中、息をしている。


僕が人間になって間もなく、たとえ人間の姿になったからといっても、人間みたいに生きることは難しい、と、おばあもカヨちゃんも口を揃えて言った。
カヨちゃんは最初、困惑しかなかったんじゃないかな。僕だって、もちろん困惑していたけれど、それ以上に喜びの方が上回っていたから、そんな風に感じ取ってしまって僕が困惑するのである。

人間が人間の社会で生きていくためには、戸籍というものが必要なんだっていう。
僕がカヨちゃんと一緒に学校に行くには戸籍がいる。
僕が社会の一員だって証明するものが戸籍なんだという。戸籍のない僕みたいな存在は、生物としては息をして生きていても、社会では存在せず生きていないのと同じなのだという。
そんな幽霊みたいなものは、学校へ行くことも、立派な仕事を持つこともできないのだそうだ。それがどうしてなのか、僕の納得のいく言葉で説明できる人に会ってみたい。

僕は、それがなぜなのか分からぬまま、人間と犬の境目を行き来しながら、成長していった。
カヨちゃんが学校に通っている間、学校に行けない僕は、おばあの介護を一人でしていた。

やったあ、僕、話せたよ。
力だって有り余っているし、走ったり両手を器用に使うことだってできる!
これでカヨちゃんも退屈しないし、おばあだって助けることができるんだよ。
僕はそういうことしか考えていなかった。
だってそれ以外に何がある。そういうことでしょ。僕はそう思っていた。

僕自身、話をすることができるようになったことを除いて、大きな変化はないと思っていたのだけれど、人間は、犬と違って、してはいけないことがたくさんある。すべきこともたくさんあるのだということは、もう少し後になってから知った。

どんなことを、してはいけないのかっていうと、身近なことで言えば幾つも幾つも、くだらないことが浮かぶ。

裸でいてはいけない。
人にむやみに抱きついてはいけない。
地べたの落ちたものを拾って食べてはいけない。
トイレは使ったら流すこと。
食事の前後にはいただきますとご馳走さまを言うこと。
毎朝、決まった時間に起きて顔を洗って歯を磨いて、清潔に保つこと。等々。
人間でいるということは想像以上に大変なことだった。

最近では、裸でいると、カヨちゃんが顔を真っ赤にして怒るんだ。

「また、そんな恰好で! こっちへ来ないでよ」

そう言って僕の方を見てくれない。

「なんで、なんでさ、僕の体、変かな」
「変じゃないけど、裸でいるっていうこと自体が変なのよ」
「だって僕は、今まで服なんて着たことない」
「私が、恥ずかしいのよ」
「カヨちゃんが、恥ずかしい――?」

そっか、僕が裸でいるとカヨちゃんが恥ずかしいから、僕は服を着る。
うん、わかったよ。カヨちゃんに、恥ずかしい思いはさせちゃいけないよな、うん。

そうして僕は服を着るようになった。
「コタ、その服の組み合わせ、ダサい」
「そうかなあ、肌触りバツグンで、動きやすいんだ」
「そんなダサい人と一緒に外を歩くの、恥ずかしい」
「じゃあ、カヨちゃん、コーディネイトしてよ」
「自分で努力してよね」
そう言ってカヨちゃんは僕に一冊のファッション雑誌を買ってくれた。
カヨちゃんはこの頃、お洒落に人一倍興味があったのだ。
僕はカヨちゃんのくれたそれを一生懸命見て、僕と雑誌のナイスガイの違いを研究した。


こんなこともあった。
カヨちゃんと買い物に行く途中、キャッチボールをしていた小さい子達を見つけて、僕の体はうずうずした。
本能だろう。僕は堪らずボール目がけて走っていったら、子どもに驚かれ泣かせてしまった。僕はそんなつもりではなかったのに。

「コタ、私たち位の歳になったら、もうむやみにそんな全速力で走っちゃ駄目よ。それから、自分の年齢に合った子達しか遊んでくれなくなるの」
「そうなの?」
「そう」
「じゃあ、ソフトボールが飛んできても、遊んでいる子がもしも小学生とかだったら、我慢しなくてはいけないんだね」
「そうよ」
「どうしてかなあ」
「だって、無邪気にはしゃぐの、恥ずかしいじゃない」

