グローオブマジック ー魔女の騎士ー

珀花 繕志

12.国立祭2


「だから誤解だって言ってるだろ!?」
 食堂に大きな声がこだまする。
 まだ朝も早いので食堂にはほんの数人しか人はいなかったが、ルードたち一団は注目の的になっていた。
「もう、いいわよ。どうりで、こんなにも可愛いスティアが言い寄ってもなびかないはずだわ」
「僕はもうとっくになびいているよ!」
 ラクトとリイルがけたたましくしている中、ルードは我関せずとパンを口に運ぶ。
(このノリに釣られたら終わりだ)
 と、そう思って黙っていた。
「やっぱりそうなんですか? ルードさん」
 わざわざ隣の席を選んで座ったスティアがサラダを頬張りながら尋ねてくる。
「……お前らは風呂に入った時に女同士で背中を流したりしないのか?」
「それは、しますけど」
「それと同じだと思っておけ」
 そう言い切ってルードは食事を続けた。
 スティアはよくわからずに疑問そうな顔をしていたが、サラダの中に入った黒いフルーツ見つけ目を輝かせていた。
「そのフルーツが好きなのか?」
「あ、はい。おいしいですよね」
「変わった奴だな。人気のない果物なんだがな」
 ルードは自分の皿に入ったそれをスティアの皿に移してやる。
「ありがとうございます」
 スティアは嬉しそうに微笑んで、それをすぐに頬張った。
 ルードはそれを微笑ましく見つめる。
「でも、男同士であんなふうにじゃれあうのはやっぱりおかしい」
 アリエルの無表情で食事を続けながら、鋭い突っ込みが入る。
 どこから知識を入手してくるんだか、と半ば呆れてしまう。
「アリエルは意外と耳年増だな」
「それほどでもない」
 食事をまったく止める気配もない二人のせめぎ合いが始まる。
「さっきのことは忘れろ」
「それは命令?」
「何でもいい。忘れろ」
 アリエルは何も言わずに、ん、と手を出してくる。
「何だ? その手は?」
「おこづかい、ほしい。今日楽しく遊んで来られたら全部忘れられる気がする」
「……」
 背に腹は変えられない。ルードは財布から一番大きなお札を取り出して、乱暴にその手の上に置いた。
「みんなで使え」
 女性陣がわっ、と沸き上がる。
「ありがとう」
「珍しい太っ腹じゃない?」
「いいんですか? こんなに」
 ルードはヒラヒラと手を振って、カップの中のスープを飲み干した。
 給料日前の寂しい財布から出したなけなしの金だったが、仕方ない。
「そのみんなに僕は入っているのかな?」
「お前からは後で半分徴収する」
「なっ、酷いじゃないか! 男女差別反対っ!」
「お前が下らんことをするからこうなったんだろ!」
 ルードはぎろり、と彼を睨むと、ラクトは口笛を吹きながらルードの分まで食器をまとめて洗い場に運んだ。
「じゃあな。楽しんで来い」
「あ! ルードさん」
 食堂を出ようとしたところでスティアに呼び止められる。
「ん? 何だ?」
「後でお土産を持って行きますから本部で待っていて下さい」
 スティアはまぶしいくらいの満面の笑顔でそう言ってきた。
「……わかった」
 いらん、とそう言いたい思いはあったが、ルードは一言そう告げて不愛想に食堂から出て行った。
「なんだよ、アイツ。せっかくスティアちゃんが厚意で言ってるのに」
「ちょっと感情が見えにくいけど、あれはあれで喜んでるのよ。わかってやってね、スティア」
 スティアは知っています、と微笑んだ。

 魔女討伐部隊本部――。
 広い訓練場には誰一人いなかった。
 温かい日差しの下にいるはずなのだが、つむじ風が地面の砂を巻き上げて、どこか寒々しい感じがした。
 ラクトが言っていたとおり、当番になっている隊員も黙って祭に出かけてしまったのかもしれない。
 自分も抜け出そうかと一瞬迷ったが、そんなことをしては騎士になった意味がない、とその考えを頭から消した。
(例え一人になっても戦うだけだ。あの時のように)
 鋼鉄の剣を抜き放ち、訓練場に降り立つ。
 いつものように敵を想定しての素振りを始めた。
 無心に剣を振るう。
 ――二年前、魔女討伐部隊の騎士見習いだったルードは6名の隊員からなるチームに属していた。
 魔女災害という現象が増え始めて、急遽作られた新設の部隊で、ルードはそれに志願して入隊した。
