白昼夢の家族

小鳥 薊

第10話 目覚める

朝は、何事もなかったかのようにやってきた。不思議なことに、今朝の目覚めは軽やかで、体がいつもの何倍も自由な気がした。それもそのはずだ。鳩子は、鏡に映る自分の姿に驚愕した。
(ハナ……?)
ハナだった。いや、正確にはハナに似た、ハナと同じ年頃の女の子。
(どうして……これ、私なの?……)
鳩子は、もう忘れてしまった遠い過去の自分を思い返した。かつての若かった私は、このように細くて美しかったかもしれない。家事と育児の中でもうすっかり忘れていた。これは昔々の自分の姿だ。それにしても、一体自分の身に何が起きているのだろう。鳩子は、考えても埒があかないことをしばし考えたが、結局、日常のやらねばならないことを優先し、キッチンの方へ歩き出した。

昨晩の分の、溜まった食器を洗っていく。
昨夜は、潤とハナと三人で食事した。この日の慶司はハムスターのポンが見つからないと臍を曲げ、夕飯をボイコットした。我が家では数年前からハムスターを飼っていて、今のポンは三代目にあたる。飼い始めたきっかけは幸、あれは確か正月が過ぎて間もない時期に立ち寄ったホームセンターで飼いたいとせがんだのだ。今では、ポンの世話が慶司の唯一の仕事である。今朝もまだリビングに姿を現さないが、それもこの状況なら良いのかもしれない。
幸はというと、昨日から中学で所属する部活の合宿に行ったため、夕方まで帰ってこない。そういえば、凛一は帰ってきたのだろうか。珍しく鳩子が起きている間に帰ってこなかった。バイトもしているので、最近では鳩子も彼の予定を把握していない。
少し前までは一つにまとまっていた家族が、今では互いに明後日の方向を向いている。誰も振り返ることなく日々の生活に目一杯で、彼等は家という一つ所に保証なく留まる鳥のようだ。
歳をとる毎にエピソードは増えていくはずなのに、虚しさが増えていくのは何故なんだろう、と鳩子は考えた。家族についても、昔に比べて今の方が理解し合えない気がしてしまう。
晩食の光景もそうだった。潤は昔から母親っ子で、二人のときはよく会話するのだが、最近ではハナがいると途端に無口になる。鳩子にはその理由がわからない。難しい年頃なんだろうか、それともただ単にケンカでもしたんだろうか。

(……皆に、何て言おう……)
鳩子が不明の食卓で、自分は一体誰なのか、鳩子はどこに消えたのか、現実との擦り合わせをどうしようか考えた。子ども達に聞かれたら、お母さんは実家に行ったのよ、そう告げようと思っていた。自分は誰? 自分は……思いつかない。鳩子は仕方なく、簡単な朝食を準備してどこかへ行こうと考えた。
(私が消えたところで……)
自分は、さして必要ない存在なのではないか。もしも、この状態が何日か続いても世界が回っていくならば、そもそも鳩子なんていたのだろうか、と自分ですら疑い始めるに違いない。こうやって目を閉じて、自身の姿が思い描けなくなったら、鳩子は本当に死ぬのだろう。
幸いに今日は日曜日。静止して良い日。
食卓テーブルの隅に、何冊か積まれた本が目に留まり、鳩子はハナが借りたものだろうと予想できた。タイトルも作家名もピンと来ない。頁を捲るとかつて嗅いだことのある図書の匂いがする。鳩子は懐かしさを感じた。全て市立図書館の印が押してあり、その内の一つに挟んであった日限表の期日は今日までになっている。
(そうだ、図書館へ行ってみよう)
ゆっくり歩いていけばちょうと開館の時間だ。鳩子は図書を返すことを口実にしようと決めた。
ハナの部屋を覗いたが、ハナは不在だった。こんな早くに何処へ出掛けたというのか。学習机の上に“本は私が返します”とメモを残した。
ハナの部屋にある姿見でまじまじと自分を見た。
(部屋着では行かれないわよね……)
鳩子はハナのクローゼットから服を拝借することにした。真夏の暑さに挑戦するような真っ白のワンピースが目に留まり、合わせると今の姿によく似合う。
出る前に、慶司の部屋をノックをしてドアを開けた。
「慶司さん。」
どうせ、わからないだろうと、鳩子はいつもの口調で慶司を呼んだ。部屋を見渡す限り汚れているところはなく、今朝はトイレには行けているようだった。
「慶司さん、私のこと、わかる?」
慶司は鳩子を見て一瞬だけ目を大きくしたが、黙りこくっている。
「私は貴方のお母さんじゃないのよ。」
数週間前までは、鳩子と呼んでくれていたのに。病気の進行は思ったよりも早かった。家族にそれを受け入れる猶予も与えてはくれない。
「私、出掛けてくるからね。暫く戻ってこないからね。」
何も言わぬこの人に、意地悪なことを言いたい、鳩子はそう思った。
「貴方が私を思い出してくれるまで、鳩子は戻ってきませんから。」
そう言い放ち、ドアを閉める。直前の慶司の顔を、鳩子は見ることができなかった。少しの間だけドアに耳を当ててみたが、何も聞こえてこなかった。慶司の言葉や泣き声、息遣いさえも、鳩子は完全に見失ってしまった気持ちになり堪らなかった。