僕は、カヨちゃんに恥ずかしい思いをさせてしまってはいけない。
だから、それら全ては悪いこと、はい。

それから、あるときは、人前でカヨちゃんの顔をぺろりと舐めたら、カヨちゃんにほっぺたを抓られて怒られた。
僕は、やっぱり、駄目だなあ。
けれどもその日は、何度も何度もそうやってカヨちゃんに注意されっぱなしだったせいか、僕も何だか虫の居所が悪かった。
カヨちゃんに、初めて言い返してしまったのだ。
「なんでいつもいつもそんなに怒るのさ!」
僕は格好悪いけど、泣きじゃくりながら反旗を翻した。

それまでは、カヨちゃんに、こうしなさい、こうしては駄目だということを、それがどうしてなのか聞かずに、忠実に守ってきた。
でも、カヨちゃん。
どうして、服を着なくちゃいけないの。
どうして好きな人に寄って行ってはいけないの。
食べたいものを我慢しなくてはいけないの。
清潔を、保つことは大事だと思うけど。
走りたいときに走って、触れたいと思ったら触れてはいけないのって、一体どうしてなの。

カヨちゃんが恥ずかしい思いをするのは、僕にとっては悲しいことだ。
けれども、もしカヨちゃんがいなかったら、カヨちゃんが恥ずかしい思いをしないのなら、やってもいいの?
それとも、それも駄目なの?
僕の理解できる言葉で、わかりやすく教えてよ。僕にはそれが単純なことのように思うのだけど、そこを皆曖昧にして生きているのはどうしてなんだろう。
人間なら、分からなくても納得したつもりで生きていかなければならないのかな。
僕は、犬だから、そんなの嫌なんだよ。

僕が泣いて訴えたことで、カヨちゃんは久しぶりに僕が犬だったっていうことを思い出したみたいだった。

「コタ、ごめん。家だったらさ、もうそんなにうるさく言わないから、ごめんね」
「うーうう」
僕は犬みたいに唸った。腹の虫が、ぶんぶんと飛んでいるのだ。
「コタが犬だっていうこと、だんだん私も忘れていた、ごめんね」
それからは、カヨちゃんはあまり煩く僕を躾けなくなった。といっても、もうその時点で、僕は既にだいぶ人間らしかった。
厳しい母親が傍に居てくれて、感謝しています、本当に。
僕は、カヨちゃんのおかげで、ものすごい早さで幼児から学童児くらいに急成長した。

カヨちゃんの世界で、カヨちゃんの眼差し越しにみた社会に適応する子ども。


思えば、僕が人間になってからの数年、カヨちゃんを満足させるためだけに僕は自身を磨いてきた。
全ての動機は、カヨちゃんに認められたかったから。
そしてカヨちゃんが中学三年生になったとき、ある昼下がりにカヨちゃんは僕に言ったんだ。
「私、コタのことが好きだ」
「僕もカヨちゃんが好き、ずっと一緒にいたいな」
「ずっと一緒っていうことは、コタ、私の旦那様になって私を一生守ってくれるっていうこと?」
「うん、僕、カヨちゃんと結婚したい」
僕がそう言うとカヨちゃんは確かに頬を赤らめていたけれど、今度は怒ったりはしなかった。
試しに、僕はカヨちゃんの頬をぺろりと舐めてみた。
そうするとカヨちゃんは変な顔で僕を見ただけだった。
おや。おやおや、なんだろう。
変な顔して見ているこの目の前の彼女を見ていると、僕は言葉では言い表せない、彼女の顔に負けない変な気持ちが芽生えた。
このくすぐったい気持ちは、何だろう。
そして、身体が沸騰して熱くって、なんだかムズムズするんだ。心臓も痛い。
「カヨちゃん、変な気分……」
「どういう意味よ?」
「わかんない、うう」

そう言って僕はごろんと畳に寝そべった。
まるで変な病気に罹ったみたいだ。
カヨちゃんの傍に寄って、カヨちゃんに触れると、カヨちゃんのことを思うだけで、心臓の音が耳を当てなくても聞こえるくらい。
胸が、破れちゃうよ。僕が、死んでしまう。
けれどもカヨちゃん、僕は君に触れたくて仕方がない。


僕は望み通り、人間になって、人間の心を手に入れたんだ。

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