 今のように強力な魔女に対抗できる武器も少なく、魔女との戦いは過酷を極めた。それゆえに騎士の中でもベテランや腕に覚えのある戦士などが配属される部隊となっていた。
 見習いだったルードは彼らに付いていくのもやっとだったが、それが使命であると思い、必死の思いでそれをこなした。
 今やその生き残りは、彼と当時から隊長を務めていた隊長だけだった。
「フィート隊長」
 名前を呼ばれた彼は何の気配も感じさせずにそこに現れた。
「訓練に来ているのは君だけかい?」
「今のところ俺だけです。当番ですから」
「そうか。今日は国立祭の日だしね、仕方ないか。それより彼女の様子はどうだい?」
「問題ありません。数日間で随分隊にも慣れた様子です」
 彼女の姿を見ていると人は慣れる生き物だと思ってしまう。
 初日ガチガチに緊張していた少女が、数日後に隊のマスコット的な存在になっているとは思わなかった。
「君にも影響を与えているようだね?」
「いい迷惑です」
「そうかい? ふふふ……」
 そう言ってフィートは楽しそうに笑う。
 何か含む笑いでルードは何か引っかかるものを感じた。
「フィート隊長は何を考えているんですか?」
 内心が出てしまったのか、つい生意気な物言いをしてしまう。
「彼女を魔術研究所から出したのには理由がある。先日から発生している魔女の使い魔だ」
 フィートはそれを咎めるでもなく、機密事項にされていたことをスラスラと話し始めた。
「それが何か?」
「まるで彼女を狙うかのように現れるのさ。最初は彼女のいる研究所が狙われた。防衛機能が薄いあそこからここイクサスに移した。その途端、今度はイクサスに彼女を狙うように奴らが現れた」
「まさか……」
「先日の出撃でも、街の南側に発生したはずの使い魔がさっさと撤退し、君たちがいた北側に戦力を集中させてきた。これでも関係ないと言い切れるかい?」
 ルードは黙ってしまう。
「それが理由なら何故俺のいるチームに入れたんです? 隊長のアシスタントでもさせておけばよかったでしょう」
「彼女を守れるのは君しかいないだろう?」
 フィートはにやり、と笑った。
 彼女に対して負い目のあるルードなら命懸けで彼女を守るだろうという思惑の下、同じチームに配属したのだ。
(またコイツの手の平で躍らされているってことか)
 しかし的確な采配だ。ルードには彼女を守る使命がある。
「何故、彼女が狙われるんですか?」
「そこまではわかっていない。ただ彼女を襲う理由がある人間が魔女になりかけている、またはなっていることは確かだ」
「スティアを守っていいんですね?」
「当然だ。彼女は類い稀なる才能を持った討伐部隊の隊員だ。また魔女になった女の娘でもあり、貴重な研究対象だ。是が非でも守ってあげてくれ」
 それは建前でもあり、本音でもあるだろう。
 しかし本当のところは囮に出すためとルードは考えていた。彼女を表舞台に出すことによって新たな魔女を捕縛、捕殺するが目的に違いない。
(まったく頭にくる上司だ)
 有能な上に実力もある。その上、人当たりも良い。しかしその実、自分の考えを現実のものにするためには手段をいとわない。人の感情などいとも簡単に操ってしまう。
(だけど、いずれ俺はコイツと戦うことになる気がする)
 今は目的が同じだから少なくとも従っているが、それが違えれば相容れない彼と戦うことになるだろう。
「承知しました」
「良い返事だ。頼んだよ」
「はい。……隊長、お手すきなら一本相手をしてもらえませんか?」
 ルードは剣を掴んで彼を挑発した。
「君からお願いなんて珍しいね。しかしボウトにも勝てないようでは僕の相手は辛いと思うよ?」
「叩きのめして頂いて構いません。お願いします」
「いいだろう。僕も事務仕事だけでは肩が凝るからね」
 フィートは肩の凝りを取るように腕を回して、腰に下げた剣を抜いた。白銀に装飾された鎧に包まれた体は細く、とても剣を握る者の体形ではなかった。
 しかし、フィートが細剣を構えた瞬間、ルードは冷たい真冬の風に切り裂かれたような感覚を受けた。
 剣を構えただけで凄まじい威圧感だ。先程までの優しい春の陽気のような雰囲気が嘘のように消し飛んでしまった。
(しかし、これに勝てないなら到底魔女を打倒しえない)
 かつて対峙したのは魔女討伐部隊創設以来の凶悪な魔女だ。後にSランク魔女と呼ばれる悪魔のような強さを持つ敵だった。
(それに比べればたかが人間だ!)
