夏の仮睡

小鳥 薊

第9話メッセージ受信

パソコンの仕組みを理解することも、例えばインターネットを活用することも、五十を過ぎたカイトには億劫なことであり、仕事で必要なワードやエクセルの他は、私用でインターネットの通販をときおり使用したり、息子とのメールのやり取りが主となっていた。
それ以上は、どうにも手に負えない。

学生の頃は、ようやく携帯電話が普及し切り、友人との約束やくだらないコミュニケーションのために、無意味な駄文を幾度、送信させたか知れないという程、デジタルを好んだのに――昨今はてんで駄目だ。
いつしかすっかりアナクロ人間になってしまった。

自分にも、とうの昔に過ぎた学生時代があったなんて、信じられない。
暫く教師をしていると、あの輝いていた懐かしき光景が、教師目線のつまらぬ景色にしか見えなくなってしまう。
教室から眺める校庭、生徒達の後ろ姿、昔は違うように見えていたのに――。
始業ベルや校歌斉唱だって、当時は違うように聞こえていたはずだ。
自分が擦り減ってしまったのだろうか。

過去を振り返ることは、カイトにとって辛いことではある。
思い出が鮮明なほど、伴う痛みも一層強いものだろう。
それでも教師を続けてきたのは奇跡だ。それには、過去を振り返らないよう――過去に囚われないよう、完全な教師に徹する努力が、必要だった。

そんなカイトも、ようやく最近になって、自分と上手く付き合うことができるようになった気がする。
夢に住まわせた懐かしい思い出は、現実ではだいぶ色褪せてしまい、今では頭の片隅――ずいぶん遠くの方へ行ってしまった。精神はすっかり落ち着いた。


目を閉じて、少し転寝をしていたようだ。懐かしい夢。眠りがかなり浅かったから、目覚めた後も、今見ていた夢を引き摺っている。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ああ、カルキくさい水に揺られている。
両足は地に付いているはずなのに、君と僕の縮まった距離ですら水が浚っていってしまう。
どうしてプールに落ちたんだっけ――そうだ、君と僕はふざけていたんだ。
全てが水に濡れてしまうと、君はまるで違う生き物みたいだ。
さっきまで笑っていたのに、急に世界が音を失って――。
マオ。
君の名前を声にして君へ届けたのも、君と抱きしめ合って口づけしたのも、あの日が最初で、最後になってしまった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


マオが、カイトの夢から漏れてきた。
あの頃の遠い姿。最近では、たとえ夢で見ていたとしても目が覚めると覚えていない。
机の時計に目を遣ると、十時を過ぎていた。
目の辺りを大きく右手で擦ってそのまま頬杖をついた。カイトは久々に、何ともいえぬ郷愁を味わった。


夏の終わり。
べったりとした空気が肌を撫で、悪酔いした朝方のように自分が――自分を囲む環境全てが脂っこい。
カイトは、夏が、特に夏の終わりが嫌いだった。
夏の終わりは、マオがいなくなった季節だ。
三十五年前のあの日から、カイトの人生は大きく変わってしまった。
自分が当時描いていた未来と、今を生きる自分とが、まるで交錯しない。

仮睡したとき、ふと夢にトリップする感覚。自分は起きていると認識しているのに、別世界を生きている一瞬。
トリップしたときの夢を覚えていなくても、余韻だけで分かるのだ。
悔いにも似た後味と、同時にまた続きが見たいという願望――甘い、中毒性の高い、余韻。
身体は不完全に自由を奪われており、現実の自分が、分からなくなる。
こちらとあちらのカイトが、同じ脳を共有して、同じ時間を、平行に生きている感覚だ。
どちらか世界を選べるなら、カイトは夢の世界を選びたかった。もう、現実世界に悔いはない。





夏の校舎では、昼間は教室で蝉たちが、夜は職員室で鈴虫が騒ぐ。
これはカイトが子どもの頃から変わらぬ、幾度となく繰り返されてきたこの季節の情景だ。
虫は強いな。環境破壊が深刻化するこの地球で、なおも生き生きと鳴き続けている。
虫たちの声に、カタカタ、とキーボードを叩く音が共鳴する。カイトはこの日、残業して期末試験の問題を作っていた。
早くに家へ帰ること――心掛けなくなってからもう何年が経つだろう。息子が成長し、今となっては帰宅しても待つ者がいない。独居とは、こんなにも人を適当にしてしまうものか。
今はこれといって趣味もなく、家ですることは食べて風呂に入り寝るだけだ。
カタカタ、と音がする。
午後八時三十分。
職員室に残っている教員の数もぽつりぽつり――カイトはいつも居残り組だ。手際が悪いわけでは決してない――長年勤めていると、部活の顧問やその他の雑務の責任者を担う立場となってしまう。カイトは、それを若手の教師へ投げることはせず、大抵のことは自分でやってしまう。

黙々と作業する。

夜遅くまでこの場所にいると、不思議と月に癒される。
網戸から入ってくる風がいくらか強くて心地いい。
網戸越しでぼんやりと靄がかかったように、月が見える。
(今夜の月は、やけに近くて、赤いな――。)
カイトは、少し前に数分だけ仮睡した。少し風邪気味で、良かれと思った行動だったが、それが悪かったのか、今日はやけに過去の郷愁に囚われる。
意識して作業しないと、郷愁に負けてしまう。カイトは、それを振り切るように、絶えず手を動かしていた。

カイトは、あの遠い記憶の夏の夜、あの少女に宣言した通り、教師になった。
受験では、センター試験の失敗が響き、カイトの点数で受けられる国立の大学はなかった。そのため、一浪して、教育大学に入学、その後も進路を変更することなく、ずっと高校教諭を続けてきている。
定年までの残すところの数年を、偶然にも母校の教壇に立つことが叶い、無意識に懐かしい思い出達が、郷愁として些細なときに蘇ってくるのであった。



教員が一人、帰る度に消えていく机上のスタンドライト。一つ一つ、明りが死んでいくと、教室もなんだか薄暗くて、恐くはないが物哀しい雰囲気になっていく。
一瞬、鳥肌が立った。なんだろう。風は生温いのに――。
虫が、騒ぎ過ぎである。
カイトは外を眺めた。月は一向に大きくこちらを見ている。
月に背を向け、作業を再開しようとパソコンのデスクトップに今一度、目を遣った。
(……え、なんだろう。)
まだ、マウスには触れていなかった――触れていないのに画面が点灯することが、あるのだろうか。
カイトは目を大きくさせ、画面を覗きこんだ。
デスクトップに新たなアイコンが表示された。

――メール受信中。

マウスを操作していないのに、勝手に受信ボックスが開いた。
パソコンに詳しくないカイトにとっては、不可解なことだが対処の仕方もわからない。新着メールの知らせがあり、フォルダを開いてみた。
(こんな時間に、学校の業務専用メールへ……、一体誰だ。)
画面に至近距離で張り付く。
(こんなこと、有り得ない。)
カイトは目を見開いて、そのメッセージを読み取った。
教員はカイト以外にまだ数人残っていたが、皆背中合わせや、少し遠くの島におり、カイトの些細な変化に気付いた者はおそらくいない。

そのメッセージは、密やかに、そして確実に、カイトの元へ届いたのだった。



<メールボックス<受信一件――。
カイトカイトカイトカイトカイトカイトカイトカイトカイトカイトカイトカイトカイトカイトカイト………アイニキタ……カイトカイトサイゴノバショワドコダッタ――








          

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