〜〜〜〜〜〜〜〜

開館したての図書館は空いていた。鳩子はまず先に入口のカウンターへ立ち寄り、ハナの本を返却した。司書は無表情に本を受け取り、結構です、とだけ言った。
「本は、何冊まで借りられるんですか。」
「一度に十冊までとなります。」
「そうですか。」
話しかけても、目も合わせない。最近の若者だな、と鳩子は思った。
図書館では故意に誰も言葉を発しない。音を空間全体が拒絶する場所。鳩子はちょうどハナの歳の頃、図書館によく通ったものだ。文学の世界に身を浸からせ、現実から数センチ浮いた状態で歩く。磨硝子越しに世界を見る。現実がひどく空虚に思えて、執着もさしてなかった十代半ば。それから大人になるに連れ、硝子がなくても世界は曇っていることを知り、社会に出れば執着ばかりが増えていく。
今の鳩子は、何に執着があるだろうか。辛いとは思わないようにしてきたけれども、この虚しさは何だ。慶司の世話をするようになってからというもの、現実から逃げ出して別の人生を歩みたいと、ほんの少しでも思ったことはなかったろうか。

鳩子は、棚から気になるタイトルの本を見つけると手に取り、久しぶりに時間を忘れて、頁を捲っては十二分に活字を頬張った。
気が付くと、何時間も、経っていた。何冊も、何冊も、目を通した気がする。そうするうちに突然の吐き気が襲い、鳩子は一目散へトイレに駆け込んだ。
便器を抱え込み、嘔吐した。吐瀉物は身に覚えのない赤みを帯びていて怖かったが、込み上げてくるものを全て吐き出すと、楽に息を吸えるようになった。
洗面所で口を濯ぎ、鏡と向き合う。すると不思議な感覚に襲われた。自分は果して本当に、鳩子なのだろうか。鏡に映っている麗しい姿に、もう違和感は微塵も感じなかった。自分は一体誰――。
もう帰ろう、けれどもどこに帰るのだろう。自分はどこに行きたいのか。目頭が熱くなり、涙が頬へ溢れ落ちた。
「あの、大丈夫ですか?」
「すみません、いまちょっと……」
後ろから誰かに声を掛けられたが、鳩子は振り返ることができない。すると、声の主は鳩子の顔を覗き込んた。すると見覚えのある顔が自分を見ている。
「なんで……?」
言ったのは、どちらだったか。互いに目を丸くし、石になった。
けれども、先に身体が動くようになったのは鳩子だった。決して見られてはいけない正体を暴かれてしまった気がして、鳩子は羞恥心で一杯になり全速力で逃げ出した。
「ちょっと、待ってよ。」
男子は呆気にとられたように一足遅れ、その後を追ってきたようだったが、追いつかれることなく鳩子は図書館を出、すぐそばの公園の木陰にうずくまって身を潜めていた。
息が苦しい。先ほどの吐き気とは異なる苦しさだ。
無心に駆けていた鳩子の身体は、最初は軽くしなやかに動いたが、徐々に油の切れたブリキにように軋んで動かなくなった。加えて鎧を纏ったように全身が重たくなり、呼吸が苦しくなったため、ついにはその場に座り込んでしまったのだ。
鳩子は呼吸が楽になるまで、そして涙が止まるまで目を閉じていた。
それから少しして再び歩き出したが、意識は朦朧としており、足下もおぼつかない。つま先を引き摺りながら歩いていくと、気付けばそこはいつもの商店街で、生きた人の活気がいくつも、いくつも、あちこちに散らばっていた。
現実の世界に戻ってきた。そんな気がした。
そして、その散らばりの中から、鳩子は思いがけぬ人物を見つけ、微笑んだ。その人はここから少し遠く、光に包まれたアーケードの向こうからこちらを目指して歩いてくる。
「奥さん、大丈夫かい。」
横から声を掛けたのは、行きつけの魚屋の店主だった。ちょうど良かった、帰りに今晩の魚を選んで帰ろうか。
「ええ、大丈夫です。歳甲斐もなく走ったらこの様です。」
「お互い、無理はしないようにしないとな。あれ、珍しく今日はお迎えがあるのかい。」
「ええ、そのようです、」
「奥さん、だから今日はお洒落してるんだな。」
「……あはは、この格好は酷いですね、我ながら。」

夢はすっかり覚めたようだ。鳩子は再び、鳩子へ戻っていた。
そしてすぐそばに懐かしい姿がある。
「慶司さん、迎えに来てくれたのね。」
西日を背にした慶司が、立っていた。徘徊ではない、探しに来たのだ、鳩子を。目は虚ろではなく確りと鳩子を見ている。
「一緒に買い物して帰りましょうか。」
鳩子は微笑みながら、欲しいものはないか慶司に尋ねた。
慶司は最近では自発的に言葉を発することも減ってきている。そんな慶司が駄菓子屋の前で立ち止まり、何かを言わんとしている。慶司の言葉を、鳩子は何分でも何時間でもここで待とうと思った。
お菓子箱が積まれた棚を懐かしそうに鳩子は眺めていた。すると、あるものに目が留り、鳩子はやっと思い出した。
「貴方、私がつわりで物を食べられないとき、この飴を買ってきてくれたっけねぇ。」
赤い飴玉。今、慶司が指差している。
「これが食べたいの? 私に食べろって言ってるの?」
昨日の少女がくれた飴も、この飴ではなかったろうか。
「ありがとう、私はもう大丈夫なのよ。」
「……。」
「元気なのよ。」
そう言って慶司の手を引き、鳩子は歩き出した。
「ハナが見つかったよ。」
「まあ。」
久しぶりに聞く慶司の言葉に、鳩子は少し足を止め、目を大きく見開いて慶司を見つめた。そして思い出した。最初に飼ったハムスターを娘のように可愛いと言って夫が「ハナ」と名付けたということを――。
「それはそれは、よかったわねぇ。」

逆光線によって曖昧な彼の輪郭を今一度捉えようと、鳩子は目を細めた。

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