 ルードは自分を奮い立たせて剣のつかを握りしめる。
「いつでもいいよ。君の好きなタイミングで仕掛けてくるといい」
「承知しました」
 威圧感だけで頬から冷や汗がしたたり落ちる。
 ルードは恐怖を抑えるようにぐっと奥歯を噛みしめると、
「行きますっ!!」
 自身の出せる最高の速度で鋼鉄の剣を振った。

 数時間後、ルードは訓練場で一人地面に転がっていた。
「はっ、はっ、はっ……!」
 まったく歯が立たなかった。
 彼のまとう魔術によって作られた白い鎧をどうしても貫くことができなかった。
「もう終わりかい?」
 必殺の一撃すら防がれ、レイピアのような細い剣で四肢を刻まれた。
 そして、あの必殺の一撃。
「これでお終いにしよう。上手く防ぐんだよ。血染めの聖剣(ブラッディレーヴァテイン)!」
 剣で防いだはずなのに、その威力は貫通しルードの腹部に届いていた。
 手加減したのだろう。強く腹を打たれはしたが、怪我はなかった。
 しかし、その一撃で勝負は着いていた。
 ルードにはもはや立っていられる気力は残っていなかった。
「魔力がないハンディを努力で埋めようとするのは素晴らしいと思うがね。しかし、それに奢らないことだ。騎士見習いの隊員たちがそれを使いこなせば一足飛びで君を追いついてくる。彼らが君のことをどれだけ嫌おうとも、君から彼らを見下してはいけない」
 今君にできるアドバイスはそんなところだ、と言い残してフィートは去って行った。
「くそっ!」
 ルードは地面を叩き付けて、唇を噛み締めた。
 まだ足りない。まだまだ実力も覚悟も足りなすぎる。
 刃を交えて再認識した。
 あれが魔女討伐部隊イクサスの隊長フィート・スクライアの強さだ。
(魔力さえあれば……)
 フィートの必殺の剣を防ぐ盾と彼の鎧を貫く技を放つこともできただろう。
(だが、こうなることは俺が望んだことだ)
 魔力をなくして孤独になることも、力を失うことも、全てを失っても守りたいと思ったのだ。
(例え、報われなくても、誰に認められなくてもかまわない。ただアイツを守りたかったんじゃないか)
 きっとそれは倒された魔女も同じ思いだったのだろう。
 だから、当時のルードで手の負えるはずのない魔女を打倒し得た。
 倒したのではなく、倒されてくれたのだ。
(俺は彼女との約束を守れているだろうか?)
 思いも、覚悟も足りなかったんじゃないかと思ってしまう。
 なぜ、側にいなかった?
 なぜ、すぐに会いに行かなかった?
 なぜ、迎え入れなかった?
