夏の仮睡

小鳥 薊

第19話マオの願い

私は、伊坂マオ、といいます。

名前を語ったのには少しだけ訳があります。
私は、自分のアイデンティティがどんなものなのか、考えることが最近よくあります。
名前って、私だけのもの。
私が存在している証拠でしょう。

私の話を少し、させてください。

警察官の父と教師の母の間に生まれた私は、ずば抜けて裕福な訳ではありませんでしたが別段、苦労することのない生活水準で育ち、容姿は自分で言うのも変ですが、悪くはない……と思う。
中学生のときに父が不慮の事故で亡くなりましたが、母の愛情で私は孤独を感じずに今まで生きてこられました。

勉強は嫌いじゃなかったし、興味のあることの覚えは早い方だった。
運動は苦手でしたが、その分、本を読んだり、推敲することで満たされていた私は、自分の頭の中のストーリーを小説にすることを、小さい頃からやってきました。

小説家になりたいなんて現実離れした考えで、友達は皆、白けることを知ってからは、自分の夢をあまり人には言わなくなったけれど――。

高校生の私は、少し変わった楽しみに夢中になっていました。それは、小説のネタ探しと、想像力の訓練にもなる楽しみでした。
きっかけは、忘れ物を取りに、夜の学校へ足を踏み入れたことでした。
その、少し奇妙で静寂な世界に、魅了された私は、それから数回、夜の学校への潜入に成功しました。

けれども、最初は、なんてちょろいものだと思って、だんだんと行動が大胆になった結果、――どこから漏れたのか、噂が怪談として校内に広がり騒ぎになりました。
こうして、行き過ぎた遊びはあっけなく幕を降ろさざるを得なくなってしまいました。

それでも私は、想像力が枯渇すると、どうしても我慢できなくなり、噂も消えた頃合いを見計らって懲りずに夜の校舎へ何度か忍び込みました。

そして私はこのとき、彼と遭遇しました。

同じクラスの泉カイト――出席番号が前後の男の子。
カイトは他の男の子とは違っていて、この人だったら、秘密を一緒に共有してもいいかな、そう思った。

いま思えば、私、男の子とちゃんと話をするの、このときが初めてだった気がする。

カイトは優しい男の子。
まだ完全には大人になり切っていない、線で描ける華奢な幹にバランスの良い筋肉が夏のシャツから薄らと見えてきれい。
主人公が恋する相手として、いつかカイトをモデルにしてストーリーを書いてみたいと思っていた。


私は、カイトと一緒にいる中で、幾度か、自分が物語の主人公で、カイトに恋するシナリオを体感していました。
このとき既に、現実の私もカイトへ好意を持っていたように思いますが、はっきりと自覚したのは、二人でプールへ忍び込んだとき――。


高揚していた。
調子に乗って際に寄り過ぎた私はバランスを崩し、カイトの差し伸べた手ごと、プールへ落っこちてしまったのです。
私達はしばらく慌てふためいていましたが、辺りが静かになってきて冷静になりました。
月の照らすプールの底はゆらゆらと黒く、まるで世界に取り残されたような孤独と不安を感じました。
私達は、それが自然のことのように互いを抱きしめ合いました。
抱きしめた感覚をを初めて味わいました。
そして、私達は口づけをしたのです。

カイトの鼓動は、世界で一番落ち着く音がする――そう思った。
これからもこの人と一緒に、この人から感じとれる感情を言葉にしよう。
私はこのときそう思いました。


けれども私は、カイトとは長く一緒にいられませんでした。
ある事件に巻き込まれてしまったからです。
そもそも、あの夜の私は、自分に何が起こったのか、理解することができなかったのです。
ただ、身体が痛くて痛くて……そして、その痛みの感覚がしだいに曖昧になったとき、私は消えたんだと思いました。

意識はずっとあったんです。でも、辺りは真っ暗闇で、それに感覚というもの一切を失いました。
自分が本当に存在しているのかさえ、自信がない。
永遠にも思える時間を、私は、カイトを呼び続けることで過ごしました。



神様が私の願いを聞いてくれたのか、私はカイトの元へやっと戻ってこれたのです。
失ったはずの私の身体も、感覚も、戻ってきました。
これは一体、どういうことなのでしょうか。
ある日、カイトの家で、偶然テレビでやっていたニュースを目にして絶句しました。
ああ、やめて。
魔法が解けていく。

私の身体が壊れ始めたのは、思えばあれからでした。
精神が深く関係していたみたいだ――よくは分かりませんが、今の私の身体は普通の容れ物ではないのです。

人間はたとえば水や火、大地と同じように元素から出来ていて、自然の法則により結合し自然体を手に入れ、人はそれを細胞と呼び、細胞こそが、遺伝子という魂に導かれ、私達の容れ物を作っている。
今の私の身体は、その結びつきが不安定で不確かなのだと思います。
一度ばらばらになってしまったものは、どこかに歪みが生まれるものなのですね――。


あの出来事までは、自分を中心において世界は存在することを信じて疑わなかった。
けれど、どうだろう、今はその世界のどこにも自分の足跡が付かないのです。

私は、カイトに呼びかける他に、自分自身とも対話していました。
私が自身を忘れないように、不完全でもその存在を証明するように。
それは、私の願いでもありました。
それから、私の考えた物語のシナリオと、この世界の枠からはみ出した空間――その果てについても考えていました。

世界の果ては、きっとないんだと思います。
少なくとも、私が体験した場所は、果ても感じることのできない闇と無の世界でした。
あそこはとても冷たくて哀しくて、私はよく、ここに月があればいいのになと思いました。

私は、もう二度とあの場所には行きたくない。
肉体のあるうちに、人としてちゃんと死にたいのです。
痛みを痛みとして感じられるということが、どんなに幸せかということを私は証言します。

私は、カイトに一つお願いがあるのです。身勝手で厚かましいお願いなので、カイトは聞き入れてくれるでしょうか。

私は、やっぱりまだ十七年分しか生きていない未熟者で、愛しているとか分かりません。
カイトのことを考えると心が優しくなって顔が綻んでしまう、そういうことが愛と呼んでいいのか、分かりません。

私にとって、今の世界で私を必要としてくれる人はカイト一人。
私が知っている人、私を知っている人もカイトだけ。
世界と私を繋ぐ接点はカイトそのもの。
そんなカイトにお願いがあるのです。

私に痛みを、痛みじゃなくていい、一生忘れないほどの感覚を私の身体に刻んでほしいのです。
そうすれば、私の意識はやっと昇華される――。


私は、たぶん、もうすぐ消えると思う。

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