白昼夢の家族

小鳥 薊

第4話 上の空で

午後三時、先程まで殴るように降っていた雨は跡形もなく去っていき、強い陽が再び顔を出していた。潤は校舎の屋上にできた大きな水溜りを避けながらフェンスの方へ足を進めた。その後ろを友人の佐原が付いてくる。佐原は先に一服を始めながら唐突に言った。それはあまりにも唐突だった。
「俺、告白しようと思う。」
潤は足を止め、振り返った。
「誰に、だよ。」
「わ、お前、急に止まるなよ。足が水浸しじゃねえか。電車でよく会う三人組、分かるだろう。その中で一番背の低い子。」
「黒髪、ロングの。」
「そうだ。」
二人は、屋上の風に吹かれていた。ぼう、と強い風が吹く度に、水溜りの端が沸々と騒ぐ。制服が旗のように靡き、二人の細い骨格を浮き上がらせている。風の音が近いせいか、他の存在、自分すらも遠くに感じる不思議な感覚。沖で鳴る汽笛のように、始業を知らせるチャイムの音を、二人は上の空で聞いていた。
「六限目、始まったな。」
「おう、別にいんじゃね。」
二人はようやっとフェンスまで辿り着き、身を落ち着かせた。
「彼女の、何を知ってんだ。」
「顔と学校と声と笑い方、くらいか。」
「それで、どうするつもり。」
「まだ何も考えていないけれど、次に会ったときには声を掛ける。じゃなきゃ、俺、どうにかなりそうだ。」
気持ちが強すぎてどうにかなりそう、という意味らしい。
潤は、屋上から地平線に近い、屑のような街並みをぼんやりと見つめていた。チャイムは鳴り終わり、授業は既に始まっている。膨張した昼下がりの空に押し潰されるように、心が萎んでいくのが分かる。その理由だって、自分には十分わかっているのだ。
「とにかくお前は健闘を祈っていてくれ。」
佐原はそう言い放ち、先に屋上を退いた。
佐原は、潤に醜態を曝したくないからと、告白を決行するまで暫くは電車の時間をずらしてほしいと潤に願い出た。潤と佐原は同じ鉛線に家があり、乗り降りする駅も同じだったため、車内で会うことは珍しくなかった。今では乗る車両も固定され、特にどちらかが言ったわけでもなく、自然と一緒に登校するようになっていた。
登校時間をずらせというのは誠に勝手な願い出だったが、親友という手前、断れなかった。内心、潤は面白くないと思っている。先手を打たれたことが憎らしく、上手くいかないことを、心の底で願ってしまっている。そんな自分が嫌だと潤は思った。
「俺はお前が好きなんだぞ。」
誰もいなくなった屋上で一人、潤は吐き捨てるように言った。
佐原の傍にいられることは、潤にとって嬉しい半面、辛い。本当の気持ちを、言ってしまえれば楽なのだろうけれど、そうすることで佐原との関係が壊れることが、潤の最も恐れていることである。このまま親友というポジションであり続けることができれば、一生佐原の傍にいることができるのだ。
「俺は、意地でもお前の傍にいるつもりなのか。気持ち悪いなあ、笑えてくる。」
自分はどうしたいのだろう。

どうして潤には、佐原だったのだろう。今までも、これからも、別に男性が好きな訳ではないのに。潤はその点に関しては自分はノーマルだと自認している。佐原だけが、特別なのだ。きっかけなど、忘れてしまった。
今みたいに空に告げることしかできない気持ちは、どうやったら報われるのだろう。おそらく潤は、これからもずっと、佐原に告げることはしないだろう。差し出さないラブレターでも、書いてみるか、そうして墓にでも埋葬するか、潤はそう思った。
潤は、長くなった煙草の吸殻を指先で落とすと、灰ははらはらと落下していった。それを、フェンスから首だけを乗り出し見ていた。
ここから落ちれば、死ぬだろう。自分の気持ちも死ぬだろう。そうして、次は空を見上げた。先程の雨雲は欠片も見当たらない、青空だった。この季節の空は、どうしてこういう青色をしているのだろう。奥深いというよりはまるで何も詰まっていないような青だ。真空の中にいるようで息が苦しい。

帰りの電車の中で、潤は思いがけず、佐原の想い人と一緒の車両に乗り合わせた。潤も一人だったが、向こうもどうやら一人のようだった。
残念だったな、潤は心の中で、どこかにいる佐原に言った。そうして一生、一緒の電車にならなければいい。二度と会わなければいいのに。このままでずっといられればいいのに――。
潤は、彼女を初めてまじまじと見た。佐原が興味を持たなければ本より意識などしなかっただろう。
肩より少し長めの黒髪は実に艶やかである。眉の少し上に切り揃えられた前髪のラインは、彼女の頭頂部から眉間までの輪郭が美しいことを物語る。女性特有の曲線。潤にはない曲線。
そうして何一つ、潤とは似ても似つかない。男どもにとって、ある種のサンクチュアリだ。
ちらりと見ていたつもりの視線は、あくまでつもりであった。佐原のことを考えると、やはり鋭くなってしまう。彼女も潤の気配に気付いたらしい。
互いに視線は感じるのに、ばっちりと合うことはない。それを何駅も繰り返し、とうとう潤の降りる駅になり、最後のタイミングでついに二人は事故的に視線を鉢合わせてしまったのだ。
あいつをそんな目で見るなよ、と潤は彼女を睨みつけたつもりだった。それなのに、彼女はどうだろう、目が合った瞬間、明らかに動揺していた。そうして唇を固く噛み締め、潤を見ている。その頬がうっすらと赤らんでいることに、潤は全く気付いていない。
何だよ、と潤は口の中で呟いた。
乗客の流れに押しやられ、潤は逃げるように電車から降りていった。少女は潤の後ろ姿をただじっと見つめていた――。

改札まで急いだ。降りてすぐ、車両は潤を追い越したが、潤は決してその車内を見なかった。
駅を出て気付いたが、雨が勢いよく降っていた。傘を持っていなかった潤は、家までの距離を猛スピードで走り抜けた。
家に着くと、母がいつも通り、台所で夕飯を作っていた。潤は勝手口で暫く鳩子の姿をじっと見ていた。
鳩子は、少しして気付いた。
「びっくりした、帰ってたの。おかえりなさい。」
「ただいま。」
「あなた、びしょ濡れじゃない。先にお風呂に入ったら。」
「ああ、うん。」
思えば、母の頭頂部から鼻筋に掛けてのラインも実に美しいものだった。若い頃は相当の美人だったのだろう。けれどそれも嘗ての話だ。父も、家族を取り残し、一人老いていってしまった。今まで繋いでいたその手を離された母は迷宮から抜け出せないでいるようだ。潤は、そういう点で母の気持ちがわかった。上の空だ。
母は、そして自分は、本当の意味で報われることがあるのだろうか。潤には報われた未来を容易くは想像できなかった。

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