(俺はアイツの母親の敵だぞ。そんなことがどうして出来る)
 矛盾だとしても、そうするしかないのだ。
 そうすることでしか、約束を果たすことができないのだ。
 全てに語ることができればどんなに楽か。それをすることのできないもどかしさがルードの心中を乱した。
「ルードさん」
 彼女の声がした気がした。
 それは幻聴だった。
(どんなに自分を騙しても、本当の気持ちだけは騙せないか)
 そうだ。騎士見習いに過ぎなかったルードが、魔女を倒せたのには理由があった。
 彼女がそう望んだのだ。
 瀕死だったルードを癒し、命を救ってくれた。そして、もう一度戦う力をくれた彼女がくれたのだ。
 だから、ルードは騎士団の命令を無視し、単独であの恐ろしい魔女と戦った。
 同時に彼女が悲しむと分かっていても、彼女の望むことを果たした。
 彼女のことを強く想っていたから。
 そう思ったところで力尽きて気を失った。
 
「ルードさん、ルードさん!」
 目を開けると怒ったように目を吊り上げたスティアの顔があった。
 沈み始めていた夕日の光を遮るように、彼女の銀色の髪がルードの頬にかかっていた。
「起きているんなら、返事くらいしてください」
「あ、あぁ……」
 起き上がろうとすると、彼女が手を差し伸べてくれる。
「随分、早かったじゃないか。まだお祭りはこれからだろ?」
「花火はここからでも見えるってラクトさんに教わったので、出店でお土産だけ買って帰ってきちゃいました」
 彼女の後ろにはどうやって抱えてきたのか、凄い量のお土産積まれていた。
 ルードは自分に不利になる情報を提供してしまったラクトに同情する。きっと今頃悔し涙を浮かべていることだろう。
「さ、食べてもらいますよ? ルードさんのためにたくさん買ってきましたから」
「……まったく、どうやってもこんなの食いきれないだろ?」
 山ほど積み上げられたお土産を見上げて、ルードは胃もたれになることを覚悟する。
 しかし、広げられた出店の食べ物はどれも個性的で、食欲をかきたてられた。
「どうぞ、召し上がってください」
「あぁ」
 言われるがままに、目の前にあった肉を棒に突き刺して焼いただけのものを口に運んだ。
「どうですか?」
 香辛料とタレをたっぷりかけられた濃い味のする肉だった。それもしっかり焼きすぎてしまっていて、所々ウェルダンだ。お世辞にも旨いとは言えなかった。だが、
「懐かしい味だな」
「懐かしい、ですか?」
「ガキの頃、爺さんに連れられてよくこのお祭りには来たもんだ。その当時はこんなに派手じゃなかったけどな」
 街の方に目をやると色とりどりの魔術灯が夕闇の中で輝いていた。
「その頃から騎士に憧れていた。本隊の騎士がやるパレードが華々しくてな。あんなふうになりたいとよく思っていた」
 肉棒を平らげ、今度は挽き肉と野菜を混ぜて揚げた団子に手を伸ばす。
「へぇ、ルードさんは子供の頃から騎士になりたかったんですか」
「あぁ。晴れて騎士になった訳だが、想像通りとはいかなかったな。スティアも食え、どうせ何も食べてこなかったんだろ?」
「あは、お見通しでしたか」
「そんなに食うところをじろじろ見られてたら誰だってそうと思う」
「では、お言葉に甘えて」
 スティアは例の黒いフルーツの入った氷のデザートに手を伸ばした。
「好きだな、それ」
「このフルーツ、プレグルっていうんですよ? 知ってました? 甘酸っぱくて美味しいですよ」
 リイルから教わったのだろう。スティアは自慢げに胸を張った。そして、あーん、子供が好物を食べるように嬉しそうに食べる。
 その姿が微笑ましくてルードはつい笑みを漏らす。
「な、何がおかしいんですか?」
 途端に恥ずかしそうに頬を膨らませる。
 初めて会ったときはこんなに表情の豊かな娘になるとは思わなかった。
「いや、おかしくて笑っているわけじゃない」
 あの泣いてばかりだった、にこりとも出来なかった少女がこう笑顔を見せると嬉しくなる。
 伝えられない言葉を胸の中に押し込んで、ルードは言葉を遮るために食事を口に運んだ。
 夕日の差し込む闘技場で、二人は微妙な距離感を保ったまま食事を続けた。
「しかし、何で俺にそんなに構うんだ?」
 ぽつりとつぶやくように尋ねた。
「何で、でしょうね?」
 考える仕草もなくそう答える。
 彼女が買ってきたお土産をまた手に取った。
 こんな風に飯を食べるのはいつ以来だろう、ルードは思う。
 誰の目も気にせず、親しい人間とご飯を囲えるなんて、思いもしなかった。
「俺に構ってもいいことはないって言ったぞ」
「そうですね」
 彼女はフルーツを焼いた飴のようなものを頬張った。
「何でなんでしょうね?」
 夕日に照らされた物憂げな彼女は夕日に照らされていつもよりも大人びて見えた。
「最初はとっつきにくい人だと思っていました。何となく苦手だと思いました」
 それはそうだ。ルード自身がそう振舞っていたのだから。
「でも、本当は優しい人なんだと思いました。きっと、何か理由があってそうしているんだと思いました」
(ぼんやりしている割には鋭いんだな)
 宙を見上げ飴を舐めている彼女は子供のように見えた。しかし、彼女のその瞳はしっかりと意思を持っていた。
「本当のルードさんを知りたいと思いました。だから、側にいるようにしました。もっと知りたいと思ったんです、ルードさんのことを」
 真っ直ぐな目でルードを見つめる。
 心臓が高鳴るのを感じた。
 魔術による記憶の操作をされていても、あの記憶のことを心のどこかで覚えていたのかもしれない。
(忘れたほうが良い記憶のはずなんだけどな)
 永遠に忘れられるなら、忘れていたほうがいい。
(だから、俺のことも思い出さないほうがいいんだ)
 目をつぶる。
 苦しんでいた彼女。
 どうやっても、どう転んでも、悲しい結末にしかならないとわかっていた。
 それをわかっていて立ち向かうことを決心した彼女。
 だから、ルードも力を尽くすことを決意した。
 今の彼女は全てを忘れている。
(思い出さないほうがいいんだ)
 それはフィートに命令されたからじゃない。ルード自身がそう思うからだ。
「孤独な奴は可哀想か?」
「え?」
「孤独な俺が可哀想に見えるか?」
「そんなこと……」
 スティアは言い終わる前に言葉を続ける。
「そう思っているなら願い下げだ。俺は確かに魔力を失い差別の対象になった。騎士団の面々に無視をされ、孤独にも見えるだろう。だけど、俺は自分が可哀想なんて一度も思ったことはない」
 ルードは強い口調で続ける。
「同情や慰めで俺に構うならやめろ。俺は自分の意思でこうなった」
 鋭い目で彼女を睨む。
 戸惑う彼女が目に見えてわかった。しかし、ルードはやめない。
「俺はある事件で魔女を倒してこうなった。誰かが傷つくのを止めるために魔女を倒したんだ。そうしてその呪いをこの身に受けた。この体質は誰かを守った勲章と誰かを悲しませた償いだ。それを可哀想というならこの隊にさえいる資格はない」
「わ、私は……」
 その強い口調にスティアは震えてしまって、言葉を紡ぐことすらできなかった。
「これ以上、俺に近づくな」
 最後の言葉は、どうしても強く言うことができなかった。しかし、思いは伝わったはずだ。
「どうして、そんなこと言うんですか……」
 彼女は口元を手で覆って、目に涙を浮かべていた。
(これでいい)
 彼女が近づくことはもうない。
(あの時に俺の側にいた彼女は彼女じゃない。記憶を失って新たな人生を生きるのなら、俺という枷はないほうがいい)
 夕日が沈む。
 赤黒く染まった訓練場の中、ルードは彼女が買ってきてくれた料理に手を出すことはなかった。


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